新情報--岡田副総理、「高齢社会対策」担当大臣はあなたです。

岡田副総理、「高齢社会対策」担当大臣はあなたです。
1月13日の内閣改造人事で、「高齢社会対策」担当大臣が蓮舫議員から岡田克也副総理に変更になりました。
といっても、全国の高齢者のみなさんはご存じないだろうと思います。ひょっとすると、たくさんの職務を兼任することになった岡田さんも気づいてないかもしれないのです。岡田さんの担当は、行政改革、社会保障・税一体改革、公務員制度改革、それに内閣府特命担当大臣として、行政刷新、「新しい公共」、少子化対策、男女共同参画までが新聞発表で、「高齢社会対策」の名は見えません。「日本高齢社会」は国際的にも注目されているのですが。
これまでのところ、週2回の記者会見でも、岡田さんから関連の発言はないようですし、記者からの関連の質問もないようですから、単なる担当大臣の変更であって、内容に変更が起きるようすはありません。
これはいったいどうしたことなのでしょう。
高齢者(65歳以上)はことし3000万人に達します。これだけの人びとが体現している「高齢社会」が重要でないわけはないのですが、政策としては、医療、介護、年金などの「高齢者対策」としての「社会保障」が相変わらずの国の政策であって、「高齢社会対策」ではないからです。「高齢社会」を体現している元気な高齢者は毎年増えつづけてきたものの、これまでは施策として大きな予算措置を講ずるような経済社会的な難題を生じなかったということでしょうか。1999年の「国際高齢者年」のあと、この国の10年余の高齢社会対策の推移を観察しつづけてきた立場からいえば、政治リーダーの「高齢社会」構想の不在(政治不在ゆえの官僚主導)が、この国の穏やかな社会の変革を阻害してきたといわざるをえないのです。ひとことでいえば「歴史的な失政」です。歴史家はそう記すでしょう。
21世紀の重要な課題であるからこそ、国は1995年(65歳以上は1825万人)に「高齢社会対策基本法」を制定し、1996年に対策の中長期的指針となる「大綱」を閣議決定し、2001年に「大綱の見直し」をおこない、今般、10年ぶりに「大綱の見直し(作りかえ)」をすすめているのです。その基本にあるのは、ことしから高齢者の仲間入りをする200万人余の「団塊の世代」の人びとが体現している--支えられる高齢者から支える高齢者への「高齢者像」の変革です。
内閣改造のあった前日の1月12日、内閣府では、「高齢社会対策大綱」の見直しのための「報告書素案」について、有識者検討会が開かれていました。「報告書素案」について、清家篤座長(慶応大学塾長)を中心にして6人の委員の方々の議論がおこなわれ、その結果をふまえて2月には最終案が提案され、予定では年度中に高齢社会対策会議が開かれて「見直し大綱」が閣議決定されようとしているのです。
支えられる高齢者から支える高齢者への意識の変革をもとめるなら、広く国民とくに高齢者にその経緯も内容も知ってもらわなくてはなりません。知られることなく6人の委員の意見が聴取されただけで、中長期の指針が決められようとしています。「見直し」はまずその議論の手法にあるのですが、そのことに岡田担当大臣の認識は届いていないようです。
野田総理が「大綱見直し」を指示したのは昨年10月14日でした。趣旨説明をおこなったのは当時の蓮舫担当大臣で、2012年から「団塊の世代」が65歳に達して経済社会情勢に変化が見込まれるというのがその主な理由とされています。
「報告書素案」にも、「団塊の世代」の参加による高齢者意識の変化、全世代の参画、「ヤング・オールド・バランス(世代間の納得)」、「シルバー市場の活性化(総理の指示に応えて)」そして「互助(顔の見える共助)」の必要性など、「高齢社会」が実質的に動く時期にさしかかっているという認識が示されています。
この国の「高齢社会」の変革にかかわる重要な会議の経緯を、蓮舫大臣がそういう認識をもって、岡田大臣に引き継いだようすはありません。
そして同じ1月12日、内閣府から至近の距離にある憲政記念館会議室では、高連協による「高齢社会大綱の見直し」に際しての「高連協提言」(別掲)の発表会が開かれました。
「提言」は、普遍的長寿社会は人類恒久の願望であり、「高齢化最先行国」として世界に示す施策とすべきこと、高齢者は能力を発揮して社会を活性化し充実感を持って生きること、就労の場における年齢差別の禁止、基礎自治体との協働、少子化社会対策、より良い社会を次世代に引き継ぐこと、ほかを提案。将来像としては、世代間の平等、持続可能性等の観点から「釣鐘型社会」を想定しています。
樋口恵子、堀田力代表の提言者としての発言はじめ出席高齢者のみなさんの議論があったのですが、報道関係者の姿は少なく、残念ながらニュースとして伝えられたようすがありません。野田総理、岡田担当大臣の手元には届いているのでしょうが、1999年いらい民間にあって高齢社会のありようにかかわってきた人びとの貴重な「提言」と発言を、一般の高齢者に伝えるメディアもないというありさまなのです。
岡田副総理から記者会見で「大綱見直し」への言及はなく、記者からの質問もなく、「高齢社会対策大綱」の検討は 公開の機をえないままで推移しています。岡田さんは「日本が沈みつつあるということをいろいろな場面で実感」しているので「歯止めをかけたい」とまでいいながら、優れた知識と経験と気力と資産を保持している3000万人(票)の先輩たちに参画も支援も求ようとしていません。3000万人の高齢者の穏やかな参画をえないゆえに「日本が沈みつつある」ことに気づかない高齢社会対策担当大臣、これではこの国の何かが変わるとは思えません。
岡田副総理、あなたは「高齢社会対策」担当大臣でもあるのです。

四字熟語-松柏之茂

松柏之茂

しょうはくのも

他の植物が葉を落として新年を待つのに、松と柏は寒中にも葉を緑に繁らせて長寿であることから、「松柏の茂」は衰微せずに不変であることに例えられる。

この柏は日本のカシワではなく和名コノテガシワ(児の手柏)のことで常緑樹。カシワは落葉するので一見すれば違いがわかるのに、なぜか先人は柏の字にカシワを当ててきた。わが国に老樹は多くないが、東京・国分寺市の祥應寺で樹齢六〇〇年を超える大樹をみることができる。

実は南京の老樹「六朝松」が柏であるなど、中国でも松と柏をわけずに用いてきた例は多い。旅先で「古老柏」に出会う。中岳嵩山の嵩陽書院内には漢の武帝によって将軍に封じられた「将軍柏」がいまも傾きながら雄姿をみせているし、山西省太原市の晋祠や高平市には三千年柏もある。

先人は松柏に託して長寿を願ってきた。「松柏の茂」は堅固で厳しさに耐える品格を評することばとして、二千年傾くことなく故事成語の林に立っている。 

『詩経「小雅・天保」』など

「高齢社会対策大綱の見直し」に対する「高連協提言」 2012・1・12 報告

「高齢社会対策大綱の見直し」に対する「高連協提言」 2012・1・12 報告
昨年末、2011年12月28日の新情報「高齢社会対策大綱の見直し」稿で、
全国の高齢者のみなさん、平成二四年一月一二日、蓮舫担当大臣のもとで内閣府で開かれる「第三回高齢社会対策の基本的在り方等に関する検討会」の報告書素案に注目してほしい。そして同日同時に、近くの憲政記念館会議室で、高連協(高齢社会NGO連絡協議会)が開催する「高齢社会大綱の見直し」に対する「高連協提言」発表会を合わせ注目してほしい 。
と訴えた。
内閣府の検討会は、今回は6人全員の出席のもとで、「報告書素案」が提案されて検討がおこなわれました。12日に提案された「素案」は内閣府のホームページで読みましたが、「団塊の世代」の取り込みに苦慮し、「互助(顔の見える共助)」の必要性、「全世代の参画による超高齢社会」への変革、「ヤング・オールド・バランス(世代間の納得)」という視点、「時間貯蓄・ポイント制」といった評価基準の多様化の提案、「シルバー市場の活性化」を加えて総理の指示に応えるといったところが、「見直し・追補」として見てとれます。
その後に、「おわりに」の内容をふくめて検討されましたから、会議録をみませんと細部はわかりませんが、「全世代型」や「ユニバーサル・デザイン」をいいながら三世代それぞれが世代としての特徴を活かした暮らし方、とくに高齢者から若年・中年へ配慮した参画への言及がないこと、高年社員による高年者向け商品製造による新しいしごとの創出、「エージング(引き延ばし)」とともに緩やかに形成されるべき「三世代コミュニティ」への推移、そして「意識変革(多重化)」などへの展開が欠けています。
全容の評価は、会議録の公表をまって行います。
1月13日の内閣改造で、高齢社会対策担当大臣が蓮舫議員から岡田克也副総理に変更になりましたが、当人から「大綱見直し」の言及はなく記者からの質問もなく、軽視(無視)されたまま推移しています。岡田さんは「日本が沈みつつあるということをいろいろな場面で実感」しているので「歯止めをかけたい」とまでいいながら、すぐれた先輩たちに「参画も支援」も求ようとしない。これでは何かが変わるとは思えません。
一方、高連協の「提言の会」は、憲政記念館会議室で別添のような「提言」を発表しましたが、朝日新聞の記者がきていただけで、樋口・堀田両氏をはじめとする高齢社会を体現している立場からの発言が、ニュースとして外部へ知られたようすはありません。
これはゆゆしき事態です。
別添
高連協「高齢社会対策大綱の見直し」に当たって提言
                                                      2012年1月12日 
内閣総理大臣
野田佳彦 様
高齢社会NGO連携協議会(高連協)共同代表 樋口恵子、堀田力
理事役員・有志一同
   高齢社会NGO連携協議会(以下「高連協」)は、高齢社会への対応・対策の促進を願い活動する我が国のNGOが、1999年国連が定めた「国際高齢者年」を機に創設した連合組織で、国連が提唱する高齢者の五原則(自立、自己実現、社会参加、ケア、尊厳)を基に、「高齢者(シニア)の社会参加活動の促進」を掲げて諸活動を展開しております。
  高連協の活動は、活動会員による定期的オピニオン調査(60歳以上2000名対象)の結果を踏まえた全体活動、そして、60余の加盟団体が相協力して展開している活動ですが、そのテーマのほとんどは国が示す「高齢社会対策大綱」の方針と内容に関わるものです。
 したがって、我々は「高齢社会対策大綱」には多大の関心を持っており、その見直しは高齢化社会の進行上必要なことと考えます。野田総理の高齢社会対策会議冒頭の挨拶と指示は、付言された「高齢者の消費の活性化」を「高齢者の生活行動の活性化(当然「消費」も活性化する)」と解せば、我々シニアは大いに共鳴するところです。
 以上のような観点から、我々は、社会参加活動に関わるシニアのオピニオンとして「高齢社会対策大綱の見直し」に当たって提言申し上げます。 
 「提 言」 
前文 
 我々シニアは、終戦、社会倫理の転換、貧困からの脱却のための経済成長から経済大国そしてバブル崩壊を生きて来た。この間日本人は平和な社会と生活の質の向上により、その指標とされる「平均寿命」の急速な伸長を得て、世界最高レベルの長寿を享受している。
 しかしながら、寿命の伸長とともに、子どもの自立・就労や結婚年齢のエイジング(加齢化)もすすみ、1980年以降は急激な出生減、少子化現象をきたしている。 
 普遍的長寿社会は、人類恒久の願望であり、世界各国とも目指す社会である。しかし、それを具現化しつつある我が国がそのモデル国と見做されるためには、低下した出生率の回復が望ましく、世代間の平等や家族・民族の持続可能性を目指した社会的努力が必要であろう。現在の我が国社会に必要なのは、我々が目指すべき社会像・将来像である。
 「高齢社会対策大綱」の見直しに当たっては、当面我が国における高齢社会対策としてのみならず、全世界的課題である高齢化の最先行国として、我が国が世界に示すことのできる施策となるよう、これを策定すべきである。
 上記「前文」を踏まえて、我々高連協は以下のとおり提言する。 
1.普遍的長寿社会においては、高齢者は、他の成人層と同じく、その能力を存分に発揮して社会を活性化するとともに、自らも充実感を持って生きることが求められる。
・  高齢者に対し、高齢であることを理由として社会生活からの引退を促すような制度や社会的風習は廃絶しなければならない。
・  社会的活動とくに就労の場における非合理的な年齢差別を廃し、積極的な高齢者の能力を活用するため、「年齢差別禁止法」を制定する。

