現代シニア用語事典Ⅱ #2長寿ぐらしは孫との同居

 Ⅱ #2長寿ぐらしは孫との同居
*・*マイホームに「マイ」がない*・*
「国家・企業・マイホーム」
「財政赤字と家計黒字」
長寿である戦前生まれのすべての人が「国家中心の時代」から「企業中心の時代」へ、さらに「マイホーム中心の時代」へと三つの時代を体験してきた。そうしてたどってきた暮らしのすべてに体験をもつ人びとが、いまも一貫して「マイホーム中心」の立場に理解を示しつづけていることを見落としてはならないだろう。国民意識の振り子がひとたび「一億玉砕」という「国家中心」の果てまで振れた末に敗戦国となった。そのあとは、企業の成長と成果がそのまま国の復興の基となり、企業の安定がそのまま家庭の安定につながると考えることができた人びとは、進んで「企業戦士」となったのだった。戦士という生き方がステージを変えてつづいた。だから企業戦士にとって「マイホーム」は休息の場であり、家族の幸せのよりどころとなった。
国家も企業もわが家もどれも等しく重要なのであるから、三つが同時に等しく扱われることがあってほしいのだが実際にはむずかしい。個人の立場を重視する「民主主義」のもとで、半世紀に超一四〇〇兆円の個人資産をため込んだ一方で、超一〇〇〇兆円の財政赤字を抱えてしまった国家。それを軽視して振り子がさらに「マイホーム中心」の果てまで振れつづけたときにどうなるか。国家はおろか企業も立ちいかなくなって、わが家だけが平穏でありうるものか。そこでまた記憶をたどって「国家中心」の方向へと振り子はもどろうとするのか。穏やかに推移するとは思えない。
「マイホーム主義」
「核家族」
いまはなお「マイホーム中心の時代」。
マイホーム、耳にすると心安まる、なんともいえず響きのいいことばである。これほどまでに生活感を内包しえたカタカナ語を、他に探すのはむずかしい。いま高齢者となっている人びとがそれぞれの人生をかけて、二○世紀後半の五○年の間にその内容をつくった日本語なのである。だから細部の意味合いは個人によって異なる。個人として大切に保っているひよわなもの、よき(良き、好き、善き)ものを守る砦として、「マイホーム」は先行の「わが家」や「家庭」などとともに、それに負けない温もりを日本語として持つに至っている。そのぶん「ホームレス」ということばがわびしさを伝えてくる。
戦後っ子だったパパとママは「マイホーム主義」とからかわれながらも、狭いマイホームに身を寄せ合って暮らし、必死に働いて、ふたりの子どもを育ててきたのだった。夫婦と子どもふたりの家庭が都市型住民の典型となり、「核家族」と呼ばれ、「標準家庭」ともなったのだった。その後、職場まではいっそう遠くなっても、マイホーム・パパは、子どもたちそれぞれに一部屋をと考えて、団地からさらに郊外のプレハブ一戸建てに引越した。そういう体験をもつ人びとは少なくないだろう。
人生のはるか遠い地点までを見透かして、可能なかぎりの費用を工面してマイホームを獲得し、いまそのころ見据えていた地点の近くに高齢者として立っている。マイホームの当主としての存在感を確認するために、じっくりとわが家の中を見直してほしい。家族の希望をかなえることを優先して、そのぶんみずからの希望を抑えてきた結果、不相応な応接セットや家具といった家族共用品はあってもみずから求めた専用品というのは少なくて、「モノと場」に表わされた当主の存在感が意外に希薄なのに気づくであろう。
「ヒカラビてる人」
「ヨボヨボ・ジジババ」
ここでは実際に両親と子ふたりの核家族Fさんのマイホームを覗いてみよう。娘と息子がパラサイト・シングル(寄生独身者)をきめこんで、親元から出て行かない家庭。イエローカード一枚といった子どもを持つ「団塊シニア」であるFさんに登場を願うとしよう。
Fさんの上の娘は短大を出てフリーター暮らし。かせぎはほとんど衣装と海外旅行に消えている気配。下の息子はごく普通の大学をごく普通に卒業して、親のひいき目でもしっかりしてきたように見えるのだが、就職試験を受けて勤めはじめた有名輸送会社だったのに、短期でやめて家にいる。大学を出たのだからと本人の自主性にまかせているが、というより言っても聞かないから気儘にさせているが、同じ経緯をもつ友だちとパソコンやケイタイで情報のやりとりをして過ごしている。時折り出かけて「職さがし」はしているものの、「ニート化」(NEET。働くつもりのない若年無業者)への気配もある。
娘や息子の話を聞くともなく聞いていると、両親と同じ高年者を、「ヒカラビてる人」とか「ヨボヨボ・ジジババ」といっていることがある。時には父親を「アノヒト」、面とむかって母親を「キミ、元気かね」と呼ぶなど、軽くあしらわれていると感じることがたびたびある。
「この家はわたしが名義人なのだ」などというのも愚かしい。壁面に娘が貼った「のりか」(藤原紀香)のポスターほどには、底値までさがった土地の築二〇年という家の壁に存在感があるわけはない。
「わが家のブランド品」
わが家の中を見直して見る。本だなの本が動いていない。耐久性のあるものは、どれも十年以上まえに購入したものばかり。一方、暮らしの表面を流れていく日用品は、百均やスーパーものが多くなった。なかに妻や娘のルイ・ヴィトン(バッグ)やプラダ(バッグ)やディオール(服装品)やシャネル(化粧品)などといったFさんにもわかるブランド品も少しあって、そのアンバランスさに父親であり夫である自分への無言の不満が隠されているように思える。Fさんのブランド品といえるものは、後にも先にもオメガ(OMEGA 終わりの意)の腕時計だけ。専用品の希薄さは、みずからのために生きることへの自負の欠落でさえある。
「マイホーム」のために努めてきたはずなのに、と思うのはFさんのほうの都合であって、最も優遇されている仲間を比較の基準とするジュニア側は、そうは思っていない。「ツカエナイ親!」として、おおかたは現状に不満なのである。
「家庭内ホームレス」
両親には不満との葛藤を行動のエネルギーにしている子どもたちの体内に蓄積された「荒廃菌免疫」のありようを、つまりわが子の潜在的ワル度をFさんはつかめていない。当主として当然のこととしてきた家族への配慮が、「人生の第三期」にはいった自分を支える磁場の不在となってしまっていることには気づいている。
マイホームに「マイ」がない。では「新宿ホームレス」とどこが違うというのか。たとえ不在であっても、当主の存在感を同居人にきちっと示しているような家庭内の拠点が必要なのだ。そのための専用スペースの確保。といって、夫婦と子ども二人で最低居住水準をぎりぎりクリアしている3LDKの住まいだから、当主として一部屋をなんて余裕はない。子どもたちが親ばなれせずにいるから、それぞれ一部屋、それに夫婦の一部屋である。部屋の確保を謀って追い出し(子どもの自立)を試みても、獲得に失敗した末に孤立してしまうようでは、拠点どころか「家庭内ホームレス」になってしまう。となると共用スペースであるリビング・ルームの一画となる。要は、たとえ不在であっても当主の存在感をきちっと示せるようなコア(核)をつくることにある。
*・*「マイ・チェア」の即座の効用*・*
「当主不在の在」
「家庭内リストラ」
「家庭内の高年化」なのだから、されるのではなく、するものである。たとえ不在であっても、当主の存在感を示せるような「当主不在の在」としての「わたしのもの」の存在。いまリビング・ルームを見渡しても、何もかもがそうであるようでそうでない。おおかたは家族共用品なのである。
「家庭内リストラ(高年化)」はこれまでそういう意図がなかったのだから、際立って「わたしのもの」といえるものなどないのが当たり前。亭主関白といわれながらも、意識して自分のものを置いているという人なら、もうここから先は読む必要のない「先駆的現代丈人」である。
おおかたのマイホーム・パパは、常人であることを率直に認めて、わが高年期人生を輝かせる「丈人モデル」型の能力を、傍らにあって支えてくれる「高年化用品」を意識して配置することにしよう。蓄えてきた知識や積んできた経験をさらに深化・発展させることに資する「わたしのもの」を、いつでも利用できる状態に置いておく。身近にあって「わたしのもの」といった役割を担えればいいのだから、高価なブランド品である必要はない。日ごろから愛用しており、「わたしのもの」という存在感があればいい。これと決めた「高年化用品」を基点にして「家庭内リストラ」をすすめ、高年期の住環境を整えようというのである。まずはひと昔前まではNO・1の愛用品だった机と文具類。いまやパソコンとEメールの時代だから、久しく脇役に耐えていることだろうが、馴染んだ机は「高年者意識の据え置き場所」として確保して活かしたい。
「高年化コア(核)用品」
デジタル化で実用性を失ったがシャッター音と手触りの愉悦には変わりがないカメラ、部品の揃わないオーディオといった愛用機器。楽器。それにあちらこちらに散在していたのを全員集合!をかけてあつめた一二〇冊ほどの愛読書。碁・将棋盤やゴルフ・釣り具セット。優れた手仕事に感じ入っていた碗・皿・硯といった日用骨董品。明かり、時計、置物などのアンチーク(西洋古美術品)。日ごろ忘れがちな優美なものへの快さを呼びさましてくれる彫刻や絵画。造形や色彩が精細なものへむかう感覚を刺激してくれる貝や蝶。さらには地球儀、船・飛行機・汽車・車のミニチュア。素朴な木製アフロ・グッズ・・まだある。
どれも当主としてはお気に入りの「高年化コア(核)用品」の候補だが、多くはいらない。五~七点を自分で納得して選び、置き場所を決めればいいことだ。これと決めた愛用品を際立たせることで、家庭内に高年期のステージが立ち上がる。静かな「家庭内リストラ」が動き出す。そのうちに同居人が「パパのもの」としてその存在に気づくだろう。
意想外に地球儀なんかがおもしろそうだ。東アジアの隅にある島国ではなく、太平洋リング(大洋弧)の一角にありながら、経済や文化の上で大きな貢献をして輝いている「優れた小国」であることを、宇宙飛行士の視点で納得することができる。「小日本(シャオ・リーベン)」は、「粗野な大国」よりはるかにあってほしい慕わしいわが祖国の姿ではないか。
手にいれるのは困難な貴重種だそうだが、蝶の皇帝といわれる一頭の「テングアゲハ」なんかなら、華麗に舞う姿を思うだけで気分は晴れる。胡蝶に同化してひらひらと舞ったという壮年の荘子の「胡蝶の夢」は、味わって損はない。旨し「天の美禄」(酒)をとくとくと注ぐ「しりふくら」(徳利)でもいい。親ゆずりの高価な骨董品などがあれば、さりげなく実用にして活かす。高年期の願望を仮想空間に委ねる「わたしのもの」だから候補はいくらでもある。なければこれといったモノを探すこととなる。
「シニア・スペシャル(SS)シート」
「マイ・チェア」 
「団塊シニア」のひとり、Fさんには親ゆずりの骨董品など何もない。リビング・ルームを見直した末に、小さな庭と室内の双方が見渡せる窓際に、特別席「シニア・スペシャル(SS)シート」(高年者用特別シート)を据えることにした。会社でも窓際だし家でも窓際でと、居心地を合わせることにして。そして文字盤が気にいっている置き時計をサイドボードの隅に、旅先で入手したパピルスに画いた「狩猟図」と漢画像石の拓片「舞踏する熊」図を壁面の左右に飾ることにした。
Fさんの「SSシート」は、高年化時代を表現する「コア(核)用品」として、含みのあるいい選択のようである。重量感より意匠センスより何よりも座り心地を優先する。いうなればわが家の「玉座」「師子座」「座禅座」である。かつてインドでシャカムニが宝樹の下に座して思惟したように、わが人生の来し方と行く末を半跏思惟する座を自選するのだから、「マイ・チェア」として大切に扱うことにしよう。すでに愛用のイスをお持ちのみなさんは「マイ・チェア」と呼んでください。「マイ・チェア」に座して高年期人生の今日から明日へを静かに思惟する「半跏思惟」丈人となる。
「人間は誰しも『私の椅子』と呼べるような椅子を持つ必要があり、そうなって初めて自宅で本当に落ち着いた気分を味わえるのではないか」というのは、マイホームを建てたときから気にしていた建築家の提言で、まことにその通りと思っても、ローンをいっぱいに組み込んだFさんには、そこまでの「自己実現」の余裕はなかったし、家族思いの当主としてはそこまで自己主張をしなかった。いまその実現の時なのだ。老い先長い高年期を通じて、愛着をこめて使い込むことによって座り心地を熟成させてゆく「マイ・チェア」。即座の効用としては、家庭内に存在をアピールする磁場となる「高年化コア(核)用品」として、格別の思いを込めてそれなりの費用を投じて得た「シニア特別席=SSシート」を、家の中でもっとも居心地のよい場所に据える。
一日のしごとを終えて、「やれやれ」と腰を落とし、心を静めてひとしきり一日をふりかえる。「さて」と気を改めて明日を思い、「よし」と意を決して立ち上がる。それでいい。 それが「マイ・チェア」の即座の効用なのだ。どっしりと座って、からだの重みとともに来し方への充足感、行く末への待望感を委ねる。時には座して陶然として、すべてを忘れる「坐忘」の境地にもひたる。それなくして何の人生か。
「座る文化」
「古希杖」
Fさんの調べによれば、さすがに「座る文化」の歴史が長い欧米の製品には値切っても世紀の長があって、実にさまざまに意匠をこらしていて、見るからによく、座り心地もよさそうだという。最高の座り心地を誇るのは頭と腰がほどよくフィットする北欧製のリクライニング・チェア。競うのはドイツ製スツール、イタリア製アームソファ、カナダ製スウィング・チェアなど。いずれ劣らぬ「八面威風」の居ずまいがあるし、値段も思いのほか幅があるそうだ。
長い高年期を安らいで過ごすための拠点が「マイ・チェア」なのだから、かつて恋する人を失った苦い思いを繰りかえさないために、これといったイスと出会ったら思い切って投資(浪費)をする。後半生が始まる五〇歳の誕生祝いに購入するのもいい。そうそう「杖・ステッキ」も、おしゃれで品のいいフランス製やイタリア製やドイツ製、和風折りたたみ杖もあるが、名入りの彫刻をほどこした木製ステッキなら素敵な装身(護身)具になるにちがいない。五〇歳には「マイ・チェア」、六〇歳には「赤毛着衣」、七〇歳には「古希杖」、八〇歳には「傘寿がさ」といった通過記念の自祝品はどうだろう。どれも心躍る製品と出会えればいい記念になるだろう。
「チェア博物館」
二一世紀を貫く夢のひとつ。高年世代の人びとが、それぞれに座り心地がよい特選のイスをわが家に据える。家庭内の「モノと場の高年化」の拠点として存在感のある「マイ・チェア」として。各地にチェア工房が形成され、毎年の「チェア・コンペ(競技)」には、各国から腕よりの職人がやってきて技を競いあう。この国はそのまま「チェア博物館」となる。どうだろう、家の内と外、国中どこにでも座り心地のよいイスが据えられていたら、立ち疲れることもないし、優先されない優先席などいらない。二一世紀末の高年者たちは、世紀初頭に先々々代の「昭和人」が使い込んだ「チェア」に腰を据えて、愉快な座談が楽しめれば深く感謝するだろう。
たしか「チェアマン」(チェア・パーソン)というのは、議長や会長のことだが、高年化時代には、愛着をこめて自選・自作した「チェア」を保持して高年化社会の主役としての存在感を示す人のこと、といった「新チェアマン」の説明が加わることになる。どっかりと座って、しっかりと座視することで、わがこととともに周りの人びとの「人生への希望」もまた、はっきりと見えてくる。
*・*専用品をつなぐ暮らしの動線*・*
「超人生耐久品」
「三世代ステージ化」
家庭内の「高年化コア(核)用品」として、前節ではFさんの「マイ・チェア」を紹介したが、高年期の自己目標に立ちむかう能力を支えてくれる愛用品でありさえすれば何でもいい。
とはいえ、傍らにおいて生涯にわたって愛用していく「コア(核)用品」となれば、数年でモデルチェンジするような消耗品では役不足。だから日進月歩で変化する電化製品や車などは高価であっても評価が成り立ちづらい。といって「千年杉」を細工した違い棚のような鮮やかな年代主張はなくともいい。どうだろう、ここでの「高年化用品」というのは、五〇歳から終生あるいはもう少し先の「超人生耐久品」(遺産として残るほど)といったものとして、およそ三〇~四〇年は傍らに置くというあたりをメドとしよう。「高年化」は「長年化」でもあって、だから高年者だけが利用するという狭い意味ではない。
家の中のオープン・スペースに置かれているのは多くは家族共用の調度品、つまり「三世代ミックス」型用品である。そのうちで花器や草花の鉢植えや観葉植物や床の間の軸といった季節の気配を屋内に取り込む用品・用具は「家庭内高年化」にはほどよい素材である。ソファなど高級家具はそろっていても季節の気配が動かないリビング・ルームや客間なら「丈人度ゼロ!」としての評価を下しておこう。「家庭内高年化」のありようは、祖父や父親の姿にみたような相続特権に裏打ちされていた厳父気取りとはほど遠いものである。中年期に得た人生経験の成果を、「モノと場」として家庭内にさりげなく配して、みんなに納得された上でわが高年期の暮らしの拠点とするのだから、高年者意識をしっかり立てて仔細に工夫をしないと思わしい結果がえられない。
家族構成にもよるが、「三世代同居」のお宅だと、孫(青少年)、子ども(中年)、自分(高年)の三世代がそれぞれ優先・専用する「三世代ステージ化」が課題になる。これまでの家族共用品はそのままとして、高年者むきに特化した生活空間を創出するにあったては、同居人の生活動線を考慮しよう。同居人から生活空間の自由を奪うものでないことが理解されないと先に進めないからだ。いくつかの「高年化コア(核)用品」を決めて、それを基点にして専用品「パパのもの」を随所に配する。「北辰(北極星)その所にいて衆星これに共(むか)う」ということになる。
「モノ同士のモノ語り」
「家庭内丈人度」
「高年化用品」を季(機・気)に応じて差し替えることで、わが家のリビングで四季折り折りの「モノ同士のモノ語り」が楽しめることになる。こうしていくつかの「高年化コア(核)用品」とそれをめぐるいくつもの専用品(高年化用品)を配することで、存在感が希薄であった時に比べれば、当主としてのありようを喚起するしかけが見えてきたといえるだろう。同居人は、「チェア」や壁面飾りや日用品に示される当主の「家庭内丈人度」に関心を強める。それでいい。
外で優れたボランティア活動をしていても、わが家の中に高年者としての存在感がないようでは、ほんとうに優れた高年活動家とはいえない。ここでは「丈人モデル型の能力」を支えてくれる国産品、わが家に親しい友人を迎えるような興奮を与えてくれる「高年化用品」を創り出してくれる各地の熟年技術者のみなさんに熱いエールを送ってから先にいくとしよう。
「高年男子必厨」
「銘入り出刃一丁」
次にはキッチンの情景。
高年男子が「食」を知らないでいては、いつまでたっても女性との長寿の差の七歳は縮まらない。そこで高年期に入った男子は、志を立てて厨房に入ることにしよう。
「高年男子必厨」丈人として、日本橋・木屋や京都・有次あたりの包丁三丁(出刃・刺身・菜切)くらいは吟味して入手する。「銘入り出刃一丁」は有用な「高年化コア(核)用品」である。タイまではいかなくとも、中型のイナダやシマアジなんかを手ぎわよくおろして食卓に供する。さらに「旬の食材」もみずから用意する。今夜の口楽であり生涯の悦楽である食の道楽。味覚とともに調理もまたきわまりなく熟達しつづけていく「丈人モデル」型の領域なのだから、おおいに腕を振おうではないか。家人も喜ぶ季節メニューが増えれば悦楽は倍になる。
食器も形や感触を楽しめる専用品だ。自作のものを含めて「これはパパのもの」という食器が、食のシーンでの存在感を示す役目を担う。
「男子必厨」丈人によるキッチンの「高年期のステージ化」は、なごやかに緩やかに形成すべき難題である。得意料理をつくるところから入らず、食器の片付けや用具の手入れや調味料の整理あたりから、さりげなく構築していくことに秘訣があるようだ。
「丈人資格自己認定」
とこうして、いくつかの「高年化コア(核)用品」を基点として、いくつもの専用品をつないだ暮らしの動線が太く見えてくれば、「家庭内高年化」が成立したといっていい。マイホーム・リストラでの「丈人資格自己認定」ということになる。
「いまさら面倒やさかいに、わての人生はその三世代ミックスとやらで結構や」という人もいるだろう。人それぞれの人生やさかいに、ご随意にどうぞ、といいたいところだが、結論は試みてからにしてほしい。苦労して得たマイホームで、当主としての充足感が時の移ろいとともにヒタ寄せる体験は思いのほか快いことなのだから。
高年者意識を静かにしかし熱く立てて、家庭内の「モノと場」の高年化構想を固める。
「パパとママは落ち目、明日はボクラのもの」と早合点していた若い世代に、本来あるべき姿としての高年世代の「第三期の人生」を認識させることになる。ではもう一度、親しい友人を迎えるような終生愛用できる「高年化用品」を創り出してくれる各地の高年技術者のみなさんにエールを送って先にいくとしよう。
*・*近居より同居が未来型*・*
「エンプティ・ネスト」
「二世代住宅」
団塊世代よりやや高年の方の場合には、哀楽をともにして暮らした子どもたちが巣立っていき、移り住んだころの幼い姿などを「不在の在」として想い見るほどのスペース(「エンプティ・ネスト」。空になった巣)を、そっとしておくことができているご家庭も多いことだろう。
中年期に家計をぎりぎりまで工面して借り入れをし、都市郊外に住宅を購入して子どもを育て、子どもがそれぞれに自立した後は夫婦ふたりで暮らしているマイホームは、「二世代住宅」と呼ぶことができる。父として母としての立場で内容は異なるだろうが、子育てのいくつもの困難をクリアしてきた父母としての側の感慨のスペースであるとともに、子どもたち、とくに娘にとってはひそかな生活戦略にかかわるスペースでもある。
このところの傾向として、「世帯同居」は減り続けてきて、高年者(ここは六〇歳以上)の四〇%が同居を望んでいるのに、実際に孫と同居している人はいまや二〇%ほどに。桑田佳祐の「TSUNAMI」がトップという時代に、大泉逸郎さんの歌った「孫」が場違いといった感じでベストテン入り(二○○○年度の一○位)したことがあったが、減少傾向はなお続いており、願望ははやり歌の背景に遠のきつつある。
「孫育て」
孫はかぎりなくかわいい。「二世代住宅」に暮らしている父と母は、子どもが巣立ったスペースを今度は孫のためにしつらえ直して、三代目を養育する場を用意することになる。「近居の場合」は、離れて暮らしている分だけそれぞれの独立とプライバシーは損なわれることはないが、離れている分だけ問題回避型の接触とならざるをえない。幼い孫はかわいいし、張り合いをもたらしてくれる。そこで会うごとに何かと望みをかなえてやる、やさしいおじいちゃんとおばあちゃんになる。きちっとした「孫育て」には限界があるのはわかっていても、現状ではこのあたりが高年者にとっては標準的しあわせ家族となっている。娘が結婚して世帯を持ち、子どもが生まれる。「できちゃった婚」が並みの時代だから、結婚後一〇カ月のハネムーン・ベビーより結婚六カ月後が最多とかで、案外はやく確実に「ベビー(孫)」がやってくる。この二五歳までの出産期をはずすと、あとは先延ばしして三〇歳代に。これでは少子化に歯止めのかけようがない。それでも三〇歳の大台に乗って、なんとか子どもをと覚悟はきめたものの、養育・教育費は家計の重圧になるというし、マスコミを賑わす子どもたちの反抗・犯罪を目の当たりにして、不安はつのるばかり。そこで、「カアさん力を借して」ということになる。
「新エンゼル・プラン」
「実家依存症」
子育てに母親の助力を期待しすぎると、国をはじめ夫婦ふたりによる「新エンゼル・プラン」を理想として子育てを推奨している自治体、若いカップルを囲いこんで子どものしつけを教えるしごとをしている側からは、「実家依存症」といわれかねない。
それでも子育てに母親の助力(家族の含み資産)を期待して両親と同居して暮らすことを考える娘夫婦がいる。かつてシュウトメにわずらわされない専業主婦を求めた母世代の「核家族」指向から、専業課長でありたい娘世代の「二世帯同居」へのUターンである。
孫世代までを想定した「三世代同居型住宅」は、子どもの側からばかりでなく、新しい大型戸建て住居に住むという両親の側からの要請も少なくない。親世帯からは親子近居の解消、家屋の老朽化やバリアフリー化や大型住宅への願望などが主な理由で、加えてメーカー側の総合住宅指向、さらに融資や税の優遇もある。親世代の支援を受けて「少子化」を解消し、先人から引き継いできた「暮らしの知恵」を次世代にしっかり伝えられるような「三世代同居」型住宅が期待されることになる。
道路、橋、ハコ物という大型公共事業に頼ってきた建設業界も、地域住民の暮らしの基盤である住宅建設という基本に立ちかえる好機である。大都市型の「蜂の巣マンション」というのでは方向が逆である。地方都市の近郊農家の建て替えなどでは「三世代同居」型住宅がもっと指向されていい。三世代同居という「新・日本型標準住宅」を各地に展開して、新たな地域開発の潮流を起こすくらいでいい。国も「暮らしの知恵」を次世代に伝えられる「三世代同居」住宅政策を掲げて、思い切った税制や資金の優遇をおこなう必要があろう。
現状では政策も税の優遇も融資もそして世論の支援もケタが足りないのである。
*・*暮らしの知恵を孫に伝える*・*
「世同居住宅」
「長寿社会対応住宅」
大都市近郊に住むWさん夫妻は、娘家族の要望もあって、建て替えの負担を覚悟して「世帯同居」型の住居を建築することにしている。
メーカーを通じて調べてみると、事例は決して少なくはない。各メーカーともユーザー側のさまざまな要望に対応できるノウハウを持っており、住宅内のバリアフリー化はすみずみまで意識されている。部屋の配置はもちろん、つまづいて転倒しないよう段差をなくしたり、手すりを設けたり、階段の勾配を緩くしたり、車イス(訪問客もある)を考慮して幅広廊下にしたり、少ない動作で開閉できる引き戸にしたり・・などが実現されている。「家族とともに成長する住まい」を提案しているメーカーもある。すでに建て替えて「三世代同居住宅」に住んでいるお宅を実際に訪問する機会を提供しているメーカーもある。そこで、Wさんは参加してみた。古くからの由緒ある住宅地での建て替え住居だから外形も安定しており、街並みに落ち着きを与えていることがわかる。かなり大ぶりなサクラが庭の隅にあって、それを囲むようにL字型の二階家が建っている。
「家内の母が家族の成長記録とともに大事にしている樹でしてね」
Wさんの庭への視線を察して、ご主人がいう。夫妻のほかは高校生の娘と義母の四人家族。一階は母親の部屋と共用のスペース、二階に夫妻と娘の部屋と広いリビング。書斎もあって、「マスオさん」として「三世代同居」を成立させながら、マスオさんよりはずっと存在感があるように見受けられた。上下階の雰囲気に違和を感じさせなかったのは、母と娘の間に暮らし方の一貫性が保たれているからだろう。「三世代同居住宅」として申し分ないが、それでも義母の側の遠慮がちな気配が構造やモノに表われているのが気になったという。
住宅産業は、「長寿社会対応住宅」として「長寿社会対応住宅設計指針」(九五年、建設省)が出て一〇年余り、メーカーの配慮くらべで高年化対応がもっとも進んでいる業界である。住宅メーカーによって取り組み方は異なるが、どこも「世帯住宅」のノウハウを蓄積している。
そこまでは結構なのだが、せっかくの世帯同居型住宅にもかかわらず、どのメーカーの小冊子のモデル設計を見ても、共用スペースのつくりつけがミドル(+ジュニア)主体に寄りがちになっている。「三世代住宅」とは称しているものの、「離れた和室ひと部屋への高年世帯の引きこもり」が推測できるものが多くみられる。
これではほんとうの高年化対応住宅とはいえない。「人生の第三期」の主役として、長い高年期をゆったりと暮らす家ではない、とWさんも気づいている。孫とも接触がしやすく、祖父母からわが家の「暮らしの知恵」を伝えられる場としての共有のスペースはもちろん、「三世代のプライベート・スペース」を平等に織り込んだ住居と決めて設計にはいっている。
「ファミリー・ライフ・サイクル」
三世代それぞれの暮らしにバランスがとれた「三世代同等同居型住宅」は、高年者側が主体的に構築せねばならない。ジュニア(孫)との接触スペースなどは、可能なかぎり祖父母の側から提案すべきことである。高年者が自在に暮らす住宅としての具体的な要望が足りないために、メーカーから高年化対応に積極的な構造が引き出せないのである。
「三世代同等同居型住宅」は、三世代の暮らしの変化が構造に反映される「ファミリー・ライフ・サイクル」(家族変化の過程に応じる)住宅である。いまの家族の一まわり先を考慮した構造として表現される。三世代がそれぞれ三○年ほど先の姿とそこへ至るプロセスを想い描いてみるといい。もちろん「不在」の孫世代を参加させ、みずからの「不在」の時も考慮して。
メーカー側は、「世帯同居」型住宅は一〇〇年(センチュリー)、少なくとも六○年保証と自信をもっていう。いまの建築水準から耐用年限は五○~六○年は優にある。だから、およそ半世紀後に孫世代家族が中心で暮らす家や家並みをつくっていることになる。傷んだ住宅を修理しながら住んでいる高年世代からすれば、「近居」や「隠居型同居」ではなく、三世代が同等に暮らせる「三世代同等同居型住宅」が「新・日本型標準住宅」として指向され、「家庭内の高年化」への新たな試みとして、知識も活力も資力も注入して参加するだろう。それぞれの家族の態様や地域の特性に応じた改造を加えながら「わが家」が形成される。ライフ・スタイルの異なる三世代が、それぞれ同等にプライベートな生活空間を持ち、お互いに工夫して「わが家三代の暮らしの知恵」を共有していくことになる。
「三世代同等同居住宅」 
Wさんは、ライフ・スタイルが異なる家族が出くわすさまざまな場面で、「いっしょに考えて解決することができますから」と期待をこめていう。「三世代同等同居住宅」の実現をめざすWさんは、「世帯同居」丈人と呼ぶことにしよう。子育て期の女性が男子社員と伍して能力を十分に発揮できるよう支援をする「三世代同等同居住宅」は、企業の側からも歓迎すべきものとなる。そして何より孫世代にわが家の「暮らしの知恵」を伝える「母娘同居」という母系のつながりを有効に活かすことになる。母と娘がやりとりする継続性のある生活感、祖父母と接することによってもたらされる孫世代へのメリットには計り知れないものがある。
「うちのジージがね」といって自慢するジュニアが三分の一ほどいないと、この国の先人が残してくれた「暮らしの知恵」が次世代の子どもたちに伝わらなくなってしまう。同居しながら高年者をたいせつにするジュニアを育てる機会を家族。これもまた「高年化社会」を構築するために重要な「三つのステージ化」の一環なのである。

