友好都市・産業の絆-薬がもうひとつの絆

薬がもうひとつの絆 

富山市と秦皇島市

 中国の北境に、東西約三五〇〇キロ。延々と横たわる「万里の長城」という巨龍が、東の端で渤海に入る。その「龍頭」に当たるのが秦皇島市である。いまは半島であるがかつては小島だったという。

紀元前二一五年、秦の始皇帝は、東遊の折りにここにきて、海中の神山に長生不死の霊薬を求めた。天下を極めた皇帝として、大地の極まったこの地で、海中に不老不死の霊薬を求めた事跡はあったのだろう。命を受けた徐福は、三千人の童子と百工と伴って海中に浮かぶが、ついに不死の霊薬は得られなかった。
徐福にちなむ伝説は佐賀市、新宮市、富士吉田市、いちき串木野市などにあるが、富山市には聞かない。が、始皇帝の事跡と名は市名となって長く残ることになり、長生不死の霊薬はここで富山の薬と出会うこととなった。 

富山市は、江戸時代いらい薬業や和紙などの産業が奨励され、とくに「越中とやまのくすり」は全国に知られた。薬をあずけて使った分の代金を後に受けとる「先用後利」の家庭配置薬は、新しい薬がいつも使える状態で詰まった薬箱として、全国の家庭に安心感を常備してきたのだった。

富山市と秦皇島市を結んだのは、一九七九年五月に「中日友好の船」の団長として富山市を訪れた廖承志中日友好協会会長であった。富山市長から友好都市としてふさわしい都市の紹介の申し入れを受けて、廖承志会長が選んだのが秦皇島市だった。
知日家だった廖承志会長のことだから、とやまの薬と始皇帝の仙薬の絆まで考えただろうが、港のある産業都市として規模が似ているというのが第一の理由だった。七九年一〇月の市制九〇周年式典には秦皇島市代理として大使館員が参加した。八〇年五月には市長を団長とする「日中友好富山市民の船」の三五九人が秦皇島市を訪問した。

両市の友好都市締結の調印式は、一九八一年五月七日、秦皇島市使節団を迎えて富山市でおこなわれ、改井秀雄市長と許斌市長が議定書に署名した。五月九日には市公会堂で、二三〇〇人の市民が参加した「日中友好富山市民の集い」が開かれている。

秦皇島市は、南に渤海に臨む港湾都市で、大慶油田からの石油や石炭の積み出し港。また東北と華北地区を結ぶ交通の要。北京市、天津市に近く、長城東端の山海関や有名な避暑地、北戴河がある観光都市でもある。北戴河は、毛沢東や鄧小平時代までは、七月に重要な非公式会談がおこなわれて注目されたが、現政権指導者は公開性を損なうとして避けている。港湾施設、投資環境に優れており、欧米、日韓などからの企業進出も盛ん。人口は約二七〇万人。

富山市は、北陸道、飛騨街道や北前船航路などの交通・物流の要衝として栄えた。いまも「共生・交流・創造」のまちづくりを推進する中核市である。四月の全日本チンドンコンクール、八月の富山まつり、一〇月のとやま味覚市、年末のとやまスノーピアードなど、年間を通じた観光にも力を入れている。環日本海交流の活動も。人口約四二万人。

両市の友好交流は、市代表団、経済視察団の相互訪問をはじめ、各分野の考察団の来訪、とくに農業や医学を中心に工業・日本語・商業などの研修生の受け入れ。友好病院、医療技術友好訪問団派遣、医療機器贈呈(一〇周年)、救急車の贈呈もおこなった。トレードフェアでの市紹介、物産展。子供の作品展、中学生の友好訪問。ゲートボール友好訪問、芸能公演、卓球交流など年々、着実に推進されている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・産業の絆-鉄と福祉で「金蘭の友」に

鉄と福祉で「金蘭の友」に

大分市―武漢市(湖北省)

知的障害(ダウン症)を持ちながら、楽団の中で育った舟舟(胡一舟)が、管弦楽曲「祝福」の指揮台に立った。中国中南部で最大規模の武漢オーケストラが、二〇〇四年一一月二二日に、大分文化会館での記念公演をおこなったときのことである。

時を同じくして武漢市では、「大分市障害者福祉・友好の翼」の市民約一二〇人が、一一月一九~二三日、市代表団の釘宮磐市長や村山富市元首相らとともに記念式典に参加し、同市の障害者と交流会を開いた。友好の翼一行は楽しみにしていたパンダ「英英」に会い、「健身広場」を見学し、開発区や武漢鉄鋼集団公司の製鉄工場も視察した。