・  「高齢者であっても、その能力を可能な限り社会に生かすことは、その権利であると同時に社会的義務である」という思考を醸成する。

・ 高齢者が能力を発揮するためには、人生後半のための情報、学習機会の提供が不可欠である。

2.「高齢社会対策大綱の見直し」においては、大規模かつ多様な高齢者への対応が求められるが、大綱に示す基本姿勢に則り、横断的かつ柔軟な取り組みをもって施策が推進されることが肝要である。
・  普遍的長寿社会において、総ての人が幸せな生涯を過ごすため、高齢者の尊厳保持を究極の目標として、高齢者に関する諸施策が総合的で整合性のあるものとすべきである。
・  高齢者の自主性を生かした社会参加活動を活性化するため、基礎自治体が地域社会の特性を生かし、高齢者の「居場所」と「出番」をつくり、高齢者を含めた住民との協働事業が促進されるよう施策の展開を図る必要がある。
・  弱体化した地域医療サービスについては、総合医を中核にした初期医療サービス体制を構築すべきである。そして、訪問診療も併せた幼児・児童と高齢者への対応サービスを推進する必要がある。
・  「高齢社会対策大綱」の見直しとその推進には、高齢有識者やシニア活動実践家の参加が不可欠である。 
3.我が国社会に求められる社会像、将来像としては、世代 間の平等、持続可能性等の観点から、人口、資産、就労面で解りやすい「釣鐘型社会」を想定したい。
・  先祖・親世代と同様、現代の高齢者も、より良い社会を次世代に引継ぎたいと願っている。
・  人口構造上の釣鐘型社会の想定には、国際移民の活性化も必要であるが、先ずは「少子化社会対策」の推進が重要である。
・  地域社会の老若男女がこぞって子育てにも介護にも参加し、四世代共住の支え合い型地域社会をつくることが肝要である。
以上
高齢社会NGO連携協議会(高連協)
〒104-0045 中央区築地2-15-14 築地安田ビル
Tel:03-3542-0363  Fax:03-3542-0362
jimukyoku@janca.gr.jp

 

 

 
 
 
 
 

四字熟語資料 動物に関する四字熟語

うさぎ

狡兎三窟 こうとさんくつ

ずるがしこい兎は三つの隠れ場所を持っているというのが「狡兎三窟」(*1)である。ずるがしこいといわれようと、強者の多い原野で、とくに武器になるような器官をもたない弱者である兎が難を逃がれて生きていく道は、危機察知能力とすばしっこいことと三つの隠れ場所を持っていることにある。そのうちのひとつは子育てのためのようだが。戦国時代斉の孟嘗君の食客のひとり馮諼(ふうけん)は、「狡兎三窟ありてわずかにその死を免るるのみ」といい、君が高枕をして臥すためには、あと二窟をつくりなされと説いて、他の二策を用意するよう勧めた。「二兎を追うもの」は六窟を相手にするのだから、一兎をも得られない結果になってもいたしかたがないだろう。

*1『戦国策「斉策」』から。

「狐兎之悲」「兎走烏飛」「守株待兎」「兎死狗烹」

 ねずみ・ねこ

猫鼠同眠 びょうそどうみん 

猫と鼠がいっしょに眠る「猫鼠同眠」(*1)というのはありえない情景だから、このことばはネコに問題があることを示唆していることに注意しよう。たとえば不正を働いた部下を見つけたら、通常なら罰しなければならないはずの上司や管理者が、何もしないで見過ごしたり、いっしょになって不正に荷担するなどがそれ。犯人を捕えなければならない警察官が犯人を捕らえられないこともまたその類ということになる。各代王朝の後退期には「猫鼠同眠」といった情景はいくらでもみられた事象だったことが想定される。一方に、鼠を見て捕らえないのは猫の「仁」であり、鼠が食を奪うのに譲ってやるのは猫の「義」であるとする猫擁護派の意見もある。

*1『金瓶梅「七六回」』など。

「看猫画虎」「目光如鼠」「鼠雀之輩」

 いぬ

桀犬吠尭 けつけんぼうぎょう  桀犬尭に吠ゆ 

禹が開いた夏王朝を滅亡させてしまったのが桀王。次の湯が開いた商・殷を滅ぼしてしまったのが紂王。ふたり揃えて「桀紂」といえば、暴虐非道の君主の例とされる。一方で尭と舜と禹は、人民とともに仁政を尽くした聖君主の例とされる。だから「桀犬尭に吠ゆ」(桀犬吠尭。*1)というのは、桀のような暴君の飼い犬が、尭のような聖人に向かって、時代を飛び越えて吠えかかるということになる。悪玉の大盗の跖の犬が、「跖狗尭に吠ゆ」(跖狗吠尭。*2)というのもある。犬は飼い主の善し悪しにかかわらず、ひたすらに主人のために吠えかかるということなら、「尭犬桀に吠ゆ」もあっていいのだが、こちらではあたりまえすぎて用いる場がない。

*1『晋書「康帝紀」』など。 *2『戦国策「斉策」』から。

「鷹犬塞途」「犬馬之労」「喪家之狗」

にわとり

鶴立鶏群 かくりつけいぐん

鶏の群れの中に、背が高く首が長く真っ白い鶴が混じって「鶴立鶏群」(*1)であれば目立つには違いない。が、鶴は鶏群に混じるより飛び去ってしまうだろうから、実見してのことではあるまい。風姿や才能が他に抜きんでて際立つことにいう。「竹林七賢」のひとり嵆康のむすこの嵆紹が、はじめて都の洛陽に入ったのをみた人が、これも竹林七賢のひとり王戎に「昂昂然として野鶴の鶏群に在るがごとし」(*2)といったことからといわれる。「君はあれの父を知らないからね」と王戎は答えているが、鶏群には居らず独立不羈だった嵆康の姿を対置しているように思える。「鶏群之鶴」(*3)ともいう。

*1耶律楚材『湛然居士文集「和景賢十首」』など。

*2『晋書「忠義伝・嵆紹」』から。 *3梁紹壬『論交十六首「其七」』など。

「鶏鳴狗盗」「牝鶏無晨」

 うし

対牛弾琴 たいぎゅうだんきん

 牛に向かって琴を弾ずるのが「対牛弾琴」(*1)で、やってみたものの結局は徒労無効の営為だったということになる。公明儀は、牛に正調の音楽を弾いて聞かせたところ、牛が伏して食べているようすはもとのままだった。牛が聞かなかったのではなく、正調の音楽が牛の耳に合わなかったからだという(*2)。人間の尺度で説法をされたり音楽を聞かされて、まるで分からないといわれるのは牛や馬にとっては迷惑なことだ。牛が聞いて喜ぶような音楽をつくってやってみなければわかるまいというのが、このことばの原意である。熊は踊るようだが、牛耳にやさしい演奏を聞けば腰を振るに違いないのである。

*1普済『五灯会元「惟簡禅師」』など。*2牟融『理惑論』から

 「牛刀割鶏」「汗牛充棟」「鶏口牛後」

 うま

老馬識途 ろうばしきと 

馬は往きの路をよく覚えていて、主人が疲れたり泥酔したりして馬上や馬車で寝込んでしまっても、路を間違えずにもどってくる。だから酒酔い運転の心配もない。「老馬識途」(*1)である。春秋時代に、斉の桓公の軍が春に遠征をし、冬に帰国するということになった。帰国の途上で行軍の道に迷った時、管仲が「老馬の智は用いるべきなり」(馬は道をよく知っていて迷わない。まかせましょう。老馬之智。*2)といって老馬を放ち、その後に従って国に戻ることができた。老馬にしてしかり、高年社員や引退社友が持っている知識や経験は、困ったときには大いに用いるがいい。わが社の「老馬之智」は、求めて学び継いでいくべきものであろう。

*1文康『児女英雄伝「一三回」』など。

*2『韓非子「説林上」』から。

「走馬看花」「龍馬精神」「伯楽相馬」

さかな

太公釣魚 たいこうちょうぎょ

周初に文王に求められ、子の武王を補佐して殷の紂王を倒した功臣である太公望(呂尚)は、かつて渭水の北で釣りをしながら賢君(文王)の招請を待っていたという。終日糸を垂らして一匹も釣れなかったのは、餌もつけず水面から三尺も離れて糸を垂れていたからだが、呂尚はいう、「魚は求めて針にとびついてくるものだ」(*1)と後世の話には尾ひれがつく。「太公望」と呼ばれるのは「わが太公(父)、子を望むこと久し」(*2)という人物であったことから。「太公望」は、釣り人の代名詞になっているからよく使われるが、自称「太公望」なら、釣果はともかく、語りかけてくる人には穏やかに接するくらいは心得ておこう。

*1『武王伐紂平話「中巻」』から。 *2『史記「斉太公世家」』から。

「沈魚落雁」「縁木求魚」「水清無魚」

 はえ

蝿頭微利 ようとうびり

蝿の頭ほどのちっぽけな利益ということ。日本で少量をいう「雀の涙」は中国では使わない。また狭小な土地に対して「猫の額」というのも聞かない。少量を代表するのは「蝿頭蝸角」(*1)である。つまり蝿の頭と蝸牛の角は身近に見られて小さくて気になるものだからであろう。いずれも猫の額よりは微小なことになる。だから「蝿利蝸名」(*2)ということになると、ともにささやかな利益と名声を得ること。宋の蘇軾は「蝸角虚名、蝿頭微利」(*3)といって名声も利得もまとめて突き放している。会話では「蝿頭小利」ともいう。狭小な土地については「弾丸之地」(*4)や「弾丸黒子の地」がある。

*1 趙師侠『水調歌頭「和石林韵」』など。 *2盧炳「念奴嬌」など。*3 蘇軾「満庭芳」から。 *4『戦国策「趙三」』など。

「蠅声蛙噪」「蠅糞点玉」

 りゅう・とら

葉公好龍 しょうこうこうりゅう  葉公龍を好む 

春秋時代の楚の葉公(しょうこうと読む。地名)沈子高は、龍を愛好することで知られ、その屋内は龍の画や彫りもので満たされていた。それを聞いて本物の龍が天から下りてきて堂内を窺ったところ、葉公はキモをつぶし魂を失って逃げ去ったという(*1)。表向きは愛好しているようにみえて、実際には名ばかりの愛好家であったという話。楚の葉公は、孔子の弟子の子路に師の人となりを問い(*2)、孔子と問答をしているが、龍くらい歓迎しそうな鷹揚な楚の重臣である。政治について孔子に問い、「近き者は説(よろこ)び、遠き者は来たる」(*3)という答えを引き出している。

*1劉向『新序「雑事五」』から *2『論語「述而」』 *3『論語「子路第一三」』から

「龍争虎闘」「龍潭虎穴」「画龍点睛」「虎視眈眈」「龍頭蛇尾」

 