らうんじ*茶王樹*「百齢眉寿」


**
「百齢」は
百歳のこと。
大正元年(一九
一二)生まれの人が
ちょうど百歳である。
わが国では百歳以上の人が
五万人を超えてなお増えつづけており、
いかに史上稀な長寿国であるかが知られる。
「人生七十古来希なり」といわれ、七〇歳が
長寿の証とされてきた。とすれば百歳ははるか遠い願望だったろう。
「眉寿」は長寿のこと。老齢になると白い長毛の眉(眉雪)が生えて特徴となる。
同じ唐の書家虞世南は「願うこと百齢眉寿」(琵琶賦)と記して百歳を願ったが、
八〇歳を天寿として去った。「七十古希」の杜甫は五九歳だったから、
長寿への願望は遠くに置いたほうがいい。
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「百齢眉寿」
20120209

現代シニア用語事典Ⅱ「まったなし日本長寿社会」目次

現代シニア用語事典Ⅱ
「まったなし日本長寿社会」
目次Ⅱ#
Ⅱ#1老人か丈人か高齢者か
Ⅱ#2長寿ぐらしは孫との同居
Ⅱ#3家庭用品の「アジア共栄」
Ⅱ#4新スグレモノと再リストラ
Ⅱ#5地域開化と四季のめぐり
Ⅱ#6人民・市民・国民として
Ⅱ#7三世代同等型社会をこう生きる
Ⅱ#8昭和丈人の多重思考 