大分市と武漢市が、二〇〇四年一一月に友好都市提携二五周年を祝ったときのことである。

大分と武漢とを固く結んだのは「鉄」だった。
新日鉄大分製鉄所が一九七四年六月から二年間、武漢鉄鋼公司のプラント建設と操業指導にあたった折り、二〇〇人余の技術者が研修に訪れた。一方、武漢へは新日鉄の技術者が派遣されて、鉄を介して交流が始まったのだった。
製鉄支援とともに、不幸な日中戦争の過去の歴史を乗り越えて新たな関係をつくるため、佐藤益美市長や伊東忠雄市議会議長、県日中友好協会の田上光理事長らは、友好都市への努力をつづけた。そして七九年九月七日、劉恵農市長ら代表団を迎えて、大分市役所での友好都市締結の調印式へとこぎつけたのだった。

大分市は、別府湾に面する新産業都市である。
豊後の国府として海路往来で栄え、とくに戦国期には大友宗麟がいちはやく「南蛮文化」を受け入れた。国際化の気質はワールドカップ開催都市のひとつとなるなどに引き継がれている。サッカーの大分トリニータの本拠地。伝統のある別府大分マラソンでも知られる。毎年おこなわれる「大分国際車いすマラソン」に武漢市の選手団を招待し、市民参加のノーマライゼーションの実践として、車いすでの国際交流の経験も積んできた。人口は約四五万人。

武漢市は、長江と漢水との合流点に武昌、漢陽、漢口の三つの城市を形成して「武漢三鎮」と呼ばれてきた。歴史は古く、三国時代に呉の孫権が拠った。武漢の名は明代から。一九一一年一〇月一〇日の武昌起義は、辛亥革命の幕開けとなった。先の大戦では、戦略拠点として日中間で激しい攻防戦のすえ、一九三八年一〇月にひとたび陥落したが、その後、戦線は点と線を守る持久戦となったことで知られる。解放後の四九年五月に武漢市になった。
主要産業は、製鉄、造船、紡績、機械製造などで、近年は国際化のもとで外資系の自動車産業も盛んに。「歴史文化名城」のひとつ。長江中流域の水陸空交通の中枢である。
夏の暑熱は有名で、南京、重慶とともに「三大火炉」と呼ばれる。夏、熱量を使う大都市がヒートアイランドとなるのは、近年に始まったことではない。たびたび長江の水害に見舞われ、大分市はその都度、義援金を送って支援してきた。長江の「三峡ダム」は武漢市の五〇〇キロ上流に世紀の事業として建設されている。人口は約八三〇万人。

二五周年記念式典で、李憲生市長は「大洪水に示された支援を決して忘れない」と感謝を述べた。釘宮市長は「先達の築いた成果の上にさらに交流を」と挨拶、村山顧問は「歴史を鑑とする」大切さを訴えた。

古来、固く麗しい友誼を「金蘭の契り」というが、鉄を契機にし、障害を持つ市民の相互理解へと踏み出した両市の交流は、まごうかたなき「金蘭の友」としてのものである。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・物産の絆-牡丹は群芳に冠たり

牡丹は群芳に冠たり

須賀川市―洛陽市(河南省) 

「牡丹の花品は群芳に冠たり」

かつて宋代に「花城」と呼ばれた洛陽に住んでいた邵雍は、こう詠って牡丹を讃えている。古来、牡丹は花王とされてきたが、しかもその花王の中でさらにまた王があるという(牡丹吟)。明代の薛鳳翔は『牡丹史』のなかで、神品、名品、霊品、逸品、能品、具品と分けて、それぞれに花の名を添えている。神品のなかの「雪素」「独粋」「嬌容三変」とはどんな妖艶な牡丹だったのか。「魏紫姚黄」というと名花のことを指すのだが、魏さんの紫花、姚さんの黄花というのは、優れたブリーダーの存在を推測させる。人も牡丹も神品は、優れた要請者、鑑賞者によって生まれるのだと邵雍はいいたいのだろう。

いまでも中国では艶麗な牡丹が国花とされる。が、冬は梅、春は牡丹、夏は蓮、秋は菊が、それぞれに季節を代表する国の花として愛でられ、中国各地にそれぞれの名勝がある。

日本では福島県須賀川市の「須賀川牡丹園」が一九三二(昭和七)年に国の名勝に指定されている。四月下旬、東京ドームの三倍ほどの広さをもつ園内では、二九〇種七〇〇〇株の牡丹が、次々に多彩で濃艶な花を開き、花品を競うことで知られる。江戸時代のなかばの一七六六(明和三)年に根を薬用とするために栽培を始めたという歴史を持っている。 
春の訪れを告げる花としては、日本では桜の賑わいの後だけに、洛陽とは違って静かに鑑賞されている。市の花はもちろんボタンである。人口約八万人。