現代シニア用語事典 #1高齢期(二世代+α型)をどう生きる

#1高齢期(二世代+α)をどう生きる
*・*「七十古希」から「百齢眉寿」へ*・*
「丈人」 
「老人」と呼ばれて収まりがいい人ならそのままいけばいい。が、率直な実感としてみずからを高齢者と認めながらも、いま通用している意味合いで「老人」と呼ばれたくない、呼ばれるにはまだ間がある、あるいはなんとなく違和感がある、という人は多いだろう。
そんな場面で「丈人」と呼んでみてほしい。こちらも見慣れない、聞き慣れないことばだから、はじめは違和感があるだろう。が、使い慣れるうちに「老人」よりは収まりがよくなる。「老人」であるとともに「丈人」であること、そして「老人」であるよりも「丈人」であることに安らぎを見い出す。
「頑張ろう!」と「大丈夫!」のふたつが、「2011・3・11大震災」後の被災地で、お互いの励ましのことばとしてどれほど飛び交ってきたことか。この「大丈夫!」の「丈夫」が内に包みもつ強い気慨が「丈人」のものなのである。「頑張ろう!」が外向きなのに対して、「大丈夫!」は内にある力を呼びさます。
「春秋丈人」
「丈人」ということばは現代に呼びさまされた古語である。『論語「微子篇」』には、孔子を「四体勤めず、五穀分かたず、たれをか夫子といわんや」といって批判する人物として記されている。からだを使って穀物をつくらず暮らす自分を批判した人物を丁重にあつかっている孔子と、師をおとしめた人物として黙止してきた後の儒学者との違いに留意する必要があるが、ここはその場でないから深入りはしない。れっきとした古語であることと、「春秋時代」の腐敗しきった体制に抗して、みずから「四体勤め、五穀分かつ」ことをよしとして生きたこの健丈な老者を、「春秋丈人」のひとりとして認識しておけばいい。
昭和丈人」
21世紀のはじめに高齢期を迎えている昭和生まれの人びとを「昭和丈人」と呼ぶのは、先の大戦後(1945年~)の復興・成長・繁栄を「企業戦士」として体験し、九割中流社会を実感し、アジア地域で唯ひとつ先行して欧米型の近代化を達成したあと、列島総不況と経済のグローバル化(途上諸国の日本化・日本の途上国化)に見舞われているわが国の半世紀余の経緯を共有しているからである。史上にまれな高齢化を体現しながら、平和のうちに生きて、わが国独自の「高齢社会」を達成しつつある昭和生まれのみなさんを、敬意をもって「昭和丈人」と呼ぶ。「昭和丈人」のみなさんは、自分の中で「丈人」を感じるとき、その現場が実は政治不在という「人禍」によって生じていることにも気づくことになる。政治不在のために露呈している不都合な場面を、それぞれの活動(丈人力による)で乗り越えて、史上に新たな時代を築いている人びとを励ますことばとして、「昭和丈人」は納得がえられるように思える。  
「丈人力」
青少年期、中年期を通じて長い期間をかけて積み上げてきた知識や技術やさまざまな能力を、、どこまでも発展・熟達・深化させようとして働く力、ふつふつと涌いて出る強い生活力あるいは生命力を、本稿では「丈人力」(jojin ryoku)と呼んでいる。青少年や中年層からも敬愛される昭和生まれの「昭和丈人」層の「丈人力」によって、はじめて史上まれなそれでいて親しく住みやすい「日本型高齢社会」は達成されるにちがいないというのが本稿の確信を秘めた時代観察なのである。 
「高齢時代のライフサイクル」 
だれの人生にも、「乳幼児期」「少年期」「青年期」「壮年期」「老年期」という五つのステージ(年齢階層)があることを体験的に知っている。しかしこれは二五歳までに三つの階層をもつ発達心理学からの階層分けで実感もあるのだが、高齢化時代には加齢学的な観点から、逆に高齢期に三つを配する階層分けを考慮する必要がある。ここでは二五年間ずつの三つのステージを「三世代」に等しく割り振りながら高齢期に配慮したライフサイクルを基準にしている。
青少年期   〇歳~二四歳  自己形成期
バトンゾーン 二五~二九歳  選択期
中年期    三〇~五四歳  労働参加・社会参加期
パラレルゾーン五五~五九歳 自立期
高年期    六〇~八四歳  社会参加・自己実現期
長命期    八五歳~     ケア・尊厳期
といったあたりが、高齢者がみずからを顧みて納得できる「人生五つのステージ」といえるだろう。「バトンゾーン」というのは個人のライフ・スタイルによって生じる幅である。「パラレルゾーン」というのは、ふたつの人生期で、高年期への準備期でもある。「定年後は余生」と考える旧時代の「老人」タイプの高齢者意識が、「高齢社会」形成への自然渋滞をもたらしている。「高年期」での社会参加・自己実現期の二五年をどう体現して暮らすかの工夫が人生の差をつくることになる。
「賀寿期五歳層」のステージ
「高年期」そして「長命期」の日また一日を愉快に迎えて過ごすには、「賀寿期五歳層のステージ」の考え方が有効に働くだろう。先人は見定めえない人生の前方に次々に賀寿を設けて個人的長寿のプロセスを楽しんできた。いまは多くの仲間とともに励まし合いながら百寿期を目指せばよい。(2011年)
還暦期(六〇歳~六九歳) 昭和二六年~昭和一七年
古希期(七〇歳~七四歳) 昭和一六年~昭和一二年
喜寿期(七五歳~七九歳) 昭和一一年~昭和七年
傘寿期(八〇歳~八四歳) 昭和六年~昭和二年
米寿期(八五歳~八九歳) 昭和元年~大正一一年
卆寿期(九〇歳~九四歳) 大正一〇年~大正六年
白寿期(九五歳~九九歳) 大正五年~大正元年
百寿期(一〇〇歳以上)  明治四四年以前
六〇歳以上の約三九〇〇万人の高年者が活き活きと暮らす姿が「高齢社会」である。七〇歳の「古希」になったからといって生き急いで老成することはない。まだまだ先がある。人生の新たな出会いに期待する日々が待っているのである。
「七十古希」
「人生七十は古来稀なり」と詠った杜甫の詩「曲江」から七〇歳を「古希」と呼ぶようになったという。だから「七十古希」はすでに一二〇〇年余の経緯をもつことばである。それ以前のことはわからない。古来稀れなのだからよほど稀れだったのだろう。杜甫が詠ってたどりつかなかったことから「古希」がいわれ、七〇歳が長寿の証として納得されてきた。
そのころ長安は安禄山軍の侵入を受けたあとで、「国破れて山河在り、城春にして草木深し」(杜甫「春望」から)といったありさま。杜甫は意にかなわぬ日々を酒びたりで送っていたらしく、「酒債は尋常行く処に有り、人生七十は古来稀なり」(酒の付けは常にあちこちにあるけれど、あってほしい七〇歳は希にしかない)と有るものと無いものとを比較している。いまは両方がある時代だからこの対比に味わいがなくなったが。。杜甫自身は旅先で貧窮のうちに五九歳で没している。高級官人は七〇歳になると国中どこででも使える杖をもらって「杖国」と呼ばれたという。阿部仲麻呂は七〇を越えて生きたから拝受したのだろう。
「百齢眉寿」
「百齢」は百歳のこと。二〇一一年は大正百年だから、元年(一九一二)生まれの人が数え年で百歳である。わが国では百歳以上の人が二万人を超えてなお増えつづけており、いかに史上稀な長寿国であるかが知られる。
杜甫が「人生七十古来希なり」と詠ったことから「古希」がいわれ、七〇歳が長寿の証として納得されてきた。とすれば百歳ははるか遠い願望だったろう。「眉寿」は長寿のこと。老齢になると白い長毛の眉(眉雪)が生えて特徴となる。同じ唐の書家虞世南は「願うこと百齢眉寿」(琵琶賦)と記して百歳を願ったが、八〇歳を天寿として去った。「七十古希」の杜甫は五九歳だったから、長寿への願望は遠くに置いたほうがいい。
白髪が増えると老いの訪れとして苦い思いで納得するが、眉に白いものが見えた時は長寿への証として喜ぶほうがいい。いまや稀でない「七十古希」を迎えたら、次には「百齢眉寿」を目標にして日また一日を過ごしたらどうだろう。
「起承転結の青春期」
「日々これ青春」という人生があってもいい。大きな富士型のひとつ山の人生ではなくて、二〇年ごと繰り返しの連山型人生として、八〇歳までに四つの青春を生きたひとりに数学者の森毅さん(一九二八~二〇一〇)がいる。八〇年間を二〇年ごと四つのリフレインと意識した点に創意がある。
ここではひとつずつ山波ごとに次のような五つの特徴を付けて呼んでいる。
初の青春期  〇歳~一九歳
起の青春期  二〇~三九歳
承の青春期  四〇~五九歳
転の青春期  六〇~七九歳
結の青春期  八〇歳~
六〇歳からの「転の青春期」二〇年は、これまでに蓄積してきた知識や経験を活かして新たな人生展開を楽しみながら暮らすことになる。その成果によって「まとめ(結)の時期」もまた楽しいものになる。 
「体志行の三つのカテゴリー」
高年期にある人ならだれにもこれまで過ごしてきた「青少年期」と「中年期」の五〇年間に積み重ねてきた経験や知識や健康や有形・無形の資産がある。それらを六〇歳からの「高年期」を意識した「からだ(体・健康)」と「こころ・こころざし(心・志・知識)」と「ふるまい(行・技術)」のそれぞれにしっかりとバランスよく活かして暮らすこと。この三つ以外に人間(人生)としての存在はないというのが、東洋の哲学が持つ人間(人生)観なのである。そういう意味合いが納得できるのは、やはり「からだ(体)」のどこかに故障を生じる高年期になってからのことで、ここから「体・志・行」に配慮した「丈人人生」が始まる。人生を通じて右片上がりの能力をたいせつにする「丈人」であることを意識して三つをバランスよくすごすことによって、外面的に「老人」としてではなく「丈人」としての「健康・知識・技術」が表現されることになる。この三つをバランスよく働かせた暮らしをしている人が、敬愛すべき「現代丈人」のみなさんである。スポーツ界では「心技体」として認識されているのは、スポーツでは心の構えが技・体の差をつくるからである。
(制作中・つづきます)