現代シニア用語事典Ⅱ #1老人か丈人か高齢者か

Ⅱ#1老人か丈人か高齢者か
*・*「七十古希」から「百齢眉寿」へ*・*
「長寿社会」と「高齢社会」
「普遍的長寿社会」は人類の願望である。すべての個人にとって、健康で安心して暮らせる「長寿人生」が目標であることにも変わりはない。「長寿社会」というのは、青少年・中年・高年者すべてにかかわることがらであるが、「高齢社会」は高齢化に遭遇している高齢者が体現者として努めて形成する社会である。何も努めなければそれは「高齢者社会」でしかなく、次世代にとってはいずれ負担となる。三〇〇〇万人に達したわが国の高齢者(六五歳以上)が参加して形成する「日本高齢社会」は、わが国独自の経済、文化、伝統のもとで、独自のプロセスを案出しながら達成される。それは史上で世界で初の「高齢社会」であり、高齢化途上国にとってのモデルとなる。
「長寿時代のライフサイクル」 
これまでライフサイクルというと「乳幼児期」「少年期」「青年期」「壮年期」「老年期」という五つのステージ(年齢階層)として説明されてきた。だれもが経験的に知って納得していることだから間違いというわけにはいかない。しかしこの分け方は二五歳までに三つの階層があることからも知れるように、発達心理学からの階層分けであって、高齢期を暮らす人に配慮したライフサイクルではない。高齢時代には加齢学的な観点から、逆に高齢期に三つを配するといった階層分けを考慮する必要がある。ここでは二五年間ずつ三つのステージを「三世代」に等しく割り振りながら、高齢期を暮らす人の実感に配慮したライフサイクルを提案している。学問的にうんぬんするつもりはなく、実感として納得していただければいい。
***
青少年期  〇歳~二四歳 自己形成期
バトンゾーン二五~二九歳 選択期
中年期   三〇~五四歳 労働参加・社会参加期
パラレルゾーン 五五~五九歳 高年準備・自立期
高年期   六〇~八四歳 地域参加・自己実現期
長命期   八五歳~   ケア・尊厳期
(自立・参加・自己実現・ケア ・尊厳は国連の「高齢者五原則」)
***
といったあたりが、高齢者がみずからを顧みて納得できる「長寿時代のライフサイクル」といえるだろう。「バトンゾーン」というのは個人のライフ・スタイルによって生じる幅であり、青少年期にいれるか中年期にいれるか、モラトリアム期として過ごすかは個人が選択すればいい。「パラレルゾーン」というのは「パラレル・ライフ」(ふたつの人生)期にあることで、「高年準備期」である。窓際族なんかでヒマつぶしをしている時期ではなく、二五年の高年期を自分らしく生きる自己実現のための模索(自立志向)期でけっこう多忙なはずなのだ。「定年後は余生」などと考える旧時代の「老成」タイプの高齢者意識が、長寿時代のこの国の「高齢社会」形成に自然渋滞をもたらしている。「高年期」での地域参加・自己実現の二五年をどう体現して暮らすかの工夫が人生の差をつくることになる。もちろんその活動は、高齢世代みずからのものであるとともに次世代のためのものであり、可能な範囲でなお中年・青少年を支援するものでなければならない。別のところでも引用するが、「自分がその木陰で憩うことがない樹を植える」(W・リップマンのことば)という配慮を忘れないこと。
「賀寿期五歳層ステージ」
これはパイオニアとして「長寿時代」を暮らすための知恵であり、本稿のウリのひとつである。知ると知らないとでは高齢期人生に雲泥の差が生じる。前項の表の「高年期」と「長命期」をひとつひとつの「五歳層」に分けて、その年齢層らしく迎えては過ごす。なだらかな丘をゆっくりとマイペースでトレッキングするような爽快感があればいい。「定年」のあとを「余生」と決めて、孤独な不安にも耐えて生きるのが男の美学というならそれでもよい。いつ訪れるか知れない死はひとりのものだからだが、生き急ぐことはない。中年期のしごとがつらかったから遊んで暮らしたい、人間関係に疲れたからひとりになりたいという人の自由を奪うことなどできない。先人は見定めえない人生の前方に次々に賀寿を設けて個人的長寿のプロセスを祝福して楽しんできた。いまも「何何先生の賀寿の会」はそれぞれに祝われている。しかし六〇歳以上の約三九○○万人の高年者が多くの仲間とともに暮らして、励まし合いながら百寿期を目ざすのもいいではないか。
***
還暦期(六〇歳~六九歳) 昭和二七年~昭和一八年
古希期(七〇歳~七四歳) 昭和一七年~昭和一三年
喜寿期(七五歳~七九歳) 昭和一二年~昭和八年
傘寿期(八〇歳~八四歳) 昭和七年~昭和三年
米寿期(八五歳~八九歳) 昭和二年~大正一二年
卆寿期(九〇歳~九四歳) 大正一一年~大正七年
白寿期(九五歳~九九歳) 大正六年~大正二年
百寿期(一〇〇歳以上)  大正元年以前
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昨年は日野原重明さんが百寿期に達して話題になったが、今年は新藤兼人さんが到達する。卆寿期には瀬戸内寂聴・水木しげる・鶴見俊輔さんが、傘寿期には樋口恵子・堂本暁子・岸恵子さん、石原慎太郎・五木寛之・仲代達矢さん。そして古希には小泉純一郎・小沢一郎・松方弘樹・松本幸四郎・青木功・尾上菊五郎さん。七〇歳になったからといって老成することはない。ご覧のとおりまだまだ先がある。仲間といっしょに人生の新たな出会いを楽しむ日々が待っているのである。
「七十古希」
「人生七十は古来稀なり」と詠った杜甫の詩「曲江」から七〇歳を「古希」と呼ぶようになったという。唐代より前に何といっていたかは知らない。それでも「七十古希」はすでに一二〇〇年余の経緯をもつことばである。古来稀れなのだから七〇歳はよほど稀れだったのだろう。杜甫自身は旅先で貧窮のうちに五九歳で没している。杜甫が詠ってたどりつけなかったことから「古希」がいわれ、七〇歳が長寿の証として納得されてきた。
杜甫の時代の長安は安禄山軍の侵入を受けて「国破れて山河在り、城春にして草木深し」(杜甫「春望」から)といったありさま。杜甫は意にかなわぬ日々を酒びたりで送っていたらしく、「酒債は尋常行く処に有り、人生七十は古来稀なり」(酒の付けは常にあちこちにあるけれど、あってほしい七〇歳は希にしかない)と有るものと無いものとを対比している。いまは酒もあるし古希もまれでなく両方がありあまる時代だからこの対比に味わいがなくても仕方がない。高級官人は七〇歳になると国中どこででも使える杖をもらって「杖国」と呼ばれたという。阿部仲麻呂は七〇歳を越えて生きたから立派な「古希杖」を拝受したことだろう。
「百齢眉寿」
「百齢」は百歳のこと。大正元年(一九一二)生まれの人がちょうど百歳である。わが国では百歳以上の人が五万人を超えてなお増えつづけており、いかに史上稀な長寿国であるかが知られる。
「人生七十古来希なり」といわれ、七〇歳が長寿の証とされてきた。とすれば百歳ははるか遠い願望だったろう。「眉寿」は長寿のこと。老齢になると白い長毛の眉(眉雪)が生えて特徴となる。同じ唐の書家虞世南は「願うこと百齢眉寿」(琵琶賦)と記して百歳を願ったが、八〇歳を天寿として去った。「七十古希」の杜甫は五九歳だったから、長寿への願望は遠くに置いたほうがいい。
「転結の青春期」
「日々これ青春」という人生があってもいい。大きな富士山型の山ひとつの人生ではなくて、二〇年ごとの起伏を繰り返す連山型人生として、八〇歳までに四つの青春を生きたひとりに数学者の森毅さん(一九二八~二〇一〇)がいる。八〇年間を二〇年ごと四つのリフレインを意識した点に創意がある。ここではひとつずつ山波ごとに次のような五つの特徴を付けて呼んでいる。
***
初の青春期 〇歳~一九歳
起の青春期 二〇~三九歳
承の青春期 四〇~五九歳
転の青春期 六〇~七九歳
結の青春期 八〇歳~
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とすれば、森さんは「結の青春期」を過ごさずに山を下りたことになる。六〇歳からの「転の青春期」二〇年は、これまでに蓄積してきた知識や経験を活かして新たな人生展開を楽しみながら暮らすいい時期である。その成果によって「まとめ(結)の時期」もまた愉快なものになる。 
「体志行の三つのカテゴリー」 
家人がだれもいない時に、裸形の自分を三面鏡に映してみよう。六〇歳+のからだが眼前にある。上・下半身とながめて、男性なら腹部に女性なら胸部に手をやるのが自然なふるまい。そしてこんなものと納得するのが心の動き。この「からだ=体(健康)」それに「こころ・こころざし=心・志(知識)」それに「ふるまい=行(技術)」という三つが人間(人生)としての存在であり、この三つ以外にないというのが、東洋の哲学が教える人間(人生)観なのである。
そういう存在の意味合いが納得できるのは、やはり体のどこかに故障を生じ、行動が鈍くなり、物忘れが重なるといった自覚が現れる高齢期になってからのこと。そこから「体・志・行」に配慮した人生を始めればよい。健康に留意し、人生を通じて右片上がりの知識や技能をたいせつにして暮らすこと。この三つをバランスよく働かせることによって、高齢期の人生は楽しいものになる。
「青少年期」「中年期」の五〇年間に積みあげてきた健康や知識や技術や有形・無形の資産には差があり特徴がある。それらをバランスよく活かしながら暮らしている人が、敬愛すべき「現代丈人」のみなさんである。スポーツ界では「心技体」として認識されているのは、スポーツでは心の構えが技・体の差をつくるからである。高齢期が「体志行」なのは、体が志行を左右するからである。 
*・*「老人力」から「丈人力」へ*・*
「日本列島総不況」
一九四五(昭和二〇)年八月一五日、三〇〇万人を超える犠牲者を出し、「国敗れて山河在り」という戦禍を残して大戦は終わった。戦禍はみんながこうむったが、とくに大正生まれの人びと(終戦時に二〇歳から三三歳だった)は、戦場で仲間を失い、一家の柱を失った家族を傍らに見て支え、運よく生き延びた思いを噛みしめて、恒久平和を骨に刻み、主権在民を心に銘じて、粒粒辛苦して働きづめに働いてきたのだった。
実直な立場からすれば、「昭和元禄」とか「飽食の時代」とか評されるような繁栄には違和感があったが、みんなが等しく貧しさを克服し豊かさを共有できる「社会主義的・平等主義的・自由経済の国」(大正人でソニー会長だった盛田昭夫さんのことば)としての成果をほぼ成し遂げたのだった。九割中流を実感した人びとである。
これから高齢期の人生を迎えようとしていた功労者を、「日本列島総不況」が襲ったのは、前世紀末のころだった。このことばを使って全国の中小企業への不況の到来を表現したのは、当時の経企庁長官だった堺屋太一さんである。
「がんばらない老人力」
働きづめに働いてきて、以後をどう暮らすかに思い悩んでいた高齢労働者を慰労してくれたことばが「老人力」(建築家の藤森照信さんと画家の赤瀬川原平さんによる命名)だった。人生の晩期を迎えて、衰えていく自分の姿をすなおに見極めながら、がんばりすぎずに巧みにクールダウンしてゆく自己認識の能力を「老人力」と呼んだ同時代人のことばに納得して、多くの高齢者はみずからの判断で体を休め、疲れを癒した。多くの人が納得することで、「老人力」は流行語になった。これは誤解のないように別の項で詳しく述べるが、戦争ののち一貫して加工貿易国として「丈夫で長持ちする」優れた中級製品を提供してきたわが国の丈夫で長持ちする熟練高年労働者が「がんばらない」ことが、遅れて追い上げてくる途上諸国の近代化のために必要だったのである。日本の高齢者が足踏みをすることで、この国に「若年化と女性化と途上国化」をもたらすことになった。新世紀になって、この国の「若年化と女性化と途上国化」が一段落したところで、現役としてなお社会参加をつづけようという熟年技術者が数多く登場している。「老人力」に収まらない積極的な活動を求める人たちである。
「老化モデル」と「丈人モデル」
五〇歳どころか「三○歳すぎれば右片下がり」に少しずつ老化・衰弱していくというのが、ごく一般の「老化モデル」として知られてきた。実際に体力の限界や視力の低下などで体験するものだから、だれもがそう思い込んでいる。それに変わりがあるわけではないが、それに重ねて、「人間は生涯を通じて発達する存在であり、機能低下は死の直前になって直角的に起こる」という「終末低下モデル」が示されている。学問的には「ジェロントロジー(加齢学・老年学)」というが、この統合的な学問分野から高年期に関する体系的で臨床的な成果が次第に明らかにされるだろう。人生を着実に歩んできたという自負をもつ高年者の方なら、生涯を通じて発達する能力を実感として認めることができるはず。生きる意欲を支えて生涯にわたって右上がりである能力を、本稿は「丈人モデル」と呼んで大切に扱っている。ここでの「老化モデル」と「丈人モデル」もまた、高年期の能力を理解する上での多重標準なのである。
五十歳代パラレル・ライフ
「人間五十年」をすぎれば、だれもが右片下がりの機能(老化モデル)があるのに気づく。髪に白いものが増えるし、人生での自分の到達点におよそ見定めがつく。その一方で、多方面にわたる経験や蓄えてきた知識によるバランスのよい判断や洞察、手づくり技術の錬磨、芸能・芸術の表現といった、生涯どこまでも発展・熟達する機能(丈人モデル)のあることにも気づく。そして何より人間(自己と他者)への想い、さらには歴史や伝統への関心と理解などといった、生涯どこまでも深化してゆく能力の存在を認めることができる。いまは「人間五十年」はそれを限りとしてというよりも、後半生への見通しをつける刻みとして、健康保持や人生設計といった観点での準備はじめの時として意識されている。ここいらあたりからが「ふたつの人生」である「中年期」から「高年期」へのパラレルゾーンであり、「高年者意識」のはじまりの時期といえよう。五○歳代後半が「中年期」から「高年期」へと移行するパラレルゾーンといっても、どちらに重心があるかは職域や地域に対する個人の意識の度合いによる。
いずれにしても体力も知力も技術力も資力も充実した六〇歳代の「時めきの人生」への準備期間なのだから、「窓際族」なんていわれて能力を確保するチャンスを閉ざして過ごすことはあってはならない。五〇歳代の人びとの停滞と萎縮は、一人ひとりの人生にとってマイナスであるばかりか、総体としての「日本高齢社会」達成のためにも手痛い損失になってしまうからである。  
「三〇〇〇万人の衆志成城」
このまま推移したら、高齢者はどう扱われるのだろう。すでにあちらこちらで顕在化しはじめているように、中年者層の人びとに負担を強いることになって、経済のグローバル化で苦闘している中年世代を支援するという時代の要請にも応じられなくなってしまうのである。次第にはっきりしてきたことは、「格差」を容認することになった社会のもとで、公的支援や個人の善意のとどく限度を越えたところで広がる弱者への軽視・黙視。家族内のあるいは一人暮らしの「老齢弱者への虐待」の事例が潜在して増えることになる。