洛陽市は、「中原に鹿を逐う」地にあって何度も興亡を繰り返して「九朝の古都」と呼ばれる。倭の奴国王や女王卑弥呼の遣いが訪れた都で、その後も遣唐使がかならず立ち寄った東都であった。吉備真備が二度おとずれて文物を持ち帰った歴史的交流の絆から、洛陽市と岡山市が友好都市になっていることはすでに述べた。洛陽市と須賀川市は牡丹で結ばれている「花の友好都市」なのである。
唐代から長安とともに牡丹の名城として知られた洛陽は、宋代には前述した魏紫や姚黄などといった新種が作られて評判になった。いま洛陽市では、四月中旬(須賀川よりは少し早い)に「牡丹花会」が催されて、海外からも観光客が訪れる。市内の王城公園や北郊の邙山牡丹園は国際色に彩られる。
市の郊外には、中国最初の官立寺院である白馬寺や三大石窟のひとつ龍門石窟などの仏教古跡や、三国時代の英傑関羽の首塚(関林)といった歴史にちなむ観光名所も多くある。

両国を代表する牡丹の名勝の地が、牡丹を介して結ばれる。これほど華やいだ友好の絆は他にない。

両市の友好都市締結は、一九九三年八月一日に洛陽市で調印された。須賀川市からは高木博市長や日中友好協会の水野正雄理事長(洛陽名誉市民)ら、それに市内の中学生など一六八人が参加しておこなわれた。その後、洛陽市からは劉典立市長を代表とする市友好訪日団をはじめ、牡丹栽培技術研修生、病院看護技術や企業会計実務研修生などが次々に訪れている。

友好都市一〇周年を迎えた記念式典が二〇〇三年一〇月、須賀川市日中友好協会会長でもある相楽新平市長らが参加して洛陽市で行われた。両市で協議した結果、記念事業のひとつとして今後一〇年間、毎年一〇〇株の牡丹を相互に贈り合うことになった。
一〇年後には、両市の牡丹園に、それぞれ一〇〇〇株の牡丹が、日中友好の大輪の花を咲かせることとなる。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・物産の絆-紙といえばの産地同士

紙といえばの産地同士

富士市―嘉興市(浙江省)   

「静岡茶とみかん」が名産の静岡県と「龍井茶と温州みかん」で知られる浙江省が、一九八二年四月に友好省県となったことは、自然の産物といったところだろう。富士市と嘉興市の友好都市提携は少し遅れて、嘉興市側からの提案ではじまったのだった。   

八四年九月に静岡を訪れた浙江省の友好代表団から、嘉興市と同じ紙の生産地同士で友好関係を結びたいという希望が出され、「紙といえば富士市」が当然の提携相手として話題となった。富士市の製紙工場の操業は一八九〇(明治二三)年にさかのぼるが、嘉興市にも一九二〇年に創業した民豊製紙工場があったからである。
さっそく八五年一月には、嘉興市の周洪昌市長から「友好提携をしたい」旨の書簡と富士市長一行招待の申し出が届いた。富士市側もすぐに対応して、同年五月には渡辺彦太郎市長を団長とする調査団が訪問した。翌八六年四月には周洪昌市長らが訪日した。
八七年一〇月には民豊製紙工場の生産力アップに関して企業診断の要請がなされ、富士市は八八年三月に中国民豊製紙技術診断チームを派遣している。 

両市は省県交流の進展とあわせて着実に接触を重ねて話し合い、友好都市提携を迎えた。八九年一月一三日、嘉興市から周洪昌市長を団長とする友好訪問団が訪れて、富士市民一千余が見守る中で、周洪昌市長と渡辺彦太郎市長が協定書に調印した。

嘉興市は、上海市と杭州市の間に位置し、杭州湾に面している。市の南端に名勝「南湖」がある。現代中国の誕生にとって重要な役割をはたした湖である。二一年七月、南湖に浮かぶ遊船の上で中国共産党第一回全国代表大会が開かれ、一二人の代表が正式党名や綱領一五条を決定したのだった。湖南省の毛沢東は書記として参加している。いまも湖上にはそれを記念して「紅船」が浮かんでいる。湖中の島には「煙雨楼」があって、有名な杜牧の詩「江南の春」を思わせる。製紙のほかに絹織物が盛ん。水稲、野菜類や、川や運河が交錯して水産物も豊かで、「魚米之郷」と呼ばれている。人口は約三三二万人。  

富士市は、駿河湾を前に秀麗な富士山を背に「雄大な富士山のもと 躍動するまち ふじ」が市のキャッチである。
紙・パルプ、輸送用機械、化学・電気機械などを主とした産業都市から、優位な立地を生かした知識集約型産業への転換を目標としている。人口は約二四万人。