現代シニア用語事典 #2高齢者(昭和丈人)と高齢社会

 #2高齢者(昭和丈人)と高齢社会
*・*街談巷議の関心は悪意にある*・*                                                            
「荒廃の末のXデー」(暴動?)
「なまぬるい幸せなんか押しつけないでほしい。不幸な体験だってしてみたい」
「戦場に生きるなんて実感は、人生の極みじゃないか」
「善意なんて何も生まないよ。悪意が行動のエネルギー源なんだ」
「遊んでるくせして、うるさいじいさんはいらない」
一回きりの人生だから、気ままにいろいろな体験をしてみたいという若者に、幸せであることを願いすぎることも、平和であることを望みすぎることもできない。人間のもついくつもの本性が歴史をくりかえすのだ。よしそれが愚かな選択だとしても。
昭和一〇(一九三五)年生まれで、いまやちっとも稀れではない「古希」を無事に通過したTさんは、そう思う。時代の行く先のまだ見えないらせん階段の上の方から、姿が見えないデーモン(悪魔)の叫ぶ声が聞こえるという。近ごろは、父母や自分が蒙った戦時中の惨禍や戦後の混乱を、繰り返してほしくない体験として後人に伝えるという営為が、無力であり無益であるとさえ思うようになった。進み出したら引き戻せない「惨禍へのプロセス」を、またたどることになる気配。だれも回避する術を持ちえなくなって、不幸な結末を負うことになるのは、何も知らない子どもたち。
「金輪際、わたしはつきあうことはないが」とTさんは、まっ白くなった髪を掻きあげながら、緊張感を解いた顔で結論づけて引きこもる。Tさんの歴史意識を覆すのはむずかしい。他人のためばかりでなく、みずからの安全のために、「経済学の丘」の上から内外の優れた分析家たちが、日本経済の先行きと社会のありようにさまざまな予測を下している。甲乙ABCとあるから、だれかの予測が的中することになるだろう。
総じての発展は望み薄。海外とくに途上国への進出や先端技術の開発によって、マクロ経済的には現状維持するものの、社会的にはあれこれの格差や亀裂が生じて内部荒廃へむかうとする予測あたりに実感がある。このまま推移すれば、巷に敵意があふれて、ある日、予測Zが的中して「荒廃の末のXデー」(暴動)がやってくる。丘の上の人びとは、他人の阿鼻叫喚を見下ろしていられるわけだから、Tさんが憂慮するような現実に直面しても、「予測的中!」を納得して傍観できる立場にある。ハルマゲドン(世界終末の争い)ですら予知して生き延びられる、選ばれた少数の人びとなのだ。そんな人びとのご高説に耳を貸す時期はもう過ぎている。 
「荒廃ベクトル用語」
経済アナリストの分析よりはもっと荒々しいのが、夕刊紙や週刊誌(女性雑誌も)やマンガ雑誌である。その多くは、一般市民が「荒廃の末のXデー」(暴動)を迎えるにあたっての免疫抗体を体内に造り出すために、毎号毎号、悪逆非道な人物たちを探し出しては、手を替え品を替えて内幕を暴きつづけてきた。より強い「流行性荒廃菌」に対しては、より強い免疫抗体を体内に形成するためにである。
拾えばページから溢れるほどあるものの、ここでは三~四行分だけ、週刊雑誌の類から「荒廃ベクトル用語」をもった見出し語を並べてみよう。
 狂気 抗争 挑発 怒号 罵声 悲惨 惨劇 醜悪 堕落 嫌悪 悪意 破壊 下流 地獄 逆襲 不法 非道 欺瞞 汚辱 凄絶 悪徳 横領 餓鬼 殺人鬼 修羅場 非常識 犬畜生 羊頭狗肉 魑魅魍魎 暴く ぶっ壊す 騙す 危ない 破る 淫ら 潰し 酷い 大嫌い スッパ抜き いじめ ハレンチ アホ バカ クビ ウソ ワースト ハルマゲドン・・
「街談巷議」の関心が「シラジラしい善意よりドスグロい悪意」にあるというので、記者たちは悪意、悲惨、狂気に満ちたニュースを、鬼神に魅入られでもしたように競って追いかけているが、ひと昔まえまで「オニ記者」というのは、「巨悪もおそれぬ閻魔王のような記者」ではなかったか。それにしても「悪徳の栄え」ならまだしも、「悪徳すら堕落」とでもいうべき風潮を拡大する「悪をあばく者」としてのしごとが愉快であるはずはない。
おもに「ウイークリー」というメディアの場で、表現の自由をよりどころに「悪をあばく者」としての編集長やデスク(副編集長)は、迫りくる「地獄の季節」に備えて、読者が「免疫力」を養っておくことの「負の公益」を、しごとの支えとしているのだろう。阿鼻叫喚の渦の中へ記者たちをのみ込んで、奈落へむかう大海嘯の勢いは衰えを知らない。
 さあたいへん。本稿も、「丈人という欺瞞」など、前出の見出しの三つ四つを貼り付けられて濁流にのみ込まれることを覚悟せねばならず、「仕っ方ないすよ」と同情されることになるだろう。部数は遠く及ばずとも、刊行をずらした隔週刊や月刊誌や通販誌のなかに、高年者を対象として誠実に着実に情報を送りつづけているメディアがあることは救いであるが。 
「悪事は千里を行く」
Tさんは、昭和のはじめに、世界不況のただなかで、国際的孤立と挙国一致の軍国主義化がすすむ中で、四人の子どもの末っ子として生まれて育った。国民の意識と活動の振り子が、家庭から国家へと大きく振れていく中で、両親は明るい将来を約束できなかったことだろうが、明るいことばが飛び交う家庭だったと記憶している。父は戦時中に死に、父方のいなかに疎開して、都会育ちの母は子どもたちには分からない苦労をしながら子どもたちを育てた。Tさんは兄や姉やいなかのいとこや仲間たちと、戦争ごっこをやめ、譲ってもらった教科書を黒く塗って、戦争責任などまるで関係のない戦後っ子として伸び伸びすごした。どこにいってもみんな貧しく、だれもがひもじかったけれども。
いままた不況下での閉塞感、財政難、そして軍事化と国際的孤立の気配。それに構想力を感じさせることばで語りかける優れたリーダーの不在。両親が直面していたとよく似たシーンに、いま自分が立ち会っているのではないかと感じている。不幸な事件との再会の予感。衣装を替えた登場人物によって「歴史悲劇の再演」ということになるのか。
「好事は門を出ず、悪事は千里を行く」という時代風潮。歴史に稀れな高齢化の時代に生きているから、「歴史の証人」として、同じ方向へのらせん的転回をふたたび目の当たりにすることになるのか。孫の翼くんや翔ちゃんは、こういう風潮に柔らかい膚をモロに曝しているのだからたいへん。先生から「名前のように大空を飛ぶような夢をもって」などといわれても、素直に「ハイ」とはいえない。コマーシャルで「残酷な時代を生きる君へ」と呼びかけるオトナの社会へのバリアをつくって、子どもたちはやさしくない心根の服を身に着けて家を出る。 
*・*世代間に広がる亀裂*・* 
「途上国型若年社会」
政治の「アメリカ一極化」と経済の「グローバル化」(世界同一化)の力によって、きしみながら新世紀へと舞台は回った。この一〇年ばかりの間、日本社会が受けた激しく際立った変容は、若年化とIT化と女性化だったから、パソコンとケイタイを駆使する若い娘はいつしか、「わたしが主役!」として振る舞うようになり、「世の中はますます悪くなる」とグチりつづけて定年を迎える父を脇役とみるようになった。わずかこの一〇年ばかりのことである。 
つつがなく進んで二一世紀に迎えるはずであった国際社会の課題は「高齢化」であった。
それを覆してしまったのが、政治のアメリカ一極化の突風とひた寄せる経済グローバル化の波濤であった。ヨーロッパの先進諸国とともにわが国もまた「高齢化」が予測されていたにもかかわらず、まともな「高年化社会」への構想とてないままに対応が遅れていたところへ、相撲取りがボディーブローをまともにくらった態の日本企業が、自衛策としてあわてふためいてとった「再構築」(リストラ)の手段が、若年化と女性化とIT化、そしてやや遅れての途上国進出であった。角度を変えて言い添えれば、一歩送れて成長期にはいった途上諸国とつきあうための「途上国化」であった。
「先進国型高齢社会」への推移を迎えるはずが「途上国型若年社会」に出くわして、二重の災難に見舞われることになった高年者。その上に身に覚えがない財政難による年金の減額や医療費の負担増、予想される消費税大幅増税といったシワヨセとヒッペガシ。さらに「団塊世代の高齢化」による多数派の形成。静かに推移するはずだった老後に、渦まくほどに状況悪化が予測されるに及んで、「おちおちしていられない高齢者」が急増しているのである。 そこに「もう待てない」と言い出して、いらだちに近い懸念や要請を示しはじめたのが、企業の生き残りのために身を挺することを余儀なくされた中年の現役世代だった。 
「塩づけ資産移譲論」
企業の生き残りのためとはいえ、ことあるごとに成果主義を強いられれば、同僚との間でも同業社間でも、親和の感性が磨り減って働かなくなる。実質賃金の目減りにも黙々と耐えてきた中年層の人びとの胸の奥に、将来への不安とともに高年者への不満がわだかまる。
現役世代がムリして負担している年金を受け取りながら、次の時代に、「われ関わり知らず」として暮らしているのではないか。あいまい模糊としていたいらだちは、次第にふたつの方向に要約されて、懸念や要請として納得されることになった。
ひとつは、家計の金融資産とされる約一四〇〇兆円で、そのうち五〇歳以上の世帯が七五%までを保有しており、多くを抱えた高年者が次の時代に関わりなく「引きこもり」の余生を送っている。アメリカやヨーロッパでは時代の推移と連動しながら人も動くしカネも動く。アメリカなら株式・出資金にまわるものが、日本では現金・預金(半分を越える)のままで動いていない。そのため起きているのが資産の塩づけ。時代の動きに対する高年層の人びとの不安や無関心が経済活動の効率を悪くし、企業活動の手足をしばっているというのが「資産塩づけ論」。
そこで消費を活発にするためには、使わない高年者から使い手の若年者へ資産をトランスファー(移譲)すべきではないのかという「資産移譲論」。
いくら構造改革であがいても、景気回復でもがいても、いっこうに進まない要因が、高年者層の支援の欠如にあるというものである。「塩づけ資産移譲論」には若手の現役世代からもおおいに賛同の拍手がわきそうな懸念や要望である。だが、「待ちたまえ、諸君が高年者になった時のことを思えば、そう簡単にいえることではない」と、企業内では脇役を余儀なくされている定年間近の団塊世代のひとり、Fさんは眉間にシワを寄せて真顔になっていう。「世代間の亀裂」がひろがる。          
*・*「ツカエナイ親」とはなんだ*・* 
「ひっぺがし」
「塩づけにできる資産などどこにもありはしないし、いまでさえ家庭では子どもたち、とくに娘によって、強奪に近い形で資産移譲が行われているのだから」
と、娘をもつ団塊世代のFさんはいう。女性が国の経済、社会の担い手といいながら、どれほどの若い女性が自分の実力(かせぎ)で暮らしているのだろうかと、ローライズ・パンツ(体型ギリギリのヘソ出し衣装)からいそいそとディオールのパーティー・ドレスに着替えて、自在に「変衣変性」する娘の姿をみながら、際限なしの「女性化」に懸念をもっているのである。「時代の花」として娘たちを擁護し、社会の女性化を推進する立場からは、無条件に、両親や祖父母の「六つの財布」からうまくせしめるのも実力のうちとする意見もあり、何より娘たちは「ひっぺがし」が当然と考えている。 
「ツカエナイ親」
人並みに応じられないと、「ツカエナイ親!」としてあしらわれる。うかうかしていると、心優しい高年者からまず、居る場所もない、おカネもないになりかねないのである。新世紀になって、若い女性やIT青年たちとともに輝いているはずだった高年者が居場所すらなくなるとは何たる仕打ち!
職場ではIT音痴と軽視され、売れ筋ヤング製品の現場からはずされ、はてはリストラの対象となる。「ハローワーク」(公共職業安定所)の窓口の混雑ぶりや、上野公園や新宿などの「ホームレス」用の青テントの群れや炊き出しに集まっていた人びとを思うたびに、Fさんには、高齢者だけが子どものころに見た戦後の「ふりだし」へと戻って行くように思えてくる。いったいだれが振った賽の目が悪かったのか。 