「こんな社会をつくるために苦労したわけではなかった」とつぶやきながらも、「でも自分の余生だけは」と考える。「こんな社会は許さない」(丈人モデル)ではなく「自分だけは」(老化モデル)という利己的な声を認めて沈黙するとき、「悪事は千里を行く」という通り魔的風潮がはびこる時代にむかうことになる。高齢者みんなが動かず変わらずに、現状のまま「ゴムひも型高齢人生」を送ることで先方に見えてくる情景である。将来を不安なままに国の施策にゆだねて「自分だけは」と願いながら暮らすなら、そうならざるをえない。他を見て見ぬふりをするというのは弱者の思考であり、結局は切り捨てられる側にあることを後に知ることになる。「現代丈人」に属するひとりとして、それを知って黙って見過ごすわけにはいかない。みずからが意識して現状を切り開くとともに、三〇〇〇万人(票)の高齢者の意思をひとつにして存在感を示し、「三〇〇〇万票の衆志成城」をもって国の施策に変革を迫る時期を逸してはならない。
*・*街談巷議の関心は悪意にある*・*
「荒廃の末のXデー」(暴動?)
「なまぬるい幸せなんか押しつけないでほしい。不幸な体験だってしてみたい」
「戦場に生きるなんて実感は、人生の極みじゃないか」
「善意なんて何も生まないよ。悪意が行動のエネルギー源なんだ」
「遊んでるくせして、うるさいじいさんはいらない」
一回きりの人生だから、気ままにいろいろな体験をしてみたいという若者に、幸せであることを願いすぎることも、平和であることを望みすぎることもできない。人間のもついくつもの本性が歴史をくりかえす。よしそれが愚かな選択だとしても。
昭和一○(一九三五)年生まれで、いまやちっとも稀れではない「古希」を通過したTさんは、時代の行く先のまだ見えないらせん階段の上の方から、姿が見えないデーモン(悪魔)の叫ぶ声が聞こえるという。近ごろは、父母や自分が蒙った戦時中の惨禍や戦後の混乱を、繰り返してほしくない体験として後人に伝えるという営為が、無力であり無益であるとさえ思うようになった。進み出したら引き戻せない「惨禍へのプロセス」を、またたどることになる気配。だれも回避する術を持ちえなくなって、不幸な結末を負うことになるのは、何も知らない子どもたち。
海外とくに途上国への進出や先端技術の開発によって、マクロ経済的にはしばらく現状維持するものの、社会的にはあれこれの格差や亀裂が生じて内部荒廃へむかうとする予測に実感があるとTさんはいう。このまま推移すれば、巷に敵意があふれて、ある日、予測Zが的中して「荒廃の末のXデー」(暴動?)がやってくる。もっとも「予測」をする連中は、丘の上から阿鼻叫喚を見下ろしていられるのだから、Tさんが憂慮するような現実に直面しても「予測的中!」を納得して傍観できる立場にある選ばれた少数の人びとだ。そんな連中のご高説に耳を貸す時期はもう過ぎている。
「金輪際、わたしはつきあうことはないが」と、Tさんはまっ白くなった髪を掻きあげながら、緊張感を解いた顔で結論づけて引きこもる。Tさんの歴史意識を覆すのはむずかしい。 
「荒廃ベクトル用語」
経済アナリストの分析よりはもっと荒々しいのが、夕刊紙や週刊誌(女性雑誌も)やマンガ雑誌である。その多くは、一般市民が「荒廃の末のXデー」(暴動?)を迎えるにあたっての免疫抗体を体内に造り出すために、毎号毎号、悪逆非道な人物たちを探し出しては、手を替え品を替えて内幕を暴きつづけてきた。より強い「流行性荒廃菌」に対しては、より強い免疫抗体を体内に形成するためにである。
拾えばページから溢れるほどあるものの、ここでは三~四行分だけ、週刊雑誌の類から「荒廃ベクトル用語」をもった見出し語を並べてみよう。
狂気 抗争 挑発 怒号 罵声 悲惨 惨劇 醜悪 堕落 嫌悪 悪意 破壊 下流 地獄 逆襲 不法 非道 欺瞞 汚辱 凄絶 悪徳 横領 餓鬼 殺人鬼 修羅場 非常識 犬畜生 羊頭狗肉 魑魅魍魎 暴く ぶっ壊す 騙す 危ない 破る 淫ら 潰し 酷い 大嫌い スッパ抜き いじめ ハレンチ アホ バカ クビ ウソ ワースト ハルマゲドン・・
「街談巷議」の関心が「シラジラしい善意よりドスグロい悪意」にあるというので、記者たちは悪意、悲惨、狂気に満ちたニュースを、鬼神に魅入られでもしたように競って追いかけているが、ひと昔まえまで「オニ記者」というのは、「巨悪もおそれぬ閻魔王のような記者」ではなかったか。それにしても「悪徳の栄え」ならまだしも、「悪徳すら堕落」とでもいうべき風潮を拡大する「悪をあばく者」としてのしごとが愉快であるはずはない。
おもに「週刊」というメディアの場で、表現の自由をよりどころに「悪をあばく者」としての編集長やデスク(副編集長)は、迫りくる「地獄の季節」に備えて、読者が「免疫力」を養っておくことの「負の公益」を、しごとの支えとしているのだろう。阿鼻叫喚の渦の中へ記者たちをのみ込んで、奈落へむかう大海嘯の勢いは衰えを知らない。
さあたいへん。本稿も、「丈人という欺瞞」など、前出の見出しの三つ四つを貼り付けられて濁流にのみ込まれることを覚悟せねばならず、「仕っ方ないすよ」と同情されることになるだろう。部数は遠く及ばずとも、刊行をずらした隔週刊や月刊誌や通販誌のなかに、高年者を対象として誠実に着実に情報を送りつづけているメディアがあることは救いであるが。
「悪事は千里を行く」
Tさんは、昭和のはじめに、世界不況のただなかで、国際的孤立と挙国一致の軍国主義化がすすむ中で、四人の子どもの末っ子として生まれて育った。国民の意識と活動の振り子が、家庭から国家へと大きく振れていく中で、両親は明るい将来を約束できなかったことだろうが、明るいことばが飛び交う家庭だったと記憶している。父は戦時中に死に、父方のいなかに疎開して、都会育ちの母は子どもたちには分からない苦労をしながら子どもたちを育てた。Tさんは兄や姉やいなかのいとこや仲間たちと、戦争ごっこをやめ、譲ってもらった教科書を黒く塗って、戦争責任などまるで関係のない戦後っ子として伸び伸びすごした。どこにいってもみんな貧しく、だれもがひもじかったけれども。
いままた不況下での閉塞感、財政難、そして軍事化と国際的孤立の気配。それに構想力を感じさせることばで語りかける優れたリーダーの不在。両親が直面していたとよく似たシーンに、いま自分が立ち会っているのではないかと感じている。不幸な事件との再会の予感。衣装を替えた登場人物によって「歴史悲劇の再演」ということになるのか。
「好事は門を出ず、悪事は千里を行く」という時代風潮。歴史に稀れな高齢化の時代に生きているから、「歴史の証人」として、同じ方向へのらせん的転回をふたたび目の当たりにすることになるのか。孫の翼くんや翔ちゃんは、こういう風潮に柔らかい膚をモロに曝しているのだからたいへん。先生から「名前のように大空を飛ぶような夢をもって」などといわれても、素直に「ハイ」とはいえない。コマーシャルで「残酷な時代を生きる君へ」と呼びかけるオトナの社会へのバリアをつくって、子どもたちはやさしくない心根の服を身に着けて家を出る。
*・*世代間に広がる亀裂*・*
「もう待てない中年現役世代」
政治の「アメリカ一極化」と経済の「グローバル化」(世界同一化)の力によって、きしみながら新世紀へと舞台は回った。この一〇年ばかりの間、日本社会が受けた激しく際立った変容は、若年化とIT化と女性化だったから、パソコンとケイタイを駆使する若い娘はいつしか、「わたしが主役!」として振る舞うようになり、「世の中はますます悪くなる」とグチりつづけて定年を迎える父を脇役とみるようになった。わずかこの一〇年ばかりのことである。
つつがなく進んで二一世紀に迎えるはずであった国際社会の課題は「高齢化」であった。
それを覆してしまったのが、政治のアメリカ一極化の突風とひた寄せる(途上国主導の)経済グローバル化の波濤であった。ヨーロッパの先進諸国とともにわが国もまた「高齢化」が予測されていたにもかかわらず、まともな「高齢社会」への構想とてないままに対応が遅れていたところへ、相撲取りがボディーブローをまともにくらった態の日本企業が、自衛策としてあわてふためいてとった「再構築」(リストラ)の手段が、若年化と女性化とIT化、そしてやや遅れての途上国進出であった。角度を変えて言い添えれば、一歩送れて成長期にはいった途上諸国とつきあうための「途上国化」であった。
「先進国型の高齢社会」への推移を迎えるはずが「途上国型の若年社会」に出くわして、二重の災難に見舞われることになった高齢者。その上に身に覚えがない財政難による年金の減額や医療費の負担増、予想される消費税大幅増税といったシワヨセとヒッペガシ。さらに「団塊世代の高齢化」による多数派の形成。静かに推移するはずだった老後に、渦まくほどに状況悪化が予測されるに及んで、「おちおちしていられない高齢者」が急増しているのである。そこに「もう待てない」と言い出して、いらだちに近い懸念や要請を示しはじめたのが、企業の生き残りのために身を挺することを余儀なくされた中年の現役世代だった。
「資産塩づけ論」
企業の生き残りのためとはいえ、ことあるごとに成果主義を強いられれば、同僚との間でも同業社間でも、親和の感性が磨り減って働かなくなる。実質賃金の目減りにも黙々と耐えてきた中年層の人びとの胸の奥に、将来への不安とともに高年者への不満がわだかまる。
高齢者は現役世代がムリして負担している年金を受け取りながら、次の時代に、「われ関わり知らず」として暮らしているのではないか。あいまい模糊としていたいらだちは、次第にふたつの方向に要約されて、懸念や要請として納得されることになった。
ひとつは、家計の金融資産とされる約一四〇〇兆円で、そのうち五〇歳以上の世帯が七五%までを保有しており、多くを抱えた高齢者が次の時代に関わりなく「引きこもり」の余生を送っている。アメリカやヨーロッパでは時代の推移と連動しながら人も動くしカネも動く。アメリカなら株式・出資金にまわるものが、日本では現金・預金(半分を越える)のままで動いていない。そのため起きているのが資産の塩づけ。時代の動きに対する高年層の人びとの不安や無関心が経済活動の効率を悪くし、企業活動の手足をしばっているというのが「資産塩づけ論」である。
「資産移譲論」
消費を活発にするためには、使わない高年者から使い手の若年者へ資産をトランスファー(移譲)すべきではないのかという「資産移譲論」が力を増す。
いくら構造改革であがいても、景気回復でもがいても、いっこうに進まない要因が、高年者層の支援の欠如にあるというものである。「塩づけ資産移譲論」には若手の現役世代からもおおいに賛同の拍手がわきそうな懸念や要望である。だが、「待ちたまえ、諸君が高年者になった時のことを思えば、そう簡単にいえることではない」と、企業内では脇役を余儀なくされている定年間近の団塊世代のひとり、Fさんは眉間にシワを寄せて真顔になっていう。「世代間の亀裂」がひろがる。
*・*「ツカエナイ親」とはなんだ*・*
「ひっぺがし」
「塩づけにできる資産などどこにもありはしないし、いまでさえ家庭では子どもたち、とくに娘によって、強奪に近い形で資産移譲が行われているのだから」
と、娘をもつ団塊世代のFさんはいう。女性が国の経済、社会の担い手といいながら、どれほどの若い女性が自分の実力(かせぎ)で暮らしているのだろうかと、ローライズ・パンツ(体型ギリギリのヘソ出し衣装)からいそいそとディオールのパーティー・ドレスに着替えて、自在に「変衣変性」する娘の姿をみながら、際限なしの「女性化」に懸念をもっているのである。「時代の花」として娘たちを擁護し、社会の女性化を推進する立場からは、無条件に、両親や祖父母の「六つの財布」からうまくせしめるのも実力のうちとする意見もあり、何より娘たちは「ひっぺがし」が当然と考えている。
「ツカエナイ親」
人並みに応じられないと、「ツカエナイ親!」としてあしらわれる。「ツカエナイ娘」といいかえせない。うかうかしていると、心優しい高年者からまず、居る場所もない、おカネもないになりかねないのである。新世紀になって、若い女性やIT青年たちとともに輝いているはずだった高年者が居場所すらなくなるとは何たる仕打ち!
職場ではIT音痴と軽視され、売れ筋ヤング製品の現場からはずされ、はてはリストラの対象となる。「ハローワーク」(公共職業安定所)の窓口の混雑ぶりや、上野公園や新宿などの「ホームレス」用の青テントの群れや炊き出しに集まっていた人びとを思うたびに、Fさんには、高齢者だけが子どものころに見た戦後の「ふりだし」へと戻って行くように思えてくる。いったいだれが振った賽の目が悪かったのか。
「家庭内ホームレス」
高年者が暮らすのにふさわしいステージは「ふりだし」の位置、つまり「ステージレス」の状態にあるといえる。家に居場所がなくなって「家庭内ホームレス」に、そして屋外でも「ステージレス」である原因はどこにあるのか。このまま推移していては、高年者のだれもが不安なく暮らせる社会、少なくともそこへ向かっていると感じられる社会は、招き寄せようもない。
おちおちなんかしていられない。といって、高齢者だけが犠牲になっているわけではないことにも注意しておこう。決して少なくはない優れたIT青年たちが、技術開発の内向的な作業の中で行方を見失い、使い捨てにされて社会と断絶していく。若い女性も華やいでばかりはいない。アルバイトや派遣社員なのに能力にあまる荷重な実務を引き受けて体調を崩し、ときには鬱病に陥り、外界との関係を遮断していく。繊細な感性の持ち主ほど傷ついているのである。引きこもりの傾向は、即戦力を期待されて入社したものの適性に不安をつのらせて出社しなくなる「新入社員ニート化」としても広がっている。
そんな状況に包囲されて、現状を支えている中年世代の人びとは、いつしか「自己チュー」(自己中心主義)に陥ってしまう。しかしここはこれ以上に世代間の亀裂を深めることは止めようではないか。
とくに中年社員はこれから論じる「高年世代による高年時代のためのステージの創出」に期待して、先輩の果敢な挑戦を見守るのがいいと思う。得られる経済波及効果は将来にわたって大きいし、その成果はいずれは次世代の人びとの資産となるのだから。
*・*いさぎよい隠退の功罪*・* 
「君子的ひきこもり」
現役世代が負担している年金を受け取りながら、次の時代に「われ関わり知らず」として「引きこもり」の暮らしをしている、といわれてみれば、高年齢者は誰にもそういう傾向があることを否定できないだろう。
かつては業績を残した先輩の「いさぎよい進退」が、後輩に活動の場を残し、将来への安心感と励ましを与えてきた。だれもが穏やかに「余生」に入れたころはもちろん、いま企業や組織の「高齢者リストラ」がすすめばさらに、すぐれた知識、経験、人格をもった決して少なくはない人びとが、潔く職場を去っていったにちがいない。後輩として、だれもがそういう君子然として去って「君子的ひきこもり」にはいった先輩の姿を思い浮かべることができる。しかしそれは「余生」が短かったころのことで、高齢時代においては美談でもなんでもない。
「隠退ウーピーズ」(豊かな高年者層)
Sさんは、君子然といえるほどの風采ではないが、広い額に細い目でとくに笑い顔が安心感を与える温和な人柄の高年者である。超ではないが並一流の企業を定年退職してのち、残りの人生を楽しんで暮らせると計算を立てた「君子的ひきこもり」の高年者。しんがりとはいえ自分ではいまでも「隠退ウーピーズ」(豊かな高年者層)だと思っている。会社人間だったから地域に知り人はいないが、しごとや学生時代からの親しい友人たちがいて、それにつかず離れずに暮らす妻と子ども。趣味も多く、ひと一倍広い額に汗しての「旬の野菜は自作」の菜園が自慢である。