富士市と嘉興両市は、友好都市提携の後、市の各部門、経済、芸術、女性、報道機関ほかの多彩な分野で年々、着実に交流を積み重ねてきた。環境行政での人的交流や意見交換も欠かせない課題である。もちろん民豊製紙の関係者による施設視察・懇談にも対応している。「富士市民友好の翼」による訪問も回を重ねている。とくに将来の国際社会に貢献する人材育成の一環として、「少年親善使節団」派遣や青少年受け入れに力をそそいでいる。五周年、一〇周年には「嘉興市物産展」を開催した。

一五周年に当たる二〇〇四年九月四日には、陳徳栄市長ら友好代表団を迎えて、富士市で記念式典がおこなわれた。嘉興市民俗芸術団による民俗楽曲や古典舞踊は来場者の喝采をあびた。陳徳栄市長と鈴木尚市長は、一五年の交流を糧に、両市の友好と協力の絆をより強いものにし、世界平和への貢献を誓う「飛躍の誓い」(騰躍之語)に調印した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・物産の絆-酒づくりの技を磨くまち

酒づくりの技を磨くまち

西宮市―紹興市(浙江省) 

西宮市と紹興市をつなぐ絆といえば、何を置いても「灘の生一本」と「紹興酒」である。これほど有名な名産物同士を絆とする友好都市は、あまり例がない。
まずは、お互いの旨し「天の美禄」で友好の乾杯となる。それからさまざまな交流の話が進むことになる。

西宮市の各界代表が参加した友好訪中団がはじめて紹興市を訪問したのは一九七九年一〇月だった。
その後、市民の間からも、
「古くからの酒造りのまちで景観の美しい紹興市との親善を深めよう」
という要望が高まった。  

そんな機運を受けて、八木米次市長が八三年一〇月に在日大使館に紹興市との友好都市提携の希望を伝え、市議代表団が八四年四月に紹興市を訪問し、王余良市長を招待した。同年八月には王市長が西宮市を訪れて両市の友好は深まった。

西宮市と紹興市の友好都市提携の調印式がおこなわれたのは、翌年八五年七月二三日のことだった。紹興市の王余良市長ら友好代表団が西宮市を訪れて、八木米次市長とともに提携の調印に臨んだ。 

紹興市は、上海から約二三〇キロ。浙江省に属する「歴史文化名城」であり「優秀観光都市」であり「中国で最も魅力ある都市一〇都市」のひとつにも選ばれている。まちには運河が縦横に走り、水郷風景が広がる。北は杭州湾に臨み、南に会稽山を負い、東には寧波市、西には杭州市に接する。
越王勾践が「臥薪嘗胆」してついに「会稽の恥」をそそいだ故事は有名。また書道家王羲之の「蘭亭集序」に縁りのある蘭亭、名園の沈園、ともに日本に留学し、近代革命に心血をそそいだ魯迅の生家、秋瑾の故居、周恩来の祖居などが残る名士の郷でもある。二〇〇余の重要文化財、史跡三六〇〇カ所があり、「壁のない博物館」ともいわれる。
そして何より「東洋名酒の冠」と称される「紹興酒」の産地である。毎年の秋には「黄酒まつり」が催される。人口は約四三四万人。

西宮市は、南は大阪湾、北に六甲山を負い、東に神戸市など、西に芦屋市。阪神地域の中央部に位置している。商売繁盛の「えべっさん」で親しまれる西宮神社、高校球児あこがれの甲子園球場がある。「全国から訪れる人がいる」ことが街の魅力という西宮在住のギタリスト、クロード・チアリさんは、ニース生まれのパリ育ちである。
そして何より山田錦と宮水でつくる清酒「灘の生一本」の産地である。酒蔵が残り、酒ミュージアムや宮水庭園が整備公開されている。二〇〇五年四月に市制八〇年を迎え、「文教住宅都市」づくりが進む。人口は約四六万人。

これまでの主な交流は、両市代表団の相互訪問、市民や中学生の友好訪中団の派遣、経済貿易訪問団や医学研修生の受け入れ。王羲之顕彰碑や北山緑化公園に「小蘭亭」や「墨華亭」の建設、日中友好桜林(一千本余り)の建設など。阪神淡路大震災の折りには義捐金が贈られた。紹興物産展、テレビ番組の交換、太極拳・空手の交流、書画展など。学文中学と紹興市元培中との友好校活動もある。