「家庭内ホームレス」
「新入社員ニート化」
高年者が暮らすのにふさわしいステージは「ふりだし」の位置、つまり「ステージレス」の状態にあるといえる。家に居場所がなくなって「家庭内ホームレス」に、そして屋外でも「ステージレス」である原因はどこにあるのか。このまま推移していては、高年者のだれもが不安なく暮らせる社会、少なくともそこへ向かっていると感じられる社会は、招き寄せようもない。
おちおちなんかしていられない。といって、高年者だけが犠牲になっているわけではないことにも注意しておこう。 
決して少なくはない優れたIT青年たちが、技術開発の内向的な作業の中で行方を見失い、使い捨てにされて社会と断絶していく。若い女性も華やいでばかりはいない。アルバイトや派遣社員なのに能力にあまる荷重な実務を引き受けて体調を崩し、ときには鬱病に陥り、外界との関係を遮断していく。繊細な感性の持ち主ほど傷ついているのである。引きこもりの傾向は、即戦力を期待されて入社したものの適性に不安をつのらせて出社しなくなる「新入社員ニート化」としても広がっている。 
そんな状況に包囲されて、現状を支えている中年世代の人びとは、いつしか「自己チュー」(自己中心主義)に陥ってしまう。しかしここはこれ以上に世代間の亀裂を深めることは止めようではないか。
とくに中年社員はこれから論じる「高年世代による高年時代のためのステージの創出」に期待して、先輩の果敢な挑戦を見守るのがいいと思う。得られる経済波及効果は将来にわたって大きいし、その成果はいずれは次世代の人びとの資産となるのだから。  
# いさぎよい隠退の功罪 
*・*長すぎる「余生」は余生でない*・* 
「君子的ひきこもり」
「隠退ウーピーズ」(豊かな高年者層)
現役世代が負担している年金を受け取りながら、次の時代に「われ関わり知らず」として「引きこもり」の暮らしをしている、といわれてみれば、高年齢者は誰にもそういう傾向があることを否定できないだろう。
かつては業績を残した先輩の「いさぎよい進退」が、後輩に活動の場を残し、将来への安心感と励ましを与えてきた。だれもが穏やかに「余生」に入れたころはもちろん、いま企業や組織の「高齢者リストラ」がすすめばさらに、すぐれた知識、経験、人格をもった決して少なくはない人びとが、潔く職場を去っていったにちがいない。後輩として、だれもがそういう君子然として去って「君子的ひきこもり」にはいった先輩の姿を思い浮かべることができる。しかしそれは「余生」が短かったころのことで、高齢化の時代においては美談でもなんでもない。
Sさんは、君子然といえるほどの風采ではないが、広い額に細い目でとくに笑い顔が安心感を与える温和な人柄の高年者である。超ではないが並一流の企業を定年退職してのち、残りの人生を楽しんで暮らせると計算を立てた「君子的ひきこもり」の高年者。しんがりとはいえ自分ではいまでも「隠退ウーピーズ」(豊かな高年者層)だと思っている。会社人間だったから地域に知り人はいないが、しごとや学生時代の親しい友人たちがいて、それにつかず離れずに暮らす妻と子ども。趣味も多く、ひと一倍広い額に汗しての「旬の野菜は自作」が自慢である。
肝心の生活費はどうか。公的・私的年金のほかに資産収入もあって、娘の結婚、病気や不慮のできごと、車の買い換えや築二〇年を越えた住宅・設備の修繕などといった特別な出費のための「退職金」(預金と国債・株式が半々)は崩さないでも、小遣いは月五万円以上。現状では引きこもりに不服も不安もない。正直にいえば、不安はなくはないのだが、「わたしが地獄へゆくのならみんないっしょだ」と考えることで安心することにしている。住居のほかは子どもに資産を残すつもりはないから多彩な趣味を楽しみ、旅行でも観劇でも食事でも会合でも、必要な時には積極的に参加し、出費もする。ドック検査による健康状態も良好で、れっきとしたウーピーズぶりに思える。 
「一陽来復型の高年者」
「高年期じり貧人生」
Sさんは時代が下降し頽廃期へむかう時期にあると感じているので、「われ関わり知らず」と固く決めて、後輩が知恵を借りにやってくるのに対しても、
「いまさら、こんな世の中のために、わたしまで引き出すのはやめてくれよ」
 と、冗談としてではなくいって態度を崩さない。それでも後輩から声がかからなくなり、みずからも気力・体力の衰えを実感する日はさみしい。そんな日はテレビ批評もせず新聞も読まず、終日、気分の晴れないこともある。「君子的ひきこもり」の独居を楽しむ境地にはなお遠い。
 ウーピーズといったところで、父祖伝来の土地を切り売りして億単位の資産を得て安全圏にいる都市近郊の「金満農家」と違って「零細資産家」だから、日本経済の「萎縮」(デフレーション)によって頼みの資産が目減りするのを気にかけている。朝方にはきょう一日の「万事大吉」を願い、晩方にはあすの「一陽来復」を祈るという日が重なっていく。
Sさんは、「老人と呼ばれたくない」とは思っているが、「現代丈人」という意識をもっていないから、ここでは「一陽来復型の高年者」と呼んでおこう。
「一陽来復型の高年者」が沈黙している間に、Sさんのような人が資産を「塩漬け」しているとする世論を背景にして、現役官僚はさまざまな手法で高年者の預貯金を切り崩す政策を取り始めた。そのことをSさんは、「後人として、あるまじき行為!」として憤懣を隠さない。といって、引きこもりに徹した生き方を変えるつもりはなく、思いのほか早々とやってきた「高年期じり貧人生」とつきあう覚悟だけは固めている。
本稿が甘く推察してみても、このままの状況で推移すれば、Sさんほどの人ですら生涯を安穏にすごしきることはむずかしい。 
*・*「貯蓄ゼロの日」へカウント・ダウン*・* 
「生涯現役の跡継ぎ二世」
「親孝行進学」
一方にはIさんのように、父親の後を継いで中小企業の経営者になった「生涯現役の跡継ぎ二世」の高年者がいる。Iさんは二〇年ほど前、四〇歳代なかばに二代目経営者となった。創業者の父親が元気だった高度成長・繁栄期といわれた時期もやたら忙しかっただけで、すこし羽振りがよかった程度で、とりわけ家が豊かになったわけではなかった。周囲の人びとが世間並みに暮らせるようにと、父親がひたすら心を砕いているのをみてきた。
父親は経営者として教育(学歴)がなかったことを生涯の負い目と感じていたから、「おまえは大学を出にゃいかん」と口癖にいって、家業の手伝いを強いず、子どもが高等教育を受けて意気揚々とした人生を送ることに期待しつづけた。晩年には「親孝行進学」で大学を出た息子が期待していた人生を歩んでいないことを知ることとなったが。
わが国の大戦後の製造業がたどった経緯からみて、戦後復興期から高度成長期(一九五五~七四年)のころに設立され中小企業では、Iさんのような跡継ぎ二世は決して少なくないだろう。技術力を尽くして質の良い日本製品をつくりあげてきた父親と労苦をともにしてきた社員に囲まれて育ち、いまは子どもとしてその跡目を継いでいる。同じような経緯をもつ機械製造の子会社(親会社ではない)から下請け品を求められれば、資金繰りをして設備投資を重ねても求められる製品を納めてきた。そして迎えた列島総不況。Iさんも人を減らしながら景気回復を待ちつづけてきたが、父親には申し訳ないが、ここ五年ほどのきびしい経緯からみて、もはや再生の手立てはないところにきた。 
「ほどほどの赤字人生」
「先憂後楽型の高年者」
「生涯現役の跡継ぎ二世」のIさんが楽しみとしていた草野球の紅白戦も、若者が減って成り立たなくなった。「中小企業退職金共済」で定年は設けているが、父親のころから技術と意欲があってしごとができるうちは文字通りの終身雇用である。だから効率のいいしごとが減り収入が減っても従業員には減収にならないよう給与は払いつづけてきた。がそれにも限度がある。このまま推移していては、いつまでも借入金を返済する余力が出ない。高齢になって先が読めなくとも「われ関わり知らず」などといってはいられない。というより引くことなどできない。
「男というものは、きちんと仕事をすれば、どこで何をしていても、ほどほどの赤字ぐらしをするものだ」というのが、父親がよく口にし、自分も受け継いだIさんの負け惜しみ半分の人生哲学である。製造ノウハウを持つ親会社が生き残るために、まずは主要なパーツ以外は中国や東南アジアの途上国に生産拠点をシフトした。ついには製品化までとなれば、子会社ともども回復どころではない。「ほどほどの赤字人生」などといっていられない。独自でのしごとにメドがたたず、下がりつづけた担保資産との見合いの末に、不良債権の処理対象として銀行から見放され、こちらの意欲が萎えるまでは、会社と社員と家族を守るつもり。さしたるぜいたくもせず、「先憂後楽」の心意気を貫いて、沈没船の船長よろしく自分だけは地獄へでもどこへでもゆくつもり。
Iさんは、ゼロに始まってゼロに返る人生を納得する男子のみごとな生き方ともいえるが、「高年化社会」を多彩に豊かにする基礎となる「高年化用品」のユーザーであり、「高年化製品」のメーカーであるという点でもまたゼロの人なのである。Iさんが蓄積してきた技術力を、高年者の暮らしを豊かにする用品のために活かして活路を開くことが要請される。Iさんのように、良質な製品の製造に努めて現場で自得した完璧主義を崩すことなく、引き場のない人生を送っている篤実な熟年技術者を、「先憂後楽型の高年者」と呼んでおきたい。 
*・*戦々兢々の高年期生活*・* 
「貯蓄取り崩し」
「消費税の大幅増税」
大多数の給与所得者は、定年が六二歳(~六五歳)まで延びたものの、退職を前にして業務替えになったり、収入減を余儀なくされながら「待ちの日々」を送っている。充実した日々には遠い。このままなんとか定年まで勤めて、行く末が不安な程度の退職金と年金を合わせ計算しながら暮らすことになる。
Yさんは、技術畠ひとすじに三〇年余を勤めた会社を定年退職したばかり。退職後も前職をいかして仕事があればと願っているが、このリストラ時代。「ハローワーク」には求職の登録をせず、失業率には計算されない潜在的求職者のひとりである。だから失業率五%以下などという数字を信じてはいない。少ない退職金から、少なくはない住民税を支払って急に重量感を失った貯蓄から、さっそく定期的収入が減った分の「貯蓄取り崩し」がはじまった。
先行きの不安は身辺に渦を巻いている。財政負担を軽減するためのデフレ(物価下落など)や成長率低下を理由にした「公的年金」のカット。次第に現実味を帯びてきた「消費税の大幅増税」。いつ身に降りかかるかしれない「医療費」の自己負担。企業業績の不振による「企業年金」の減額。まだ五年つづく住宅ローン。そしていつまでも独立できない子どもへの支援出費・・。「ペイオフ」(預金の限度内払い戻し)に届かないほどの額だから、長生きすればいつか必ず訪れるにちがいない「貯蓄ゼロの日」への不安。
 退職したあと職さがしをしているYさんは、旅行や観劇、書籍・雑誌の購入、外食などを減らして「選択的支出の削減」に努めている。それでも生活用品や日常経費、医療費や税負担とくに際立つ健康保険料など「基礎的支出」が確実に増えることから、家計の先行きはとめどなくきびしい。「貯蓄ゼロの日」へのカウント・ダウンは始まっているのだ。「薄氷を履む」ような日々が続くことになる。
Yさんは多数派である「戦々兢々型の高年者」のひとり。
「さして優れたことはしてこなかったけれど、必死で働いてきたつもりの自分までが、高齢者になって見捨てられることはないだろう」と国の施策を信じている。長生きすればいつかまた「スイトン時代」がやってくるかもしれないが、それでも平和なら生きられるだろうとYさんは思っている。
Yさんは、通信機器関連の技術労働者であり、いまも会社の主力製品のひとつになっている機器の発案製作者。といって発明対価を求めるのは違うと思っている。