肝心の生活費はどうか。公的・私的年金のほかに資産収入もあって、娘の結婚、病気や不慮のできごと、車の買い換えや築二〇年を越えた住宅・設備の修繕などといった特別な出費のための「退職金」(預金と国債・株式が半々)は崩さないでも、小遣いは月五万円以上。現状では引きこもりに不服も不安もない。正直にいえば、不安はなくはないのだが、「わたしが地獄へゆくのならみんないっしょだ」と考えることで安心することにしている。住居のほかは子どもに資産を残すつもりはないから多彩な趣味を楽しみ、旅行でも観劇でも食事でも会合でも、必要な時には積極的に参加し、出費もする。ドック検査による健康状態も良好で、れっきとしたウーピーズぶりに思える。
「高年期じり貧人生」
Sさんは時代が下降し頽廃期へむかう時期にあると感じているので、「われ関わり知らず」と固く決めて、後輩が知恵を借りにやってくるのに対しても、「いまさら、こんな世の中のために、わたしまで引き出すのはやめてくれよ」 と、冗談としてではなくいって態度を崩さない。それでも後輩から声がかからなくなり、みずからも気力・体力の衰えを実感する日はさみしい。そんな日はテレビ批評もせず新聞も読まず、終日、気分の晴れないこともある。「君子的ひきこもり」の独居を楽しむ境地にはなお遠い。
ウーピーズといったところで、父祖伝来の土地を切り売りして億単位の資産を得て安全圏にいる都市近郊の「金満農家」と違って「零細資産家」だから、日本経済の「萎縮」(デフレーション)によって頼みの資産が目減りするのを気にかけている。朝方にはきょう一日の「万事大吉」を願い、晩方にはあすの「一陽来復」を祈るという日が重なっていく。
Sさんは、「老人と呼ばれたくない」とは思っているが、「現代丈人」という意識をもっていないから、ここでは「一陽来復型の高年者」と呼んでおこう。
「一陽来復型の高年者」が沈黙している間に、Sさんのような人が資産を「塩漬け」しているとする世論を背景にして、現役官僚はさまざまな手法で高年者の預貯金を切り崩す政策を取り始めた。そのことをSさんは、「後人として、あるまじき行為!」として憤懣を隠さない。といって、引きこもりに徹した生き方を変えるつもりはなく、思いのほか早々とやってきた「高齢期じり貧人生」とつきあう覚悟だけは固めている。本稿が甘く推察してみても、このままの状況で推移すれば、Sさんほどの人ですら生涯を安穏にすごしきることはむずかしい。
*・*「貯蓄ゼロの日」へカウント・ダウン*・*
「生涯現役の跡継ぎ二世」
「親孝行進学」
一方にはIさんのように、父親の後を継いで中小企業の経営者になった「生涯現役の跡継ぎ二世」の高年者がいる。Iさんは二〇年ほど前、四〇歳代なかばに二代目経営者となった。創業者の父親が元気だった高度成長・繁栄期といわれた時期もやたら忙しかっただけで、すこし羽振りがよかった程度で、とりわけ家が豊かになったわけではなかった。周囲の人びとが世間並みに暮らせるようにと、父親がひたすら心を砕いているのをみてきた。
父親は経営者として教育(学歴)がなかったことを生涯の負い目と感じていたから、「おまえは大学を出にゃいかん」と口癖にいって、家業の手伝いを強いず、子どもが高等教育を受けて意気揚々とした人生を送ることに期待しつづけた。晩年には「親孝行進学」で大学を出た息子が期待していた人生を歩んでいないことを知ることとなったが。
わが国の大戦後の製造業がたどった経緯からみて、戦後復興期から高度成長期(一九五五~七四年)のころに設立され中小企業では、Iさんのような跡継ぎ二世は決して少なくないだろう。技術力を尽くして質の良い日本製品をつくりあげてきた父親と労苦をともにしてきた社員に囲まれて育ち、いまは子どもとしてその跡目を継いでいる。同じような経緯をもつ機械製造の子会社(親会社ではない)から下請け品を求められれば、資金繰りをして設備投資を重ねても求められる製品を納めてきた。そして迎えた列島総不況。Iさんも人を減らしながら景気回復を待ちつづけてきたが、父親には申し訳ないが、ここ五年ほどのきびしい経緯からみて、もはや再生の手立てはないところにきた。
「ほどほどの赤字人生」
「生涯現役の跡継ぎ二世」のIさんが楽しみとしていた草野球の紅白戦も、若者が減って成り立たなくなった。「中小企業退職金共済」で定年は設けているが、父親のころから技術と意欲があってしごとができるうちは文字通りの終身雇用である。だから効率のいいしごとが減り収入が減っても従業員には減収にならないよう給与は払いつづけてきた。がそれにも限度がある。このまま推移していては、いつまでも借入金を返済する余力が出ない。高齢になって先が読めなくとも「われ関わり知らず」などといってはいられない。というより引くことなどできない。
「男というものは、きちんと仕事をすれば、どこで何をしていても、ほどほどの赤字ぐらしをするものだ」というのが、父親がよく口にし、自分も受け継いだIさんの負け惜しみ半分の人生哲学である。製造ノウハウを持つ親会社が生き残るために、まずは主要なパーツ以外は中国や東南アジアの途上国に生産拠点をシフトした。ついには製品化までとなれば、子会社ともども回復どころではない。「ほどほどの赤字人生」などといっていられない。独自でのしごとにメドがたたず、下がりつづけた担保資産との見合いの末に、不良債権の処理対象として銀行から見放され、こちらの意欲が萎えるまでは、会社と社員と家族を守るつもり。さしたるぜいたくもせず、「先憂後楽」の心意気を貫いて、沈没船の船長よろしく自分だけは地獄へでもどこへでもゆくつもり。
「先憂後楽型の高年者」
Iさんは、ゼロに始まってゼロに返る人生を納得する男子のみごとな生き方ともいえるが、「高年化社会」を多彩に豊かにする基礎となる「高年化用品」のユーザーであり、「高年化製品」のメーカーであるという点でもまたゼロの人なのである。Iさんが蓄積してきた技術力を、高年者の暮らしを豊かにする用品のために活かして活路を開くことが要請される。Iさんのように、良質な製品の製造に努めて現場で自得した完璧主義を崩すことなく、引き場のない人生を送っている篤実な熟年技術者を、「先憂後楽型の高年者」と呼んでおきたい。
*・*戦々兢々の高年期生活*・*
「大幅増税と貯蓄取り崩し」
大多数の給与所得者は、定年が六二歳(~六五歳)まで延びたものの、退職を前にして業務替えになったり、収入減を余儀なくされながら「待ちの日々」を送っている。充実した日々には遠い。このままなんとか定年まで勤めて、行く末が不安な程度の退職金と年金を合わせ計算しながら暮らすことになる。
Yさんは、技術畠ひとすじに三〇年余を勤めた会社を定年退職したばかり。退職後も前職をいかして仕事があればと願っているが、このリストラ時代。「ハローワーク」には求職の登録をせず、失業率には計算されない潜在的求職者のひとりである。だから失業率五%以下などという数字を信じてはいない。少ない退職金から、少なくはない住民税を支払って急に重量感を失った貯蓄から、さっそく定期的収入が減った分の「貯蓄取り崩し」がはじまった。
先行きの不安は身辺に渦を巻いている。財政負担を軽減するためのデフレ(物価下落など)や成長率低下を理由にした「公的年金」のカット。次第に現実味を帯びてきた「消費税の大幅増税」。いつ身に降りかかるかしれない「医療費」の自己負担。企業業績の不振による「企業年金」の減額。まだ五年つづく住宅ローン。そしていつまでも独立できない子どもへの支援出費・・。「ペイオフ」(預金の限度内払い戻し)に届かないほどの額だから、長生きすればいつか必ず訪れるにちがいない「貯蓄ゼロの日」への不安。
退職したあと職さがしをしているYさんは、旅行や観劇、書籍・雑誌の購入、外食などを減らして「選択的支出の削減」に努めている。それでも生活用品や日常経費、医療費や税負担とくに際立つ健康保険料など「基礎的支出」が確実に増えることから、家計の先行きはとめどなくきびしい。「貯蓄ゼロの日」へのカウント・ダウンは始まっているのだ。「薄氷を履む」ような日々が続くことになる。Yさんは多数派である「戦々兢々型の高年者」のひとり。「さして優れたことはしてこなかったけれど、必死で働いてきたつもりの自分までが、高齢者になって見捨てられることはないだろう」と国の施策を信じている。長生きすればいつかまた「スイトン時代」がやってくるかもしれないが、それでも平和なら生きられるだろうとYさんは思っている。
Yさんは、通信機器関連の技術労働者であり、いまも会社の主力製品のひとつになっている機器の発案製作者。といって発明対価を求めるのは違うと思っている。
「将来への希望は現場の活力にある」と技術者であった経験から確信している。
自分は細身だったのでヘルメットは似合わなかったが、「プロジェクトX・挑戦者たち」(NHKの人気シリーズ番組だった)で、工夫を重ねて事業に邁進した人びと、いかにもヘルメット姿が似合いそうな人びとの話を聞くのが楽しみだった。番組が終了してずいぶん経つというのに、胸の奥に刻まれたように、気がつくといまも中島みゆきが歌ったテーマ曲の一節「つばめよ、地上の星はいま何処にあるのだろう」が体の中を繰り返し流れているという。仲間との苦闘のあとを思いながら、溢れる涙をじっとこらえていた技術者たちの顔顔顔はいまも忘れられない。
「バブル・不良債権」
「デフレ・スパイラル」
「戦々兢々」といってもYさんにはいまも活かせる技術がある。「先憂後楽」のIさんにはチャンスが残っている。「一陽来復」のSさんにはなお余裕があるではないか。老後の生活設計など立てられず、ぎりぎりの年金だけを頼りに先の見えない不安な日々をすごしている高年齢者が時々刻々と増えているのだ。傷んでも家の修繕なんかにとてもお金をまわせない。
それなのに、将来の展望や不況脱出の契機を語るのは、数字には強いが人間味が感じられない経済学者や横文字だらけのアナリストであったり、大蔵省や日銀の関係者であったり、実務体験の希薄な経営者であったり、現場の臭いのしないジャーナリストであったりした。司会者も含めて、いずれ安全な「経済学の丘」の上からの展望者であり、どうみても現場の痛みがわかるような人びとではなかった。だから将来の方策も不況脱出の方途も、痛みを感じている人びとを優先するものとはならないだろうことは推測できた。
「バブル・不良債権」で一〇年あまりを騒ぎつづけ、次には「デフレ・スパイラル」(物価下落、所得減少、需要減退、物価下落というらせん状の悪循環)をこね回し、億兆円を差し引きする人びとのご託宣は、夢の中にまで押しかけてくるほどに聞かされた。九○年代から新世紀を通じて日本経済の退潮は持続して実感されてきたから、一般市民はその間、右下がりの暮らしを納得させられてきたのである。「数値に裏付けされたさまざまな分析が、みんな正しかったとしても、国民を対処に立ち向かわせる人的パワーを燃え立たせる変革に結びつかなかったのではないですか」と、Yさんは静かに、Sさんは熱して不服に思う。
*・*七〇歳が稀でなくなった稀な時代*・*
「元気印のおばあちゃん」
「お年寄りと聞いて何歳以上を思い浮かべますか」という新聞社の世論調査によると、「八〇歳以上」が一一%、「七〇歳代」が五四%、「六〇歳代」が三〇%だった。合わせて六割を超える人びとが七〇歳以上に実感を持つようになったのは、高齢化とともに元気なお年寄りが着実に増えている証し。男性より七年も女性が長寿だから、どこのお宅にも「元気印のおばあちゃん」がいる時代。
いままた詩史を詠う杜甫の「人生七十古来稀なり」に古希を迎えて出合って半世紀をいる。「人生七十」が稀ではなくなった稀な時代に遭遇してのことである。
杜甫は意に適わぬ日々を酒びたりで送っていたらしく、「酒債は尋常行く処に有り、人生七十は古来稀なり」(酒のツケは行くところあちらこちらに有るけれど、人生七〇歳というのは古来から稀なこと)と詠った。無くなってほしい酒債と有ってほしい「人生七十」を対比している。七五八年のこと。四七歳の時にこう詠った杜甫だったが、本人は「古希」にはほど遠い五九歳で、旅先で都長安へ帰る日を思いながら死を迎えた。酒債なしに健康で「古希」をむかえ、祝い酒を味わえるこの国の高年者は、わが身の幸せの一盞を杜甫にもささげてほしい。
「古希丈人」
唐代の杜甫と阿倍仲麻呂といえば、日本人にとって親しい歴史上の人物である。奇しくも同じ七七〇年に生涯を終えた。、阿倍仲麻呂は、異郷の長安で故国の「三笠の山に出でし月」を思いながら亡くなったであろう。仲麻呂は七〇歳を迎えていたから、当時としては稀な長寿をまっとうしたことになる。
七〇歳のことを「杖国」というのは、国事に当たる大夫が七〇歳になって、国中どこででも使える杖を賜ったことからいわれる。さて、唐の長安で七〇歳を迎えた「七十杖国」の阿倍仲麻呂は、どんな杖を賜ったのだろう。歴史論議の場ではないから細部には向かわないが、現代が、だれもが杖を贈られて「七十古希」を祝うことができるという意味での「古来稀なり」な時代であり、それ故に「古希丈人」もまた、時代を超えてここに装い新たに登場することになる。「昭和」に生まれて、疾風怒濤の「昭和時代」を生き抜いてきた「古希丈人」である人なら、「脇役や老け役を演じていてどうなるのだ」と、自問しつつ主役を演じて暮らしているのではないか。
「介添え識者」
テレビ画面を見ていると、これが熟成した文化をもつ国の姿を表現しているメディアだろうかと思う。時代の花ではあるが「一知半解」の女性アナウンサーの傍らでにこにこしながら初歩的な解説を繰り返している「介添え識者」の存在が気にさわる。
「逆じゃないのか。なんで唯々諾々と脇役を演じているんだ」と、日々を「君子的ひきこもり」で送ることに決めたはずのSさんは、画面にむかって文句を放ち、リモコンの「消音」を押して横をむく。「介添え識者」の意思を殺したけだるい声が消えて静かになった家の中を見回す。家の外を見やる。テレビ画面ほどにいらつくステージではむろんない。高齢識者が本音で語れる番組がなぜつくれないのか。
「第三ステージの主役登場」
いま高齢期を迎えている人びとが、中年時代に粒々辛苦して築きあげてきたものは「中年期のステージ」であって、高年時代のための「高年期のステージ」はまだないというのが現実なのである。史上になかった時代のいわばパイオニアなのだからしかたがない。手狭な今のステージに納まろうとするから中年者の目ざわりになるのではないかと遠慮する。気力は萎える。孫から押し込まれる。「昭和」に生まれて疾風怒濤の「昭和時代」を生き抜いてきて、なお健康で潜在力をもっている「昭和丈人」である人びとが、引きこもりに身を固めて存在感を薄くする時期ではない。新世紀の日本を舞台に「第三ステージの主役登場」のときなのである。ステージで何を演じるかは個人の勝手だが、高年者になることが味わい深く、高年者であることが誇らしいような暮らしの場の創出。そんな活動が見えてくれば高年期の人生はおもしろい。
暮らしの場としては庭がその表現の場になるだろう。庭師にまかせるのではなくて、庭師に学んで庭木と語る。高年者がみんなで共有する「高年期のステージ」が各所にあるような「地域の高年化」。そこからはじめる。いま「グローバル化」で苦闘している中年世代が高年期を安心して迎えられるような「モノと場としくみ」を実現してやろうという心意気である。有形・無形の伝統資産を守り、再生することもいい。町に成熟した風気を醸成して。「現代丈人」の実例は、芸能や技能の継承者、学者、芸術家、宗教者、文学者などの姿のうちにいくらでも感知することができる。政治家とジャーナリズムを除けば。身のまわりには頼もしい無名の「古希丈人」がたくさんいる時代なのだ。
 