二〇〇五年は提携二〇周年に当たった。五月には山田和市長はじめ西宮市民一〇〇余人が紹興市を訪れて記念式典に参加、「西宮市書画展」を開催した。また一〇~一一月にかけては、紹興市から張金如市長らが西宮市を訪れ、両市合同の書画展が開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・物産の絆-大杏と林檎が友好の果実

大杏と林檎が友好の果実

北上市―三門峡市(河南省)  

「仰韶大杏」といえば、三門峡市名産の杏の名である。「仰韶遺跡」といえば、新石器時代(五〇〇〇~七〇〇〇年前)の文化を代表する遺跡の名である。同じ大地の上に、いまも杏のほか棗、山楂、胡桃、葡萄、林檎など、さまざまな種類の果実が豊かに実っている。大河のほとりの肥沃な土地、古代からこのあたりに人と物の交流の拠点のひとつがあったことを推測させる地域である。

黄河は、ひとたび北上したあと、内蒙古高原から一気に南下してくる。このあたりは中流である。山岳地帯から平原へとむかうところで左折して渭水をあわせて東流する。ここで黄河を東流させるために、伝説時代の聖人、禹が三門を穿ったというのが市名の由来という。西周時代には虢国があったが、「唇亡びて歯寒し」の故事を残して虞国とともに滅亡した。いま当時の車馬坑が発掘されており、西周時代の生活や社会の解明に新しい素材を提供している。

そして市の西境が天下の険として知られる「函谷関」である。ここは「鶏鳴狗盗」の故事の鶏鳴のほうの現場である。また老子が都洛陽を捨てて西方に去るにあたって『老子道徳経』を残したことでも知られ、太初宮には長髯の老子が筆をもつ坐像が安置されている。「函谷関」の西は陝西省であり、黄河の北は山西省。三門峡は河と陸を通じる古くからの交通の要衝であった。いま工事中の西安・三門峡・洛陽を結ぶ高速道路が完成すれば、新たな拠点となるだろう。農産物ばかりでなく、採掘しやすい浅い層にある鉱産資源にも恵まれている。三門峡ダムの建設にあわせた工業化が進み、新しい技術の導入にも意欲的であることから、内陸の中核都市への発展が期待されている。人口は二一〇万人。 

早くから日中交流に熱心だった北上市の提携相手として三門峡市を推薦したのは、河南省の対外友好協会会長だった蔡流海氏であった。一九八四年に友好親善訪日団の一員として来日した蔡氏を、北上市日中友好協会が市へ招いたことが契機となった。

北上市は、北上川と和賀川の合流地点に広がる田園都市である。林檎は名産のひとつであり、長芋や里芋の主産地となっている。古くから奥州路の交通の要衝で、いまは「水と緑豊かな文化・技術の交流都市」が目標。北上川流域テクノポリス圏域の中核都市として発展している。

両市の友好都市提携の調印式は、八五年五月二五日に、斎藤五郎市長ほか市民友好訪中団五○人が訪中して、三門峡市でおこなわれた。同年一一月には三門峡市から候国富市長らが北上市を訪れた。
以来、両市の交流は、大杏と林檎の苗木交換を絆としながら交流の輪を広げてきた。民俗芸能の「鬼剣舞」と「獅子舞」の交換公演も行われ、「北上みちのく芸能まつり」にも出演した。また三門峡市の「中日友好植物園」と北上市の「詩歌の森公園」には交流の証しとしてそれぞれに「友好亭」が完成している。北上市民の友好訪問は回を重ねて、一五周年(二〇〇〇年)の一八次友好訪中団「北上市民の翼」には、伊藤彬市長をはじめ市民七五人が参加した。

三門峡市から贈られて、北上の地に移植された大杏の苗木四〇〇本に、実がなるようになった。真っ赤な大粒の実である。北上市ではこの友好の果実を「直売にかけるのか、ジャムやジュースに加工するのか」という課題にも取り組むことになった。
一方、三門峡市では林檎「富士」がたわわに実をつけるようになっている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・物産の絆-伝統工芸が息づく古都

伝統工芸が息づく古都

金沢市―蘇州市(江蘇省)

中国から金沢市へやってきた留学生や研修生たちは、いくつもの定例行事に参加することができる。
新年会、友好花見、碑前祭、忘年会、さらには交歓会やハイキング、そして何よりうれしいのは、親身になって世話をしてくれる「日本のおかあさん」たちがいることだ。

「いいね金沢」

若者たちは金沢好きになって帰国する。
「碑前祭」は、夏草が茂る旧盆前に、「日中友好記念碑」の前で行われる。先の戦争の末期に、祖国へ帰れずに亡くなった中国人労働者の霊を慰め、友誼を傷つけた過ちの経緯を再び繰り返さないことを碑前で誓う。
一九六九年七月、卯辰山に建てられた碑石には「日本中国友誼団結」と印され、裏面には郭沫若中国科学院院長から贈られた、