「将来への希望は現場の活力にある」と技術者であった経験から確信している。
自分は細身だったのでヘルメットは似合わなかったが、「プロジェクトX・挑戦者たち」(NHKの人気シリーズ番組だった)で、工夫を重ねて事業に邁進した人びと、いかにもヘルメット姿が似合いそうな人びとの話を聞くのが楽しみだった。番組が終了してずいぶん経つというのに、胸の奥に刻まれたように、気がつくといまも中島みゆきが歌ったテーマ曲の一節「つばめよ、地上の星はいま何処にあるのだろう」が体の中を繰り返し流れているという。仲間との苦闘のあとを思いながら、溢れる涙をじっとこらえていた技術者たちの顔顔顔はいまも忘れられない。
 「バブル・不良債権」
「デフレ・スパイラル」
「戦々兢々」といってもYさんにはいまも活かせる技術がある。「先憂後楽」のIさんにはチャンスが残っている。「一陽来復」のSさんにはなお余裕があるではないか。老後の生活設計など立てられず、ぎりぎりの年金だけを頼りに先の見えない不安な日々をすごしている高年齢者が時々刻々と増えているのだ。傷んでも家の修繕なんかにとてもお金をまわせない。
それなのに、将来の展望や不況脱出の契機を語るのは、数字には強いが人間味が感じられない経済学者や横文字だらけのアナリストであったり、大蔵省や日銀の関係者であったり、実務体験の希薄な経営者であったり、現場の臭いのしないジャーナリストであったりした。司会者も含めて、いずれ安全な「経済学の丘」の上からの展望者であり、どうみても現場の痛みがわかるような人びとではなかった。だから将来の方策も不況脱出の方途も、痛みを感じている人びとを優先するものとはならないだろうことは推測できた。
「バブル・不良債権」で一〇年あまりを騒ぎつづけ、次には「デフレ・スパイラル」(物価下落、所得減少、需要減退、物価下落というらせん状の悪循環)をこね回し、億兆円を差し引きする人びとのご託宣は、夢の中にまで押しかけてくるほどに聞かされた。九○年代から新世紀を通じて日本経済の退潮は持続して実感されてきたから、一般市民はその間、右下がりの暮らしを納得させられてきたのである。「数値に裏付けされたさまざまな分析が、みんな正しかったとしても、国民を対処に立ち向かわせる人的パワーを燃え立たせる変革に結びつかなかったのではないですか」と、Yさんは静かに、Sさんは熱して不服に思う。  
# 有史以来という「少子・高齢化」
*・*分離できない「少子化」と「高齢化」*・* 
「総人口減少」
「少子・高齢化社会」
EUや日本など先進諸国でひとしく明らかになってきた「有史以来の少子・高齢化」というのはどういう事態で、高齢者にとっては何が問題なのか。文字通りの意味からすれば、生まれる子どもの数が減り、相対的に高齢者比率が増し、その高年者がこれまでより以上に長生きをする事態ということになる。推測では他の途上国も次第に高齢者比率が増してゆくという。
わが国の人口統計によれば、二〇〇五年の一億二七七七万人をピークにして二〇〇六年からは「総人口減少」に転じた。「総人口減少」の事態に対して国は将来の活力維持のために「少子化」に歯止めをかけねばならず、若年者支援の細かな対策を自治体や企業の現場に求めている。また経済のグローバル化の波に遭遇してアメリカや途上国の活力に接することになった現役世代の人びとの関心が「高齢化」を置いて「少子化」に寄ってしまって、若者中心の暮らしを優先することになっている。企業もまた採算を急いで、製品の主軸を若年層に移している。
先進国が史上はじめて迎えた「少子・高齢化」という事態を、わが国は「少子化」と「高齢化」に分けて対処しようとしている。これでは「少子・高齢化社会」にはならない。ここでの大事な点は、これまでとは異なる構造の社会を登場させるにあたって、高年者が主体者として現役で暮らしているという体感をもてるかどうかにある。 
「過剰老齢人口」
「役に立たない高齢者」
現状のままの社会を保持すればいいという立場の人びとの中には、日本の人口は減ったほうがいいという意見がある。明治のはじめには三〇〇〇万人であったが、大正のはじめには五〇〇〇万人に、戦後直後は七〇〇〇万人に、そして昭和四二(一九六七)年には一億人に達した。一〇〇年で三倍になったことになる。その間、急激な増加による「過剰人口」(厚生白書)への対応が政策課題とされたころもあったのだから、「過剰老齢人口」という事態は同様に政策課題として避けられないというのである。
そういう逆風を察した高齢者の側は、後人に迷惑をかけることなく、静かに生きて介護を受けずに死ねれればいい、と願って暮らしている。そんな高齢者が事故や急病でぽっくり死んでくれると、資産は即座に次世代にもたらされる。日々のやりくりに苦しい中年層にとって、それはアリガタイことなのだ。本音は「役に立たない高齢者」の急死は歓迎なのである。不幸な情景だが、何もしない高年齢者の存在が後人に歓迎されなくなっているのだ。 
そんなことはあってはならないが、それを知らなくてはならない。
当事者である高年齢者の存在が「少子・高齢化社会」の形成のために役に立っていない。いまがどういう事態で何をすべきなのかを高年齢者の側がわかっていない。先述したとおり「逆水行舟」の時代なのであって、なにもしないで同じ場所にいるつもりが、後人にめいわくな方向へ流されているのだ。 
「三世代多重同等型社会」
単純化しすぎると異見を生じるが、こう考えてみよう。
いま暮らしている社会構造をいま現役である中年世代の人びとのものとして置いてみる。その上で新たに子どもたちの居場所と自分たちの居場所を多重化して作り出さねばならないのである。青少年世代との共有の場。それが新たな「第三期の人生」のためのステージとなる。いまある社会構造に重ねて、「少子化」と「高齢化」をつなぐ新たな社会構造を高年者の活動によって多重的に形成することで、「三世代同等型の社会」が実現する。これが有史以来という「少子・高齢化」に対応する高年者側からの「構造改革」なのである。
いまある「中年世代」中心の社会構造をたいせつにしながら、「高年世代」が活動することによって、「三世代」がそれぞれに「多重標準」を意識しながらさまざまな場を形成していくことが肝要なのである。「少子・高齢化社会」への推移のなかで、高年者と青少年が主体的に発揮する潜在力は大きい。社会が高年化する時代にあっては、高年者が現状のまま何もせずに過ごすわけにはいかないと知るべきなのである。
「次世代育成」の事態に対しては、子どものことだから対策は若年層にまかせればいいとはならない。高年者は二重丸の外丸の位置にいて子育て環境の改善を支援すること、つまり「高齢化」と「少子化」との双方に関わる視野での活動が求められている。
「少子・高齢化」の事態はいわれて久しく、なお進行しつづけているが、高年者側からの顕著な動きは見えない。したがって高年者の存在基盤はなおもろいままなのだ。
一回きりの人生のかけがえのない高年期を、三世代がともに暮らしやすい新たなステージ「三世代多重型の社会」の創出にかける。そういう目標をかかげた「現代丈人層」の人びとの着実な活動からはじまり、そういう日々を送る人びとの活動の総和として持続可能な「日本高年化社会」は引き寄せられるのである。 
*・*七〇歳が稀でなくなった稀な時代*・* 
「元気印のおばあちゃん」
「人生七十は古来稀なり」
「お年寄りと聞いて何歳以上を思い浮かべますか」という新聞社の世論調査によると、「八〇歳以上」が一一%、「七〇歳代」が五四%、「六〇歳代」が三〇%だった。合わせて六割を超える人びとが七〇歳以上に実感を持つようになったのは、高齢化とともに元気なお年寄りが着実に増えている証し。男性より七年も女性が長寿だから、どこのお宅にも「元気印のおばあちゃん」がいる時代。
長らく七〇歳を「古希」と呼んできたのは、唐代に詩人杜甫が詠んだ、「人生七十は古来稀なり」という詩句からとされている。そのころ唐の都であった長安(いまの西安)は、反乱軍の乱入で荒れはてて、「国破れて山河在り、城春にして草木深し」(「春望」から)といったありさま。この「国破れて山河在り」はわが国でも、前世紀の敗戦後に戦火によって焦土となった大地に立った人びとによって、実感をもって語られた詩句であった。
半世紀をすぎて、いままた詩史を詠う杜甫の「人生七十古来稀なり」に古希を迎えて出合っている。「人生七十」が稀ではなくなった稀な時代に遭遇してのことである。
杜甫は意に適わぬ日々を酒びたりで送っていたらしく、「酒債は尋常行く処に有り、人生七十は古来稀なり」(酒のツケは行くところあちらこちらに有るけれど、人生七〇歳というのは古来から稀なこと)と詠った。無くなってほしい酒債と有ってほしい「人生七十」を対比している。七五八年のこと。四七歳の時にこう詠った杜甫だったが、本人は「古希」にはほど遠い五九歳で、旅先で都長安へ帰る日を思いながら死を迎えた。酒債なしに健康で「古希」をむかえ、祝い酒を味わえるこの国の高年者は、わが身の幸せの一盞を杜甫にもささげてほしい。 
「古希丈人」
「介添え識者」
 唐代の杜甫と阿倍仲麻呂といえば、日本人にとって親しい歴史上の人物である。奇しくも同じ七七〇年に生涯を終えた。、阿倍仲麻呂は、異郷の長安で故国の「三笠の山に出でし月」を思いながら亡くなったであろう。仲麻呂は七〇歳を迎えていたから、当時としては稀な長寿をまっとうしたことになる。
七〇歳のことを「杖国」というのは、国事に当たる大夫が七〇歳になって、国中どこででも使える杖を賜ったことからいわれる。さて、唐の長安で七〇歳を迎えた「七十杖国」の阿倍仲麻呂は、どんな杖を賜ったのだろう。歴史論議の場ではないから細部には向かわないが、現代が、だれもが杖を贈られて「七十古希」を祝うことができる「古来稀なり」の時代であり、それ故に「古希丈人」もまた、時代を超えてここに装い新たに登場することになる。「昭和」に生まれて、疾風怒濤の「昭和時代」を生き抜いてきた「古希丈人」である人なら、「健丈な高年者が、中年世代の人びとの手狭なステージの周辺で、脇役や老け役を演じていてどうなるのだ」と、自問しつつ暮らしているのではないか。
だからテレビ番組で、時代の花ではあるが「一知半解」の女性アナウンサーの傍らでにこにこしながら初歩的な解説を繰り返している「介添え識者」の存在が気にさわる。
「逆じゃないのか。なんで唯々諾々と脇役を演じているんだ」と、日々を「君子的ひきこもり」で送ることに決めたはずのSさんは、画面にむかって文句を放ち、リモコンの「消音」を押す。「介添え識者」のけだるい声が消えて静かになった家の中を見回しても、家の外を見やっても、高年者優先のステージといえるものなどどこにもない。 
「第三ステージの主役登場」
ここで整理しておこう。いま高年期を迎えている人びとが、中年時代に粒々辛苦して築きあげてきたものは「中年期のステージ」であって、高年時代のための「高年期のステージ」は不在というのが現実なのだ。「昭和」に生まれて疾風怒濤の「昭和時代」を生き抜いてきて、なお健康で潜在力をもっている「昭和丈人」である人びとが、引きこもりに身を固めて存在感を薄くする時期ではない。新世紀の日本を舞台に「第三ステージの主役登場」のときなのである。ステージで何を演じるかは個人のものだが、高年者になることが味わい深く、高年者であることが誇らしいような暮らしの場の創出。そんな活動が見えてくれば高年期の人生はおもしろい。 
暮らしの場として高年者がみんなで共有する「高年期のステージ」が各所にあるような「地域の高年化」、いま「グローバル化」で苦闘している中年世代が高年期を安心して迎えられるような「モノと場としくみ」を、高年者として実現してやろうという心意気である。有形・無形の伝統資産を守り、再生すること。町に成熟した風気を醸成して。「現代丈人」の実例は、芸能や技能の継承者、学者、芸術家、政治家、宗教者、文学者などの姿のうちにいくらでも感知することができる。名をなさずとも身のまわりには頼もしい無名の「古希丈人」がたくさんいる時代なのだ。 