四字熟語-美意延年 

美意延年 

びいえんねん

情意がのびやかであればみずからの人生を楽しめるばかりでなく、周囲のみんなの歓びも合わせることができ、寿命を延ばすことができるというのが「美意延年」である。新年にふさわしい賀辞のひとつ。

思えばこの国でみんなが長寿を得たのも、長らく大きな震災も戦災もなく、誰もが等しくよく働いて衣食足りた日々を楽しんで過ごしてきたからだろう。

安徽省亳州市譙城は、曹操のというより「鶴髪童顔」で百寿をすごした神医華佗の故郷であり、千年白酒・薬材の郷ともいわれる。
汚染源がなく空気も水も清らかで、みんなよく働いたから身体は丈夫、性格は朗らかで楽観的、素食だが多種類をとって早寝早起き。武術もさかんで太極拳、舞刀、健美体操なども暮らしに欠かせない。区政府も尊老、愛老、助老活動に熱心で、百歳になると毎月三〇〇元の健康保健金がもらえる。中国老年学会が「中国長寿の郷」に認定したのも納得がいく「美意延年」の息づく城市である。 

『荀子「致仕」』から 

 

新情報--岡田副総理、「高齢社会対策」担当大臣はあなたです。

岡田副総理、「高齢社会対策」担当大臣はあなたです。
1月13日の内閣改造人事で、「高齢社会対策」担当大臣が蓮舫議員から岡田克也副総理に変更になりました。
といっても、全国の高齢者のみなさんはご存じないだろうと思います。ひょっとすると、たくさんの職務を兼任することになった岡田さんも気づいてないかもしれないのです。岡田さんの担当は、行政改革、社会保障・税一体改革、公務員制度改革、それに内閣府特命担当大臣として、行政刷新、「新しい公共」、少子化対策、男女共同参画までが新聞発表で、「高齢社会対策」の名は見えません。「日本高齢社会」は国際的にも注目されているのですが。
これまでのところ、週2回の記者会見でも、岡田さんから関連の発言はないようですし、記者からの関連の質問もないようですから、単なる担当大臣の変更であって、内容に変更が起きるようすはありません。
これはいったいどうしたことなのでしょう。
高齢者(65歳以上)はことし3000万人に達します。これだけの人びとが体現している「高齢社会」が重要でないわけはないのですが、政策としては、医療、介護、年金などの「高齢者対策」としての「社会保障」が相変わらずの国の政策であって、「高齢社会対策」ではないからです。「高齢社会」を体現している元気な高齢者は毎年増えつづけてきたものの、これまでは施策として大きな予算措置を講ずるような経済社会的な難題を生じなかったということでしょうか。1999年の「国際高齢者年」のあと、この国の10年余の高齢社会対策の推移を観察しつづけてきた立場からいえば、政治リーダーの「高齢社会」構想の不在(政治不在ゆえの官僚主導)が、この国の穏やかな社会の変革を阻害してきたといわざるをえないのです。ひとことでいえば「歴史的な失政」です。歴史家はそう記すでしょう。
21世紀の重要な課題であるからこそ、国は1995年(65歳以上は1825万人)に「高齢社会対策基本法」を制定し、1996年に対策の中長期的指針となる「大綱」を閣議決定し、2001年に「大綱の見直し」をおこない、今般、10年ぶりに「大綱の見直し(作りかえ)」をすすめているのです。その基本にあるのは、ことしから高齢者の仲間入りをする200万人余の「団塊の世代」の人びとが体現している--支えられる高齢者から支える高齢者への「高齢者像」の変革です。
内閣改造のあった前日の1月12日、内閣府では、「高齢社会対策大綱」の見直しのための「報告書素案」について、有識者検討会が開かれていました。「報告書素案」について、清家篤座長(慶応大学塾長)を中心にして6人の委員の方々の議論がおこなわれ、その結果をふまえて2月には最終案が提案され、予定では年度中に高齢社会対策会議が開かれて「見直し大綱」が閣議決定されようとしているのです。
支えられる高齢者から支える高齢者への意識の変革をもとめるなら、広く国民とくに高齢者にその経緯も内容も知ってもらわなくてはなりません。知られることなく6人の委員の意見が聴取されただけで、中長期の指針が決められようとしています。「見直し」はまずその議論の手法にあるのですが、そのことに岡田担当大臣の認識は届いていないようです。
野田総理が「大綱見直し」を指示したのは昨年10月14日でした。趣旨説明をおこなったのは当時の蓮舫担当大臣で、2012年から「団塊の世代」が65歳に達して経済社会情勢に変化が見込まれるというのがその主な理由とされています。
「報告書素案」にも、「団塊の世代」の参加による高齢者意識の変化、全世代の参画、「ヤング・オールド・バランス(世代間の納得)」、「シルバー市場の活性化(総理の指示に応えて)」そして「互助(顔の見える共助)」の必要性など、「高齢社会」が実質的に動く時期にさしかかっているという認識が示されています。
この国の「高齢社会」の変革にかかわる重要な会議の経緯を、蓮舫大臣がそういう認識をもって、岡田大臣に引き継いだようすはありません。
そして同じ1月12日、内閣府から至近の距離にある憲政記念館会議室では、高連協による「高齢社会大綱の見直し」に際しての「高連協提言」(別掲)の発表会が開かれました。
「提言」は、普遍的長寿社会は人類恒久の願望であり、「高齢化最先行国」として世界に示す施策とすべきこと、高齢者は能力を発揮して社会を活性化し充実感を持って生きること、就労の場における年齢差別の禁止、基礎自治体との協働、少子化社会対策、より良い社会を次世代に引き継ぐこと、ほかを提案。将来像としては、世代間の平等、持続可能性等の観点から「釣鐘型社会」を想定しています。
樋口恵子、堀田力代表の提言者としての発言はじめ出席高齢者のみなさんの議論があったのですが、報道関係者の姿は少なく、残念ながらニュースとして伝えられたようすがありません。野田総理、岡田担当大臣の手元には届いているのでしょうが、1999年いらい民間にあって高齢社会のありようにかかわってきた人びとの貴重な「提言」と発言を、一般の高齢者に伝えるメディアもないというありさまなのです。
岡田副総理から記者会見で「大綱見直し」への言及はなく、記者からの質問もなく、「高齢社会対策大綱」の検討は 公開の機をえないままで推移しています。岡田さんは「日本が沈みつつあるということをいろいろな場面で実感」しているので「歯止めをかけたい」とまでいいながら、優れた知識と経験と気力と資産を保持している3000万人(票)の先輩たちに参画も支援も求ようとしていません。3000万人の高齢者の穏やかな参画をえないゆえに「日本が沈みつつある」ことに気づかない高齢社会対策担当大臣、これではこの国の何かが変わるとは思えません。
岡田副総理、あなたは「高齢社会対策」担当大臣でもあるのです。