「共掃妖気浄八荒」(共に妖気を一掃して世界を浄めよう)

の終句を持つ七言絶句が刻まれている。

蘇州市は、上海から西へ約七〇キロ、太湖に臨む「水の都」である。江南随一の景勝地である一方で、新区・特区への外国企業の進出で変貌を遂げつつある。人口は五八〇万人。
拙政園、留園、獅子林といった古庭園(九つが世界遺産に登録)や張継の詩「楓橋夜泊」に、

「月落ち烏啼いて霜天に満つ・・夜半の鐘声客船に至る」

と詠われた寒山寺といった歴史文物、絹の刺繍や白檀の扇子などの伝統工芸でよく知られる。
「蘇州夜曲」(西条八十詩・服部良一曲)は、李香蘭(山口淑子)主演の映画の挿入歌として一九四○年に発表されて以来、いまでも広く歌われている。

一方、金沢市は加賀友禅や漆器、象嵌、金箔、和傘、桐工芸といった細工物の伝統を継承している古都である。庭園は兼六園が有名である。金沢市はとくに海外の都市との交流をたいせつにしてきている。小さくとも独特の輝きを放つ「金沢世界都市構想」を掲げて、蘇州のほか全州(韓国)、イルクーツク(ロシア)、ナンシー(フランス)など七都市とも友好関係を結んでいる。

金沢市と蘇州市との提携は、一九七〇年代末から提携するなら類似した歴史、伝統、物産をもつ蘇州市と決めて接触がはかられ、八〇年四月、石川県日中友好協会の定期総会が蘇州との友好都市実現を活動の柱としたところから加速した。同年五月には県日中友好協会のシルクロード視察団(徳田与吉郎団長)が、帰路一日を割いて蘇州市を訪問し、
「国家間にはいろいろな対立が生じる。しかし、一部の指導者が緊張を増大させる政策をとったとしても、多くの都市と都市、個人と個人の友好関係の存在は再び戦争になることを許さなくなる」
と両市の交流の重要さを切々と訴えた。

廖承志中日友好協会会長の力添えを得て、大阪府池田市とともに蘇州市との提携が決まり、八一年六月一三日、「百万石まつり」で賑わう金沢市で、来訪した方明蘇州市長と江川昇金沢市長との間で、両市の友好都市締結の調印がなされた。
その後、「蘇州国際シルク祭」への参加や物産文化展の開催、加賀宝生能と蘇昆劇の相互公演、合同美術展、重量挙げまで、交流は各界へと広がっている。そして蘇州大学と金沢・北陸・金沢星稜各大学が三年次編入の制度を導入したことで、双方の大学から卒業証書が授与されることになり、蘇州市からの学生がいっそう増えている。

金沢と蘇州、お互いに無理のない相手同士だから、交流の成果もおのずから蓄積されていくだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・動物の絆-トキが舞う大空の下で

トキが舞う大空の下で

佐渡市と洋県(陝西省) 

トキ(Nipponia Nippon)が日本の空から完全に消えたのは、一九八〇年のことだった。八一年一月に、佐渡に生き残っていた野生のトキすべて(オス一羽、メス四羽)を捕獲して、新穂村のトキ保護センターで飼育することになったからである。以後センターでペアリングが試みられたが成功せず、メスの「キン」には中国陝西省洋県からペアのオスを借り受けたり、オスの「ミドリ」を洋県に送ったりしたが、ついにヒナは得られなかった。

最後の日本トキ「キン」が死んだのは、二〇〇三年一〇月一〇日のことだった。 

それより前の九八年一一月に、日本を訪問した江沢民国家主席から友好の印として贈られたのが、「友友」と「洋洋」のペア。九九年一月に佐渡へやってきた二羽はその春、日本で初めてのヒナを生み、「優優」と名づけられた。「優優」の花嫁として「美美」をプレゼントしてくれたのが二〇〇〇年に来日した朱鎔基首相である。

こうして日中友好と自然環境回復のシンボルとして、日本生まれのトキは順調に増え、〇八年には一二三羽(〇八年ふ化二九羽)が飼育されるまでになっている。
 トキを介して、トキ保護センターがある新穂村と「朱鷺救護飼養繁殖センター」がある洋県との交流が始まったのは、九四年だった。九八年六月二二日に洋県を訪れた平山新潟県知事の立会いの下で、新穂村と洋県の「友好協議書」の調印がおこなわれた。