現代シニア用語事典 #3個人の幸せと家庭内高年化

#3個人の幸せと家庭内高年化
#暮らしの中に太い動線を確保する
*・*マイホームに「マイ」がない*・*  
「企業中心の時代」
「企業戦士」
経緯からいえば、かつての「国家中心の時代」から「企業中心の時代」へ、そしてさらに「マイホーム中心の時代」へとたどってきた暮らしのすべてに体験をもつ人びとが、その後も一貫して「マイホーム中心」の立場に理解を示しつづけていることを見落としてはならないだろう。
国民意識の振り子が「一億玉砕」という「国家中心」の果てまで振れた末に敗戦国となったあと、企業の成長と成果がそのまま国の復興の基となり、企業の安定がそのまま家庭の安定につながると考えることができた人びとは、進んで「企業戦士」ともなったのだった。だから、企業戦士にとって「マイホーム」は休息の場であり、家族の幸せのよりどころとなった。
これは後の章でも論じる課題だが、国家も企業もわが家もどれも等しく重要なのであるから、三つが同時に等しく扱われることがあってほしいのだが実際にはむずかしい。個人の立場を重視する「民主主義」のもとで、半世紀に超一四〇〇兆円の個人資産をため込んだ一方で、超一〇〇〇兆円の財政赤字を抱えてしまった国家。それをなお軽視しつづけて、国民意識の振り子が「マイホーム中心」の果てまで振れたときにどうなるか。国家はおろか企業も立ちいかなくなってわが家だけが平穏でありうるものか。そこでまた記憶をたどって「国家中心」の方向へと振り子はもどろうとする。
「マイホーム中心の時代」
「核家族」
いまはなお「マイホーム中心の時代」。
マイホーム、耳にすると心安まる、なんともいえず響きのいいことばである。わが国でこれほどまでに生活感を内包しえたカタカナ語を、他に探すのはむずかしい。いま高年者となっている人びとがそれぞれの人生をかけて、二○世紀後半の五○年の間にその内容をつくった日本語なのである。だから細部の意味合いは個人によって異なる。個人として大切に保っているひよわなもの、よき(良き、好き、善き)ものを守る砦として、「マイホーム」は先行の「わが家」や「家庭」などとともに、それに負けない新鮮な温もりを日本語として持つに至っている。その分だけ「ホームレス」ということばが、孤独なわびしさを伝えてくる。
戦後っ子だったパパとママは「マイホーム主義」とからかわれながらも、狭いマイホームに身を寄せ合って暮らし、必死に働いて、ふたりの子どもを育ててきたのだった。夫婦と子どもふたりの家庭が都市型住民の典型となり、「核家族」と呼ばれ、「標準家庭」ともなったのだった。その後、職場まではいっそう遠くなっても、マイホーム・パパは、子どもたちそれぞれに一部屋をと考えて、団地からさらに郊外のプレハブ一戸建てに引越した。そういう体験をもつ人びとも少なくないだろう。
人生のはるか遠い地点までを見透かして、可能なかぎりの費用を工面して、マイホームを獲得し、いまそのころ見据えていた地点の近くに高年者として立っている。マイホームの当主としての存在感を確認するために、じっくりとわが家の中を見直してほしい。家族の希望をかなえることを優先して、そのぶんみずからの希望を抑えてきた結果、不相応な応接セットや家具といった家族共用品はあってもみずから求めた専用品というのは少なくて、「モノと場」に表わされた存在感が意外に希薄なのに気づくであろう。
「ヒカラビてる人」
「ヨボヨボ・ジジババ」
ここでは実際に両親と子ふたりの核家族マイホームを覗いてみよう。
娘と息子がパラサイト・シングル(寄生独身者)をきめこんで、親元から出て行かない家庭。イエローカード一枚といった子どもを持つ「団塊シニア」であるFさんに登場を願うとしよう。
Fさんの上の娘は短大を出てフリーター暮らし。かせぎはほとんど衣装と海外旅行に消えている気配。下の息子はごく普通の大学をごく普通に卒業して、親のひいき目でもしっかりしてきたように見えるのだが、就職試験を受けて勤めはじめた輸送関連の会社だったのに、短期でやめて家にいる。大学を出たのだからと本人の自主性にまかせているが、というより言っても聞かないから気儘にさせているが、同じ経緯をもつ友だちとパソコンやケイタイで情報のやりとりをして過ごしている。時折り出かけて「職さがし」はしているものの、「ニート化」(NEET。働くつもりのない若年無業者)への気配もあるという。
娘や息子の話を聞くともなく聞いていると、両親と同じ高年者を、「ヒカラビてる人」とか「ヨボヨボ・ジジババ」といっていることがある。時には父親を「アノヒト」、面とむかって母親を「キミ、元気かね」と呼ぶなど、軽くあしらわれていると感じることがたびたびある。
「この家はわたしが名義人なのだ」などというのも愚かしい。壁面に娘が貼った「のりか」(藤原紀香)のポスターほどには、底値までさがった土地の築二〇年という家の壁に存在感があるわけはない。
いわれてわが家の中を見直して見る。本だなの本が動いていない。耐久性のあるものは、どれも十年以上まえに購入したものばかり。一方、暮らしの表面を流れていく日用品は、百均やスーパーものが多くなった。なかにルイ・ヴィトン(バッグ)やプラダ(バッグ)やディオール(服装品)やシャネル(化粧品)などといったFさんにもわかるブランド品も少しあって、そのアンバランスさに父親であり夫である自分への無言の不満が隠されているように思える。Fさんのブランド品といえるものは、後にも先にもオメガ(OMEGA 終わりの意)の腕時計だけ。専用品の希薄さは、みずからのために生きることへの自負の欠落でさえある。
「マイホーム」のために努めてきたはずなのに、と思うのはFさんのほうの都合であって、最も優遇されている仲間を比較の基準とするジュニア側は、そうは思っていない。「ツカエナイ親!」として、おおかたは現状に不満なのである。 
「新宿ホームレス」
「家庭内ホームレス」
不満との葛藤を行動のエネルギーにしている子どもたちの「荒廃菌免疫」のありようを、つまりわが子の潜在的ワル度をFさんはつかめていない。当主として当然のこととしてきた家族への配慮が、「人生の第三期」にはいった自分を支える磁場の不在となってしまっていることには気づいている。
マイホームに「マイ」がない。では「新宿ホームレス」とどこが違うというのか。
たとえ不在であっても、当主の存在感を同居人にきちっと示しているような家庭内の拠点が必要なのだ。そのための専用スペースの確保。といって、夫婦と子ども二人で最低居住水準をぎりぎりクリアしている3LDKの住まいだから、当主として一部屋をなんて余裕はない。子どもたちが親ばなれせずにいるから、それぞれ一部屋、それに夫婦の一部屋である。部屋の確保を謀って追い出し(子どもの自立)を試みても、獲得に失敗した末に孤立してしまうようでは、拠点どころか「家庭内ホームレス」になってしまう。となると共用スペースであるリビング・ルームの一画となる。要は、たとえ不在であっても当主の存在感をきちっと示せるようなコア(核)をつくることにある。 
*・*「マイ・チェア」の即座の効用*・*
「当主不在の在」 
「家庭内リストラ(高年化)」
「家庭内の高年化」なのだから、されるのではなく、するものである。
たとえ不在であっても、当主の存在感を示せるような「当主不在の在」としての「わたしのもの」の存在。いまリビング・ルームを見渡しても、何もかもがそうであるようでそうでない。おおかたは家族共用品なのである。
「家庭内リストラ(高年化)」はこれまでそういう意図がなかったのだから、際立って「わたしのもの」といえるものなどないのが当たり前。亭主関白といわれながらも、意識して自分のものを置いているという人なら、もうここから先は読む必要のない「先駆的現代丈人」である。
おおかたのマイホーム・パパは、常人であることを率直に認めて、わが高年期人生を輝かせる「丈人モデル」型の能力を、傍らにあって支えてくれる「高年化用品」を意識して配置することにしよう。蓄えてきた知識や積んできた経験をさらに深化・発展させることに資する「わたしのもの」を、いつでも利用できる状態に置いておく。身近にあって「わたしのもの」といった役割を担えればいいのだから、高価なブランド品である必要はない。日ごろから愛用しており、「わたしのもの」という存在感があればいい。これと決めた「高年化用品」を基点にして「家庭内リストラ」をすすめ、高年期の住環境を整えようというのである。
まずはひと昔前まではNO・1の愛用品だった机と文具類。いまやパソコンとEメールの時代だから、久しく脇役に耐えていることだろうが、馴染んだ机は「高年者意識の据え置き場所」として確保して活かしたい。
「高年化コア(核)用品」
「パパのもの」
楽器、実用性を失ったがシャッター音と手触りの愉悦には変わりがないカメラ、それにオーディオといった愛用機器。あちらこちらに散在していたのを全員集合!をかけてあつめた一二〇冊ほどの愛読書。碁・将棋盤やゴルフ・釣り具セット。優れた手仕事に感じ入ってきた碗・皿・硯といった日用骨董品。明かり、時計、置物などのアンチーク(西洋古美術品)。日ごろ忘れがちな優美なものへの快さを呼びさましてくれる彫刻や絵画。造形や色彩が精細なものへむかう感覚を刺激してくれる貝や蝶。さらには地球儀、船・飛行機・汽車・車のミニチュア。素朴な木製アフロ・グッズ・・まだある。
どれも当主としてお気に入りの「高年化コア(核)用品」の候補だが、多くはいらない。五~七点を自分で納得して選び、置き場所を決めればいいことだ。これと決めた愛用品を際立たせることで、家庭内に高年期のステージが立ち上がる。静かな「家庭内リストラ」が動き出す。そのうちに同居人が「パパのもの」としてその存在に気づくだろう。
意想外に地球儀なんかがおもしろそうだ。東アジアの隅にある島国ではなく、太平洋リング(大洋弧)の一角にありながら、経済や文化の上で大きな貢献をして輝いている「優れた小国」であることを、宇宙飛行士の視点で納得することができる。「小日本(シャオ・リーベン)」は、「粗野な大国」よりはるかにあってほしいわが祖国の姿ではないか。
手にいれるのは困難な貴重種だそうだが、蝶の皇帝といわれる一頭の「テングアゲハ」なんかなら、華麗に舞う姿を思うだけで気分は晴れる。胡蝶に同化してひらひらと舞ったという壮年の荘子の「胡蝶の夢」は、味わって損はない。旨し「天の美禄」(酒)をとくとくと注ぐ「しりふくら」(徳利)でもいい。親ゆずりの高価な骨董品などがあれば、さりげなく実用にして活かす。高年期の願望を仮想空間に委ねる「わたしのもの」だから候補はいくらでもある。
なければこれといったモノを探すこととなる。
「SS(シニア・スペシャル)シート」
「マイ・チェア」
「団塊シニア」のひとり、Fさんには親ゆずりの骨董品など何もない。リビング・ルームを見直した末に、小さな庭と室内の双方が見渡せる窓際に、特別席「SS(シニア・スペシャル)シート」(高年者用特別シート)を据えることにした。会社でも窓際だし家でも窓際でと、居心地を合わせることにして。そして文字盤が気にいっている置き時計をサイドボードの隅に、旅先で入手したパピルスに画いた「狩猟図」と漢画像石の拓片「舞踏する熊」図を壁面の左右に飾ることにした。
Fさんの「SSシート」は、高年化時代を表現する「コア(核)用品」として、含みのあるいい選択のようである。重量感より意匠センスより何よりも座り心地を優先する。いうなればわが家の「玉座」「師子座」「座禅座」である。かつてインドでシャカムニが宝樹の下に座して思惟したように、わが人生の来し方と行く末を半跏思惟する座を自選するのだから、「マイ・チェア」として大切に扱うことにしよう。
すでに愛用のイスをお持ちのみなさんも「マイ・チェア」と呼んでください。「チェア」に座して高年期の人生の今日から明日へを静かに思惟する「半跏思惟」丈人となる。
「人間は誰しも『私の椅子』と呼べるような椅子を持つ必要があり、そうなって初めて自宅で本当に落ち着いた気分を味わえるのではないか」というのは、マイホームを建てたときから気にしていた建築家の提言で、まことにその通りと思っても、ローンをいっぱいに組み込んだFさんには、そこまでの「自己実現」の余裕はなかったし、家族思いの当主としてはそこまで自己主張をしなかった。
いまその実現の時なのだ。老い先長い高年期を通じて、愛着をこめて使い込むことによって座り心地を熟成させてゆく「マイ・チェア」。即座の効用としては、家庭内に存在をアピールする磁場となる「高年化コア(核)用品」として、格別の思いを込めてそれなりの費用を投じて得た「シニア特別席=SSシート」を、家の中でもっとも居心地のよい場所に据える。
一日のしごとを終えて、「やれやれ」と腰を落とし、心を静めてひとしきり一日をふりかえる。「さて」と気を改めて明日を思い、「よし」と意を決して立ち上がる。それでいい。
それが「マイ・チェア」の即座の効用なのだ。どっしりと座って、からだの重みとともに来し方への充足感、行く末への待望感を委ねる。時には座して陶然として、すべてを忘れる「坐忘」の境地にもひたる。それなくして何の人生か。
「座る文化」
「古希杖」
Fさんの調べによれば、さすがに「座る文化」の歴史が長い欧米の製品には値切っても世紀の長があって、実にさまざまに意匠をこらしていて、見るからによく、座り心地もよさそうだという。最高の座り心地を誇るのは頭と腰がほどよくフィットする北欧製のリクライニング・チェア。競うのはドイツ製スツール、イタリア製アームソファ、カナダ製スウィング・チェアなど。いずれ劣らぬ「八面威風」の居ずまいがあるし、値段も思いのほか幅があるそうだ。
長い高年期を安らいで過ごすための拠点が「マイ・チェア」なのだから、かつて恋する人を失った苦い思いを繰りかえさないために、これといったイスと出会ったら思い切って投資(浪費)をする。後半生が始まる五〇歳の誕生祝いに購入するのもいい。
そうそう「杖・ステッキ」も、おしゃれで品のいいフランス製やイタリア製やドイツ製、和風折りたたみ杖もあるが、名入りの彫刻をほどこした木製ステッキなら素敵な装身(護身)具になるにちがいない。五〇歳には「マイ・チェア」、六〇歳には「赤毛着衣」、七〇歳には「古希杖」、八〇歳には「傘寿がさ」といった通過記念の自祝品はどうだろう。どれも心躍る製品と出会えればいい記念になるだろう。 