四字熟語-松柏之茂

松柏之茂

しょうはくのも

他の植物が葉を落として新年を待つのに、松と柏は寒中にも葉を緑に繁らせて長寿であることから、「松柏の茂」は衰微せずに不変であることに例えられる。

この柏は日本のカシワではなく和名コノテガシワ(児の手柏)のことで常緑樹。カシワは落葉するので一見すれば違いがわかるのに、なぜか先人は柏の字にカシワを当ててきた。わが国に老樹は多くないが、東京・国分寺市の祥應寺で樹齢六〇〇年を超える大樹をみることができる。

実は南京の老樹「六朝松」が柏であるなど、中国でも松と柏をわけずに用いてきた例は多い。旅先で「古老柏」に出会う。中岳嵩山の嵩陽書院内には漢の武帝によって将軍に封じられた「将軍柏」がいまも傾きながら雄姿をみせているし、山西省太原市の晋祠や高平市には三千年柏もある。

先人は松柏に託して長寿を願ってきた。「松柏の茂」は堅固で厳しさに耐える品格を評することばとして、二千年傾くことなく故事成語の林に立っている。 

『詩経「小雅・天保」』など

「高齢社会対策大綱の見直し」に対する「高連協提言」 2012・1・12 報告

「高齢社会対策大綱の見直し」に対する「高連協提言」 2012・1・12 報告
昨年末、2011年12月28日の新情報「高齢社会対策大綱の見直し」稿で、
全国の高齢者のみなさん、平成二四年一月一二日、蓮舫担当大臣のもとで内閣府で開かれる「第三回高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」の報告書素案に注目してほしい。そして同日同時に、近くの憲政記念館会議室で、高連協(高齢社会NGO連絡協議会)が開催する「高齢社会大綱の見直し」に対する「高連協提言」発表会を合わせ注目してほしい 。
と訴えた。
内閣府の検討会は、今回は6人全員の出席のもとで、「報告書素案」が提案されて検討がおこなわれました。12日に提案された「素案」は内閣府のホームページで読みましたが、「団塊の世代」の取り込みに苦慮し、「互助(顔の見える共助)」の必要性、「全世代の参画による超高齢社会」への変革、「ヤング・オールド・バランス(世代間の納得)」という視点、「時間貯蓄・ポイント制」といった評価基準の多様化の提案、「シルバー市場の活性化」を加えて総理の指示に応えるといったところが、「見直し・追補」として見てとれます。
その後に、「おわりに」の内容をふくめて検討されましたから、会議録をみませんと細部はわかりませんが、「全世代型」や「ユニバーサル・デザイン」をいいながら三世代それぞれが世代としての特徴を活かした暮らし方、とくに高齢者から若年・中年へ配慮した参画への言及がないこと、高年社員による高年者向け商品製造による新しいしごとの創出、「エージング(引き延ばし)」とともに緩やかに形成されるべき「三世代コミュニティ」への推移、そして「意識変革(多重化)」などへの展開が欠けています。
全容の評価は、会議録の公表をまって行います。
1月13日の内閣改造で、高齢社会対策担当大臣が蓮舫議員から岡田克也副総理に変更になりましたが、当人から「大綱見直し」の言及はなく記者からの質問もなく、軽視(無視)されたまま推移しています。岡田さんは「日本が沈みつつあるということをいろいろな場面で実感」しているので「歯止めをかけたい」とまでいいながら、すぐれた先輩たちに「参画も支援」も求ようとしない。これでは何かが変わるとは思えません。
一方、高連協の「提言の会」は、憲政記念館会議室で別添のような「提言」を発表しましたが、朝日新聞の記者がきていただけで、樋口・堀田両氏をはじめとする高齢社会を体現している立場からの発言が、ニュースとして外部へ知られたようすはありません。
これはゆゆしき事態です。
別添
高連協「高齢社会対策大綱の見直し」に当たって提言
                                                      2012年1月12日 
内閣総理大臣
野田佳彦 様
高齢社会NGO連携協議会(高連協)共同代表 樋口恵子、堀田力
理事役員・有志一同
   高齢社会NGO連携協議会(以下「高連協」)は、高齢社会への対応・対策の促進を願い活動する我が国のNGOが、1999年国連が定めた「国際高齢者年」を機に創設した連合組織で、国連が提唱する高齢者の五原則(自立、自己実現、社会参加、ケア、尊厳)を基に、「高齢者(シニア)の社会参加活動の促進」を掲げて諸活動を展開しております。
  高連協の活動は、活動会員による定期的オピニオン調査(60歳以上2000名対象)の結果を踏まえた全体活動、そして、60余の加盟団体が相協力して展開している活動ですが、そのテーマのほとんどは国が示す「高齢社会対策大綱」の方針と内容に関わるものです。
 したがって、我々は「高齢社会対策大綱」には多大の関心を持っており、その見直しは高齢化社会の進行上必要なことと考えます。野田総理の高齢社会対策会議冒頭の挨拶と指示は、付言された「高齢者の消費の活性化」を「高齢者の生活行動の活性化(当然「消費」も活性化する)」と解せば、我々シニアは大いに共鳴するところです。
 以上のような観点から、我々は、社会参加活動に関わるシニアのオピニオンとして「高齢社会対策大綱の見直し」に当たって提言申し上げます。 
 「提 言」 
前文 
 我々シニアは、終戦、社会倫理の転換、貧困からの脱却のための経済成長から経済大国そしてバブル崩壊を生きて来た。この間日本人は平和な社会と生活の質の向上により、その指標とされる「平均寿命」の急速な伸長を得て、世界最高レベルの長寿を享受している。
 しかしながら、寿命の伸長とともに、子どもの自立・就労や結婚年齢のエイジング(加齢化)もすすみ、1980年以降は急激な出生減、少子化現象をきたしている。 
 普遍的長寿社会は、人類恒久の願望であり、世界各国とも目指す社会である。しかし、それを具現化しつつある我が国がそのモデル国と見做されるためには、低下した出生率の回復が望ましく、世代間の平等や家族・民族の持続可能性を目指した社会的努力が必要であろう。現在の我が国社会に必要なのは、我々が目指すべき社会像・将来像である。
 「高齢社会対策大綱」の見直しに当たっては、当面我が国における高齢社会対策としてのみならず、全世界的課題である高齢化の最先行国として、我が国が世界に示すことのできる施策となるよう、これを策定すべきである。
 上記「前文」を踏まえて、我々高連協は以下のとおり提言する。 
1.普遍的長寿社会においては、高齢者は、他の成人層と同じく、その能力を存分に発揮して社会を活性化するとともに、自らも充実感を持って生きることが求められる。
・  高齢者に対し、高齢であることを理由として社会生活からの引退を促すような制度や社会的風習は廃絶しなければならない。
・  社会的活動とくに就労の場における非合理的な年齢差別を廃し、積極的な高齢者の能力を活用するため、「年齢差別禁止法」を制定する。

・  「高齢者であっても、その能力を可能な限り社会に生かすことは、その権利であると同時に社会的義務である」という思考を醸成する。

・ 高齢者が能力を発揮するためには、人生後半のための情報、学習機会の提供が不可欠である。

2.「高齢社会対策大綱の見直し」においては、大規模かつ多様な高齢者への対応が求められるが、大綱に示す基本姿勢に則り、横断的かつ柔軟な取り組みをもって施策が推進されることが肝要である。
・  普遍的長寿社会において、総ての人が幸せな生涯を過ごすため、高齢者の尊厳保持を究極の目標として、高齢者に関する諸施策が総合的で整合性のあるものとすべきである。
・  高齢者の自主性を生かした社会参加活動を活性化するため、基礎自治体が地域社会の特性を生かし、高齢者の「居場所」と「出番」をつくり、高齢者を含めた住民との協働事業が促進されるよう施策の展開を図る必要がある。
・  弱体化した地域医療サービスについては、総合医を中核にした初期医療サービス体制を構築すべきである。そして、訪問診療も併せた幼児・児童と高齢者への対応サービスを推進する必要がある。
・  「高齢社会対策大綱」の見直しとその推進には、高齢有識者やシニア活動実践家の参加が不可欠である。 
3.我が国社会に求められる社会像、将来像としては、世代 間の平等、持続可能性等の観点から、人口、資産、就労面で解りやすい「釣鐘型社会」を想定したい。
・  先祖・親世代と同様、現代の高齢者も、より良い社会を次世代に引継ぎたいと願っている。
・  人口構造上の釣鐘型社会の想定には、国際移民の活性化も必要であるが、先ずは「少子化社会対策」の推進が重要である。
・  地域社会の老若男女がこぞって子育てにも介護にも参加し、四世代共住の支え合い型地域社会をつくることが肝要である。
以上
高齢社会NGO連携協議会(高連協)
〒104-0045 中央区築地2-15-14 築地安田ビル
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四字熟語資料 動物に関する四字熟語

うさぎ

狡兎三窟 こうとさんくつ

ずるがしこい兎は三つの隠れ場所を持っているというのが「狡兎三窟」(*1)である。ずるがしこいといわれようと、強者の多い原野で、とくに武器になるような器官をもたない弱者である兎が難を逃がれて生きていく道は、危機察知能力とすばしっこいことと三つの隠れ場所を持っていることにある。そのうちのひとつは子育てのためのようだが。戦国時代斉の孟嘗君の食客のひとり馮諼(ふうけん)は、「狡兎三窟ありてわずかにその死を免るるのみ」といい、君が高枕をして臥すためには、あと二窟をつくりなされと説いて、他の二策を用意するよう勧めた。「二兎を追うもの」は六窟を相手にするのだから、一兎をも得られない結果になってもいたしかたがないだろう。

*1『戦国策「斉策」』から。

「狐兎之悲」「兎走烏飛」「守株待兎」「兎死狗烹」

 ねずみ・ねこ

猫鼠同眠 びょうそどうみん 

猫と鼠がいっしょに眠る「猫鼠同眠」(*1)というのはありえない情景だから、このことばはネコに問題があることを示唆していることに注意しよう。たとえば不正を働いた部下を見つけたら、通常なら罰しなければならないはずの上司や管理者が、何もしないで見過ごしたり、いっしょになって不正に荷担するなどがそれ。犯人を捕えなければならない警察官が犯人を捕らえられないこともまたその類ということになる。各代王朝の後退期には「猫鼠同眠」といった情景はいくらでもみられた事象だったことが想定される。一方に、鼠を見て捕らえないのは猫の「仁」であり、鼠が食を奪うのに譲ってやるのは猫の「義」であるとする猫擁護派の意見もある。

*1『金瓶梅「七六回」』など。

「看猫画虎」「目光如鼠」「鼠雀之輩」

 いぬ

桀犬吠尭 けつけんぼうぎょう  桀犬尭に吠ゆ 

禹が開いた夏王朝を滅亡させてしまったのが桀王。次の湯が開いた商・殷を滅ぼしてしまったのが紂王。ふたり揃えて「桀紂」といえば、暴虐非道の君主の例とされる。一方で尭と舜と禹は、人民とともに仁政を尽くした聖君主の例とされる。だから「桀犬尭に吠ゆ」(桀犬吠尭。*1)というのは、桀のような暴君の飼い犬が、尭のような聖人に向かって、時代を飛び越えて吠えかかるということになる。悪玉の大盗の跖の犬が、「跖狗尭に吠ゆ」(跖狗吠尭。*2)というのもある。犬は飼い主の善し悪しにかかわらず、ひたすらに主人のために吠えかかるということなら、「尭犬桀に吠ゆ」もあっていいのだが、こちらではあたりまえすぎて用いる場がない。

*1『晋書「康帝紀」』など。 *2『戦国策「斉策」』から。

「鷹犬塞途」「犬馬之労」「喪家之狗」

にわとり

鶴立鶏群 かくりつけいぐん

鶏の群れの中に、背が高く首が長く真っ白い鶴が混じって「鶴立鶏群」(*1)であれば目立つには違いない。が、鶴は鶏群に混じるより飛び去ってしまうだろうから、実見してのことではあるまい。風姿や才能が他に抜きんでて際立つことにいう。「竹林七賢」のひとり嵆康のむすこの嵆紹が、はじめて都の洛陽に入ったのをみた人が、これも竹林七賢のひとり王戎に「昂昂然として野鶴の鶏群に在るがごとし」(*2)といったことからといわれる。「君はあれの父を知らないからね」と王戎は答えているが、鶏群には居らず独立不羈だった嵆康の姿を対置しているように思える。「鶏群之鶴」(*3)ともいう。

*1耶律楚材『湛然居士文集「和景賢十首」』など。

*2『晋書「忠義伝・嵆紹」』から。 *3梁紹壬『論交十六首「其七」』など。

「鶏鳴狗盗」「牝鶏無晨」

 うし

対牛弾琴 たいぎゅうだんきん

 牛に向かって琴を弾ずるのが「対牛弾琴」(*1)で、やってみたものの結局は徒労無効の営為だったということになる。公明儀は、牛に正調の音楽を弾いて聞かせたところ、牛が伏して食べているようすはもとのままだった。牛が聞かなかったのではなく、正調の音楽が牛の耳に合わなかったからだという(*2)。人間の尺度で説法をされたり音楽を聞かされて、まるで分からないといわれるのは牛や馬にとっては迷惑なことだ。牛が聞いて喜ぶような音楽をつくってやってみなければわかるまいというのが、このことばの原意である。熊は踊るようだが、牛耳にやさしい演奏を聞けば腰を振るに違いないのである。