 陝西省洋県は、西安から南へ約三〇〇キロ。秦嶺山脈を南に越えて、漢中平野に広がる農村地帯にある。絶滅とされていた野生のトキ七羽が八一年に発見されて以来、人工ふ化や保護によって数百羽にまで回復、ねぐらと餌場を行き来する姿が見られるようになった。

佐渡市は、〇四年三月に新穂村をふくむ島内一〇市町村が合併して発足した。面積約八五五平方キロ、人口約七万二〇〇〇人。同年七月二六日の新市誕生を祝う記念式典の折り、高野宏一市長と楊瑞良・代県長が新たな「友好協議書」に調印した。トキの保護・増殖の協力強化や農業技術の交流、小・中学生による交流も新市に継続されることになった。
野生復帰にむけた「順化訓練施設」の建設もすすみ、餌場の湿地やねぐらとなる林がある里山には、順化ケージ、繁殖ケージ、管理棟などを〇四年から三年で建設し、〇八年の試験放鳥をめざす。

二〇〇八年七月現在の国内でのトキ飼育個体数は、〇八年生まれの幼鳥二八羽を入れて一二二羽になっている。これらは、今後、佐渡トキ保護センターと野生復帰ステーションと東京・多摩動物公園に分けて飼育を続けることになる。
二〇〇八年の秋には、檻から自然環境への「試験放鳥」が初めておこなわれる、佐渡トキ保護センターの野生復帰ステーションでの準備は整った。あとは住民、NPO、小・中学生などの支援を受けて、カエル、ドジョウ、小魚といった餌を自力で採り、安全に暮らすことのできる環境ができて、「トキが大空を飛ぶ」ことが可能になる。トキの自然復帰に成功したとき、日中両国をつないで四半世紀をかけたプロジェクトが何であったかが理解されることになる。

国際保護鳥のトキが、日中友好の翼を広げて日本の空を舞う日も近い。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・動物の絆-金絲猴が結んだ古城の町

金絲猴が結んだ古城の町

犬山市と襄樊市(湖北省) 

中国でサルといえば「金絲猴」である。金色の毛並みをし、孫悟空を連想させる面がまえのサルとして人気がある。パンダやトキとともに国家の一級保護動物である。

日中友好のシンボルとして、
「ニホンザルと交換して贈呈を受け、犬山で飼育できないか」
一九八〇年当時、犬山市のモンキーセンター動物園長だった小寺重孝さんもそう考えたひとりである。金絲猴は湖北省の山地に生息している。そこで犬山市はまず湖北省政府と交渉することになった。
松山邦夫犬山市長と小寺重孝園長ら代表団は、八一年六月に湖北省武漢市を訪問し、初めて金絲猴と対面した。そしてサルの交換飼育とともに都市同士の友好も必要とあって、犬山市にふさわしい都市として、湖北省政府から襄樊市の紹介を受けたのだった。こうしてふたつの「古城の町」同士の友好は、金絲猴を介して始まった。

犬山市は、名古屋から北へ二五キロ、木曾川の流れに古城が映える緑豊かな町である。人口は七万余。「犬山城天守閣」は国宝である。城多しといえども国宝は四つしかない。姫路城、彦根城、松本城、そして犬山城である。市内には織田有楽斎にちなむ茶室「如庵」(国宝)もある。
それとともに霊長類研究では世界レベルの京大霊長類研究所があり、七三種六〇〇頭を管理するサル動物園「日本モンキーセンター」でも知られる。犬猿の仲というが、犬山ではイヌにも増してサルはたいせつに飼育されている。

襄樊市は、湖北省の北西部、長江にそそぐ漢水の中流域にあって、右岸側の襄陽と左岸側の樊城とからなる。二八〇〇年の歴史を誇る「歴史文化名城」である。襄陽と樊城といえば、いくつかの三国志の名場面を思い浮かべる人もあるだろう。戦陣に立てずに「脾肉復生」(脾肉復た生ず)を嘆いていた劉備玄徳が、左岸側の新野から漢水を渡って、襄陽郊外の隆中に隠れ棲んでいた諸葛孔明を「三顧草盧」する姿が思い浮かぶ。また樊城に立てこもる魏の曹仁を、蜀の英傑関羽が攻略する場面も捨てがたい。
内陸の中核都市として、産業面では紡績のほか自動車、医薬、建材などの工業が盛んである。鉱物資源も豊かで、農業は野菜、小麦、胡麻などのほか、米、酒、茶といった特産品もある。人口約六七〇万人。 

金絲猴の飼育と研究への犬山市側の要望が進展をみないうちに、両市の関係者による親善・視察訪問があって、友好都市提携の話のほうが先に進んだ。八三年三月一三日、王根長市長ら襄樊市友好代表団を迎えて、犬山市役所で提携の調印式が行われた。
そして八五年三月、「金絲猴の日本初公開は犬山で」という中国側の配慮により、襄樊市が「宝宝」と「珍珍」を貸し出すという形で、「金絲猴初展覧」が実現した。三月~六月の会期中に、犬山市のモンキーセンター特設金絲猴園には、六〇万人がつめかけた。

友好交流のあたっては、襄樊市が内陸都市であるために、沿海都市に比べればお互いの往来はきびしい。が、両市友好代表団の相互訪問、市芸術団や青少年武術団、動物、義歯技工、行政ほかの研修生の来訪などが地道に続いている。

二〇〇三年の締結二〇年には、友好代表団が来訪し、市の花樹であるサクラとサルスベリを植樹した。
遠くない将来、両国の優れた研究者・飼育者のもとで金絲猴が親善大使として日本に常駐するとなれば、どこよりもやはり犬山市が最もふさわしい。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・動物の絆-フタコブラクダも応援

フタコブラクダも応援

秋田市と蘭州市(甘粛省) 

蘭州市は、中国の中央に位置している、というと驚く人もあるだろう。北京から西南へ約一八〇〇キロ、西安から西へ約六〇〇キロ、黄河が蒙古高原へむかって北上を始める地点にある。じつはこのあたりが中国の中央なのである。一度ぜひ地図で確認してみてほしい。
ここで鉄道は東へ隴海線(~連雲港)、北へ包蘭線(~包頭)、西北へ蘭新線(~烏魯木斉)、西へ蘭青線(~西寧)が交差し、各地への分岐点となっている。

古くからシルクロードの中継地としての歴史を刻んできた蘭州市だが、いまは内陸部の工業都市として知られる。資源が豊かで石油化学、冶金、鉄鋼、紡績、皮革加工などが盛ん。石油コンビナートへはひところ、沿海の工業地帯からも多くの人が移住して従事したほど。農業は穀類のほか瓜類が有名で、「瓜果の里」と呼ばれる。牧畜は牛、馬、羊のほかラクダも主産地。甘粛省の省都で、人口は約三四七万人。隋代に総督府が設けられて以来、蘭州と呼ばれるようになり、一四〇〇年の歴史がある。
ご存じ「蘭州拉麺」(牛肉ラーメン)の本場だが、麺と野菜は豊かでもスープは日本ラーメンのほうがというのが通説になっている。しかし、食べての評は郷に入りての味わいのうちにあるだろう。 

秋田市は、二〇〇四年に建都四〇〇年を祝った東北屈指の城下町である。佐竹義宣が完成した久保田城に入ったのが一六〇四(慶長九)年のこと。以来四〇〇年、みちのくの雄藩として独自の伝統と産業を培ってきた。国の重要無形民俗文化財に指定されている「竿灯まつり」は、太鼓と笛の音とともに五穀豊穣への祈りをこめた東北屈指の夏の行事になっている。二〇〇五年一月に河辺町、雄和町と合併して人口は約三四万人に。「緑の健康文化都市」をめざしている。 

一九七八年一〇月二三日に日中平和友好条約が締結されたころから、秋田市民の間に中国の都市との交流促進の機運がたかまった。両市の提携は、八〇年一〇月に訪中した市議会議員団が北京の中日友好協会に秋田市民の要望を伝えたところ、同協会から蘭州市が提案されたことから。
秋田・蘭州両市の友好都市提携の議定書調印は、八二年八月五日、蘭州市からの代表団を迎えて、秋田市でおこなわれた。同時に進んでいた秋田県と甘粛省の省県提携も、この時に合同でなされた。

提携の後、公式訪問はもちろん、秋田市からは「開発協力事業」や「文化研修生」として各分野の専門家を送り込み、蘭州市からは病院、商工、教育、都市開発などの技術研修生を受け入れてきた。文化交流として〇六年に開かれた「太極拳講座」は、五大流派(陳式、楊式、武式、孫式、呉式の五つ)について映像をつかいながら特徴や歴史を紹介し、基本動作を説明するもので、一五〇〇人の市民が体験した。市民が主催する「合同水墨画展」も両市で開かれている。

また秋田市大森山動物園で飼育されているフタコブラクダの「蘭泉」と「田田」は、提携の記念に来園したもの。これまでに一〇頭の子どもを各地の動物園に提供、友好の応援をしてきた。二七歳。人間なら八〇歳という高齢になった。 

両市の持ち味である粘りづよい努力を経て、本来の成果を確認するには世紀の時を要するだろう。交流は始まったばかりである。来日して授業参加をし、ホームステイをし、秋田駅で涙で別れを惜しむ蘭州市と秋田市の小学生たち。成果はなおその先にある。(二〇〇八年九月)