*1普済『五灯会元「惟簡禅師」』など。*2牟融『理惑論』から

 「牛刀割鶏」「汗牛充棟」「鶏口牛後」

 うま

老馬識途 ろうばしきと 

馬は往きの路をよく覚えていて、主人が疲れたり泥酔したりして馬上や馬車で寝込んでしまっても、路を間違えずにもどってくる。だから酒酔い運転の心配もない。「老馬識途」(*1)である。春秋時代に、斉の桓公の軍が春に遠征をし、冬に帰国するということになった。帰国の途上で行軍の道に迷った時、管仲が「老馬の智は用いるべきなり」(馬は道をよく知っていて迷わない。まかせましょう。老馬之智。*2)といって老馬を放ち、その後に従って国に戻ることができた。老馬にしてしかり、高年社員や引退社友が持っている知識や経験は、困ったときには大いに用いるがいい。わが社の「老馬之智」は、求めて学び継いでいくべきものであろう。

*1文康『児女英雄伝「一三回」』など。

*2『韓非子「説林上」』から。

「走馬看花」「龍馬精神」「伯楽相馬」

さかな

太公釣魚 たいこうちょうぎょ

周初に文王に求められ、子の武王を補佐して殷の紂王を倒した功臣である太公望(呂尚)は、かつて渭水の北で釣りをしながら賢君(文王)の招請を待っていたという。終日糸を垂らして一匹も釣れなかったのは、餌もつけず水面から三尺も離れて糸を垂れていたからだが、呂尚はいう、「魚は求めて針にとびついてくるものだ」(*1)と後世の話には尾ひれがつく。「太公望」と呼ばれるのは「わが太公(父)、子を望むこと久し」(*2)という人物であったことから。「太公望」は、釣り人の代名詞になっているからよく使われるが、自称「太公望」なら、釣果はともかく、語りかけてくる人には穏やかに接するくらいは心得ておこう。

*1『武王伐紂平話「中巻」』から。 *2『史記「斉太公世家」』から。

「沈魚落雁」「縁木求魚」「水清無魚」

 はえ

蝿頭微利 ようとうびり

蝿の頭ほどのちっぽけな利益ということ。日本で少量をいう「雀の涙」は中国では使わない。また狭小な土地に対して「猫の額」というのも聞かない。少量を代表するのは「蝿頭蝸角」(*1)である。つまり蝿の頭と蝸牛の角は身近に見られて小さくて気になるものだからであろう。いずれも猫の額よりは微小なことになる。だから「蝿利蝸名」(*2)ということになると、ともにささやかな利益と名声を得ること。宋の蘇軾は「蝸角虚名、蝿頭微利」(*3)といって名声も利得もまとめて突き放している。会話では「蝿頭小利」ともいう。狭小な土地については「弾丸之地」(*4)や「弾丸黒子の地」がある。

*1 趙師侠『水調歌頭「和石林韵」』など。 *2盧炳「念奴嬌」など。*3 蘇軾「満庭芳」から。 *4『戦国策「趙三」』など。

「蠅声蛙噪」「蠅糞点玉」

 りゅう・とら

葉公好龍 しょうこうこうりゅう  葉公龍を好む 

春秋時代の楚の葉公(しょうこうと読む。地名)沈子高は、龍を愛好することで知られ、その屋内は龍の画や彫りもので満たされていた。それを聞いて本物の龍が天から下りてきて堂内を窺ったところ、葉公はキモをつぶし魂を失って逃げ去ったという(*1)。表向きは愛好しているようにみえて、実際には名ばかりの愛好家であったという話。楚の葉公は、孔子の弟子の子路に師の人となりを問い(*2)、孔子と問答をしているが、龍くらい歓迎しそうな鷹揚な楚の重臣である。政治について孔子に問い、「近き者は説(よろこ)び、遠き者は来たる」(*3)という答えを引き出している。

*1劉向『新序「雑事五」』から *2『論語「述而」』 *3『論語「子路第一三」』から

「龍争虎闘」「龍潭虎穴」「画龍点睛」「虎視眈眈」「龍頭蛇尾」

 

現代シニア用語事典 #1高齢期(二世代+α型)をどう生きる

#1高齢期(二世代+α)をどう生きる
*・*「七十古希」から「百齢眉寿」へ*・*
「丈人」 
「老人」と呼ばれて収まりがいい人ならそのままいけばいい。が、率直な実感としてみずからを高齢者と認めながらも、いま通用している意味合いで「老人」と呼ばれたくない、呼ばれるにはまだ間がある、あるいはなんとなく違和感がある、という人は多いだろう。
そんな場面で「丈人」と呼んでみてほしい。こちらも見慣れない、聞き慣れないことばだから、はじめは違和感があるだろう。が、使い慣れるうちに「老人」よりは収まりがよくなる。「老人」であるとともに「丈人」であること、そして「老人」であるよりも「丈人」であることに安らぎを見い出す。
「頑張ろう!」と「大丈夫!」のふたつが、「2011・3・11大震災」後の被災地で、お互いの励ましのことばとしてどれほど飛び交ってきたことか。この「大丈夫!」の「丈夫」が内に包みもつ強い気慨が「丈人」のものなのである。「頑張ろう!」が外向きなのに対して、「大丈夫!」は内にある力を呼びさます。
「春秋丈人」
「丈人」ということばは現代に呼びさまされた古語である。『論語「微子篇」』には、孔子を「四体勤めず、五穀分かたず、たれをか夫子といわんや」といって批判する人物として記されている。からだを使って穀物をつくらず暮らす自分を批判した人物を丁重にあつかっている孔子と、師をおとしめた人物として黙止してきた後の儒学者との違いに留意する必要があるが、ここはその場でないから深入りはしない。れっきとした古語であることと、「春秋時代」の腐敗しきった体制に抗して、みずから「四体勤め、五穀分かつ」ことをよしとして生きたこの健丈な老者を、「春秋丈人」のひとりとして認識しておけばいい。
昭和丈人」
21世紀のはじめに高齢期を迎えている昭和生まれの人びとを「昭和丈人」と呼ぶのは、先の大戦後(1945年~)の復興・成長・繁栄を「企業戦士」として体験し、九割中流社会を実感し、アジア地域で唯ひとつ先行して欧米型の近代化を達成したあと、列島総不況と経済のグローバル化(途上諸国の日本化・日本の途上国化)に見舞われているわが国の半世紀余の経緯を共有しているからである。史上にまれな高齢化を体現しながら、平和のうちに生きて、わが国独自の「高齢社会」を達成しつつある昭和生まれのみなさんを、敬意をもって「昭和丈人」と呼ぶ。「昭和丈人」のみなさんは、自分の中で「丈人」を感じるとき、その現場が実は政治不在という「人禍」によって生じていることにも気づくことになる。政治不在のために露呈している不都合な場面を、それぞれの活動(丈人力による)で乗り越えて、史上に新たな時代を築いている人びとを励ますことばとして、「昭和丈人」は納得がえられるように思える。  
「丈人力」
青少年期、中年期を通じて長い期間をかけて積み上げてきた知識や技術やさまざまな能力を、、どこまでも発展・熟達・深化させようとして働く力、ふつふつと涌いて出る強い生活力あるいは生命力を、本稿では「丈人力」(jojin ryoku)と呼んでいる。青少年や中年層からも敬愛される昭和生まれの「昭和丈人」層の「丈人力」によって、はじめて史上まれなそれでいて親しく住みやすい「日本型高齢社会」は達成されるにちがいないというのが本稿の確信を秘めた時代観察なのである。 
「高齢時代のライフサイクル」 
だれの人生にも、「乳幼児期」「少年期」「青年期」「壮年期」「老年期」という五つのステージ(年齢階層)があることを体験的に知っている。しかしこれは二五歳までに三つの階層をもつ発達心理学からの階層分けで実感もあるのだが、高齢化時代には加齢学的な観点から、逆に高齢期に三つを配する階層分けを考慮する必要がある。ここでは二五年間ずつの三つのステージを「三世代」に等しく割り振りながら高齢期に配慮したライフサイクルを基準にしている。
青少年期   〇歳~二四歳  自己形成期
バトンゾーン 二五~二九歳  選択期
中年期    三〇~五四歳  労働参加・社会参加期
パラレルゾーン五五~五九歳 自立期
高年期    六〇~八四歳  社会参加・自己実現期
長命期    八五歳~     ケア・尊厳期
といったあたりが、高齢者がみずからを顧みて納得できる「人生五つのステージ」といえるだろう。「バトンゾーン」というのは個人のライフ・スタイルによって生じる幅である。「パラレルゾーン」というのは、ふたつの人生期で、高年期への準備期でもある。「定年後は余生」と考える旧時代の「老人」タイプの高齢者意識が、「高齢社会」形成への自然渋滞をもたらしている。「高年期」での社会参加・自己実現期の二五年をどう体現して暮らすかの工夫が人生の差をつくることになる。
「賀寿期五歳層」のステージ
「高年期」そして「長命期」の日また一日を愉快に迎えて過ごすには、「賀寿期五歳層のステージ」の考え方が有効に働くだろう。先人は見定めえない人生の前方に次々に賀寿を設けて個人的長寿のプロセスを楽しんできた。いまは多くの仲間とともに励まし合いながら百寿期を目指せばよい。(2011年)
還暦期(六〇歳~六九歳) 昭和二六年~昭和一七年
古希期(七〇歳~七四歳) 昭和一六年~昭和一二年
喜寿期(七五歳~七九歳) 昭和一一年~昭和七年
傘寿期(八〇歳~八四歳) 昭和六年~昭和二年
米寿期(八五歳~八九歳) 昭和元年~大正一一年
卆寿期(九〇歳~九四歳) 大正一〇年~大正六年
白寿期(九五歳~九九歳) 大正五年~大正元年
百寿期(一〇〇歳以上)  明治四四年以前
六〇歳以上の約三九〇〇万人の高年者が活き活きと暮らす姿が「高齢社会」である。七〇歳の「古希」になったからといって生き急いで老成することはない。まだまだ先がある。人生の新たな出会いに期待する日々が待っているのである。
「七十古希」
「人生七十は古来稀なり」と詠った杜甫の詩「曲江」から七〇歳を「古希」と呼ぶようになったという。だから「七十古希」はすでに一二〇〇年余の経緯をもつことばである。それ以前のことはわからない。古来稀れなのだからよほど稀れだったのだろう。杜甫が詠ってたどりつかなかったことから「古希」がいわれ、七〇歳が長寿の証として納得されてきた。
そのころ長安は安禄山軍の侵入を受けたあとで、「国破れて山河在り、城春にして草木深し」(杜甫「春望」から)といったありさま。杜甫は意にかなわぬ日々を酒びたりで送っていたらしく、「酒債は尋常行く処に有り、人生七十は古来稀なり」(酒の付けは常にあちこちにあるけれど、あってほしい七〇歳は希にしかない)と有るものと無いものとを比較している。いまは両方がある時代だからこの対比に味わいがなくなったが。。杜甫自身は旅先で貧窮のうちに五九歳で没している。高級官人は七〇歳になると国中どこででも使える杖をもらって「杖国」と呼ばれたという。阿部仲麻呂は七〇を越えて生きたから拝受したのだろう。
「百齢眉寿」
「百齢」は百歳のこと。二〇一一年は大正百年だから、元年(一九一二)生まれの人が数え年で百歳である。わが国では百歳以上の人が二万人を超えてなお増えつづけており、いかに史上稀な長寿国であるかが知られる。
杜甫が「人生七十古来希なり」と詠ったことから「古希」がいわれ、七〇歳が長寿の証として納得されてきた。とすれば百歳ははるか遠い願望だったろう。「眉寿」は長寿のこと。老齢になると白い長毛の眉(眉雪)が生えて特徴となる。同じ唐の書家虞世南は「願うこと百齢眉寿」(琵琶賦)と記して百歳を願ったが、八〇歳を天寿として去った。「七十古希」の杜甫は五九歳だったから、長寿への願望は遠くに置いたほうがいい。
白髪が増えると老いの訪れとして苦い思いで納得するが、眉に白いものが見えた時は長寿への証として喜ぶほうがいい。いまや稀でない「七十古希」を迎えたら、次には「百齢眉寿」を目標にして日また一日を過ごしたらどうだろう。
「起承転結の青春期」
「日々これ青春」という人生があってもいい。大きな富士型のひとつ山の人生ではなくて、二〇年ごと繰り返しの連山型人生として、八〇歳までに四つの青春を生きたひとりに数学者の森毅さん(一九二八~二〇一〇)がいる。八〇年間を二〇年ごと四つのリフレインと意識した点に創意がある。
ここではひとつずつ山波ごとに次のような五つの特徴を付けて呼んでいる。
初の青春期  〇歳~一九歳
起の青春期  二〇~三九歳
承の青春期  四〇~五九歳
転の青春期  六〇~七九歳
結の青春期  八〇歳~
六〇歳からの「転の青春期」二〇年は、これまでに蓄積してきた知識や経験を活かして新たな人生展開を楽しみながら暮らすことになる。その成果によって「まとめ(結)の時期」もまた楽しいものになる。 
「体志行の三つのカテゴリー」
高年期にある人ならだれにもこれまで過ごしてきた「青少年期」と「中年期」の五〇年間に積み重ねてきた経験や知識や健康や有形・無形の資産がある。それらを六〇歳からの「高年期」を意識した「からだ(体・健康)」と「こころ・こころざし(心・志・知識)」と「ふるまい(行・技術)」のそれぞれにしっかりとバランスよく活かして暮らすこと。この三つ以外に人間(人生)としての存在はないというのが、東洋の哲学が持つ人間(人生)観なのである。そういう意味合いが納得できるのは、やはり「からだ(体)」のどこかに故障を生じる高年期になってからのことで、ここから「体・志・行」に配慮した「丈人人生」が始まる。人生を通じて右片上がりの能力をたいせつにする「丈人」であることを意識して三つをバランスよくすごすことによって、外面的に「老人」としてではなく「丈人」としての「健康・知識・技術」が表現されることになる。この三つをバランスよく働かせた暮らしをしている人が、敬愛すべき「現代丈人」のみなさんである。スポーツ界では「心技体」として認識されているのは、スポーツでは心の構えが技・体の差をつくるからである。
(制作中・つづきます)