「チェア博物館」
「新チェアマン」
二一世紀を貫く夢のひとつ。高年世代の人びとが、それぞれに座り心地がよい特選のイスをわが家に据える。家庭内の「モノと場の高年化」の拠点として存在感のある「マイ・チェア」として。各地にチェア工房が形成され、毎年の「チェア・コンペ(競技)」には、各国から腕よりの職人がやってきて技を競いあう。この国はそのまま「チェア博物館」となる。どうだろう、家の内と外、国中どこにでも座り心地のよいイスが据えられていたら、立ち疲れることもないし、優先されない優先席などいらない。二一世紀末の高年者たちは、世紀初頭に先々々代の「昭和人」が使い込んだ「チェア」に腰を据えて、愉快な座談が楽しめれば深く感謝するだろう。
たしか「チェアマン」(チェア・パーソン)というのは、議長や会長のことだが、高年化時代には、愛着をこめて自選・自作した「チェア」を保持して高年化社会の主役としての存在感を示す人のこと、といった「新チェアマン」の説明が加わることになる。
どっかりと座って、しっかりと座視することで、わがこととともに周りの人びとの「人生への希望」もまた、はっきりと見えてくる。
 *・*専用品をつなぐ暮らしの動線*・* 
「超人生耐久品」
「三世代ステージ化」
家庭内の「高年化コア(核)用品」として、前節ではFさんの「マイ・チェア」を紹介したが、高年期の自己目標に立ちむかう能力を支えてくれる愛用品でありさえすれば何でもいい。
とはいえ、傍らにおいて生涯にわたって愛用していく「コア(核)用品」となれば、数年でモデルチェンジするような消耗品では役不足。だから日進月歩で変化する電化製品や車などは高価であっても評価が成り立ちづらい。といって「千年杉」を細工した違い棚のような鮮やかな年代主張はなくともいい。どうだろう、ここでの「高年化用品」というのは、五〇歳から終生あるいはもう少し先の「超人生耐久品」(遺産として残るほど)といったものとして、およそ三〇~四〇年は傍らに置くというあたりをメドとしよう。「高年化」は「長年化」でもあって、だから高年者だけが利用するという狭い意味ではない。
家の中のオープン・スペースに置かれているのは多くは家族共用の調度品、つまり「三世代ミックス」型用品である。そのうちで花器や草花の鉢植えや観葉植物や床の間の軸といった季節の気配を屋内に取り込む用品・用具は「家庭内高年化」にはほどよい素材である。ソファなど高級家具はそろっていても季節の気配が動かないリビング・ルームや客間なら「丈人度ゼロ!」としての評価を下しておこう。「家庭内高年化」のありようは、祖父や父親の姿にみたような相続特権に裏打ちされていた厳父気取りとはほど遠いものである。中年期に得た人生経験の成果を、「モノと場」として家庭内にさりげなく配して、みんなに納得された上でわが高年期の暮らしの拠点とするのだから、高年者意識をしっかり立てて仔細に工夫をしないと思わしい結果がえられない。
家族構成にもよるが、「三世代同居」のお宅だと、孫(青少年)、子ども(中年)、自分(高年)の三世代がそれぞれ優先・専用する「三世代ステージ化」が課題になる。これまでの家族共用品はそのままとして、高年者むきに特化した生活空間を創出するにあったては、同居人の生活動線を考慮しよう。同居人から生活空間の自由を奪うものでないことが理解されないと先に進めないからだ。いくつかの「高年化コア(核)用品」を決めて、それを基点にして専用品「パパのもの」を随所に配する。「北辰(北極星)その所にいて衆星これに共(むか)う」ということになる。
「モノ同士のモノ語り」
「家庭内丈人度」
「高年化用品」を季(機・気)に応じて差し替えることで、わが家のリビングで四季折り折りの「モノ同士のモノ語り」が楽しめることになる。
こうしていくつかの「高年化コア(核)用品」とそれをめぐるいくつもの専用品(高年化用品)を配することで、存在感が希薄であった時に比べれば、当主としてのありようを喚起するしかけが見えてきたといえるだろう。同居人は、「チェア」や壁面飾りや日用品に示される当主の「家庭内丈人度」に関心を強める。それでいい。
外で優れたボランティア活動をしていても、わが家の中に高年者としての存在感がないようでは、ほんとうに優れた高年活動家とはいえない。
ここでは「丈人モデル型の能力」を支えてくれる国産品、わが家に親しい友人を迎えるような興奮を与えてくれる「高年化用品」を創り出してくれる各地の熟年技術者のみなさんに熱いエールを送ってから先にいくとしよう。
「高年男子必厨」
「銘入り出刃一丁」
次にはキッチンの情景。
高年男子が「食」を知らないでいては、いつまでたっても女性との長寿の差の七歳は縮まらない。そこで高年期に入った男子は、志を立てて厨房に入ることにしよう。
「高年男子必厨」丈人として、日本橋・木屋や京都・有次あたりの包丁三丁(出刃・刺身・菜切)くらいは吟味して入手する。「銘入り出刃一丁」は有用な「高年化コア(核)用品」である。タイまではいかなくとも、中型のイナダやシマアジなんかを手ぎわよくおろして食卓に供する。さらに「旬の食材」もみずから用意する。今夜の口楽であり生涯の悦楽である食の道楽。味覚とともに調理もまたきわまりなく熟達しつづけていく「丈人モデル」型の領域なのだから、おおいに腕を振おうではないか。家人も喜ぶ季節メニューが増えれば悦楽は倍になる。
食器も形や感触を楽しめる専用品だ。自作のものを含めて「これはパパのもの」という食器が、食のシーンでの存在感を示す役目を担う。
「男子必厨」丈人によるキッチンの「高年期のステージ化」は、なごやかに緩やかに形成すべき難題である。得意料理をつくるところから入らず、食器の片付けや用具の手入れや調味料の整理あたりから、さりげなく構築していくことに秘訣があるようだ。
 「丈人資格自己認定」
とこうして、いくつかの「高年化コア(核)用品」を基点として、いくつもの専用品をつないだ暮らしの動線が太く見えてくれば、「家庭内高年化」が成立したといっていい。マイホーム・リストラでの「丈人資格自己認定」ということになる。
「いまさら面倒やさかいに、わての人生はその三世代ミックスとやらで結構や」
という人もいるだろう。人それぞれの人生やさかいに、ご随意にどうぞ、といいたいところだが、結論は試みてからにしてほしい。苦労して得たマイホームで、当主としての充足感が時の移ろいとともにヒタ寄せる体験は思いのほか快いことなのだから。
高年者意識を静かにしかし熱く立てて、家庭内の「モノと場」の高年化構想を固める。
「パパとママは落ち目、明日はボクラのもの」と早合点していた若い世代に、本来あるべき姿としての高年世代の「第三期の人生」を認識させることになる。
ではもう一度、親しい友人を迎えるような終生愛用できる「高年化用品」を創り出してくれる各地の高年技術者のみなさんにエールを送って先にいくとしよう。 
 # 三つの世代を同等に意識
*・*近居より「三世代同等同居」が未来型*・* 
「エンプティ・ネスト」
「世帯同居」
団塊世代よりやや高年の方の場合には、哀楽をともにして暮らした子どもたちが巣立っていき、移り住んだころの幼い姿などを「不在の在」として想い見るほどのスペース(「エンプティ・ネスト」。空になった巣)を、そっとしておくことができているご家庭も多いことだろう。
中年期に家計をぎりぎりまで工面して借り入れをし、都市郊外に住宅を購入して子どもを育て、子どもがそれぞれに自立した後は夫婦ふたりで暮らしているマイホームは、「二世代住宅」と呼ぶことができる。父として母としての立場で内容は異なるだろうが、子育てのいくつもの困難をクリアしてきた父母としての側の感慨のスペースであるとともに、子どもたち、とくに娘にとってはひそかな生活戦略にかかわるスペースでもある。
このところの傾向として、「世帯同居」は減り続けてきて、高年者(ここは六〇歳以上)の四〇%が同居を望んでいるのに、実際に孫と同居している人はいまや二〇%ほどに。桑田佳祐の「TSUNAMI」がトップという時代に、大泉逸郎さんの歌った「孫」が場違いといった感じでベストテン入り(二○○○年度の一○位)したことがあったが、減少傾向はなお続いており、願望ははやり歌の背景に遠のきつつある。
孫はかぎりなくかわいい。「二世代住宅」に暮らしている父と母は、子どもが巣立ったスペースを今度は孫のためにしつらえ直して、三代目を養育する場を用意することになる。「近居」の場合は、離れて暮らしている分だけそれぞれの独立とプライバシーは損なわれることはないが、離れている分だけ問題回避型の接触とならざるをえない。幼い孫はかわいいし、張り合いをもたらしてくれる。そこで会うごとに何かと望みをかなえてやる、やさしいおじいちゃんとおばあちゃんになる。きちっとした孫育てには限界があるのはわかっていても、現状ではこのあたりが高年者にとっては標準的しあわせ家族となっている。
娘が結婚して世帯を持ち、子どもが生まれる。「できちゃった婚」が並みの時代だから、結婚後一〇カ月のハネムーン・ベビーより結婚六カ月後が最多とかで、案外はやく確実に「ベビー(孫)」がやってくる。この二五歳までの出産期をはずすと、あとは先延ばしして三〇歳代に。これでは少子化に歯止めのかけようがない。それでも三〇歳の大台に乗って、なんとか子どもをと覚悟はきめたものの、養育・教育費は家計の重圧になるというし、マスコミを賑わす子どもたちの反抗・犯罪を目の当たりにして、不安はつのるばかり。そこで、「カアさん力を借して」ということになる。
「新エンゼル・プラン」
「実家依存症」
子育てに母親の助力を期待しすぎると、国をはじめ夫婦ふたりによる「新エンゼル・プラン」を理想として子育てを推奨している自治体、若いカップルを囲いこんで子どものしつけを教えるしごとをしている側からは、「実家依存症」といわれかねない。
それでも子育てに母親の助力(家族の含み資産)を期待して両親と同居して暮らすことを考える娘夫婦がいる。かつてシュウトメにわずらわされない専業主婦を求めた母世代の「核家族」指向から、専業課長でありたい娘世代の「二世帯同居」へのUターンである。
孫世代までを想定した「三世代同居型住宅」は、子どもの側からばかりでなく、新しい大型戸建て住居に住むという両親の側からの要請も少なくない。
親世帯からは親子近居の解消、家屋の老朽化やバリアフリー化や大型住宅への願望などが主な理由で、加えてメーカー側の総合住宅指向、さらに融資や税の優遇もある。親世代の支援を受けて「少子化」を解消し、先人から引き継いできた「暮らしの知恵」を次世代にしっかり伝えられるような「三世代同居」型住宅が期待されることになる。
道路、橋、ハコ物という大型公共事業に頼ってきた建設業界も、地域住民の暮らしの基盤である住宅建設という基本に立ちかえる好機である。大都市型の「蜂の巣マンション」というのでは方向が逆である。地方都市の近郊農家の建て替えなどでは「三世代同居」型住宅がもっと指向されていい。三世代同居という「新・日本型標準住宅」を各地に展開して、新たな地域開発の潮流を起こすくらいでいい。国も「暮らしの知恵」を次世代に伝えられる「三世代同居」住宅政策を掲げて、思い切った税制や資金の優遇をおこなう必要があろう。
現状では政策も税の優遇も融資もそして世論の支援もケタが足りないのである。 
*・*暮らしの知恵を孫に伝える*・*
「三世代同居住宅」
「長寿社会対応住宅」
大都市近郊に住むWさん夫妻は、娘家族の要望もあって、建て替えの負担を覚悟して「世帯同居」型の住居を建築することにしている。
メーカーを通じて調べてみると、事例は決して少なくはない。各メーカーともユーザー側のさまざまな要望に対応できるノウハウを持っており、住宅内のバリアフリー化はすみずみまで意識されている。部屋の配置はもちろん、つまづいて転倒しないよう段差をなくしたり、手すりを設けたり、階段の勾配を緩くしたり、車イス(訪問客もある)を考慮して幅広廊下にしたり、少ない動作で開閉できる引き戸にしたり・・などが実現されている。「家族とともに成長する住まい」を提案しているメーカーもある。
すでに建て替えて「三世代同居住宅」に住んでいるお宅を実際に訪問する機会を提供しているメーカーもある。そこで、Wさんは参加してみた。古くからの由緒ある住宅地での建て替え住居だから外形も安定しており、街並みに落ち着きを与えていることがわかる。かなり大ぶりなサクラが庭の隅にあって、それを囲むようにL字型の二階家が建っている。
「家内の母が家族の成長記録とともに大事にしている樹でしてね」
Wさんの庭への視線を察して、ご主人がいう。夫妻のほかは高校生の娘と義母の四人家族。一階は母親の部屋と共用のスペース、二階に夫妻と娘の部屋と広いリビング。書斎もあって、「マスオさん」として「三世代同居」を成立させながら、マスオさんよりはずっと存在感があるように見受けられた。上下階の雰囲気に違和を感じさせなかったのは、母と娘の間に暮らし方の一貫性が保たれているからだろう。「三世代同居住宅」として申し分ないが、それでも義母の側の遠慮がちな気配が構造やモノに表われているのが気になったという。
住宅産業は、「長寿社会対応住宅」として「長寿社会対応住宅設計指針」(九五年、建設省)が出て一〇年余り、メーカーの配慮くらべで高年化対応がもっとも進んでいる業界である。住宅メーカーによって取り組み方は異なるが、どこも「世帯住宅」のノウハウを蓄積している。
そこまでは結構なのだが、せっかくの世帯同居型住宅にもかかわらず、どのメーカーの小冊子のモデル設計を見ても、共用スペースのつくりつけがミドル(+ジュニア)主体に寄りがちになっている。「三世代住宅」とは称しているものの、「離れた和室ひと部屋への高年世帯の引きこもり」が推測できるものが多くみられる。
これではほんとうの高年化対応住宅とはいえない。「人生の第三期」の主役として、長い高年期をゆったりと暮らす家ではない、とWさんも気づいている。孫とも接触がしやすく、祖父母からわが家の「暮らしの知恵」を伝えられる場としての共有のスペースはもちろん、「三世代のプライベート・スペース」を平等に織り込んだ住居と決めて設計にはいっている。
「三世代同等同居型住宅」
「ファミリー・ライフ・サイクル」
三世代それぞれの暮らしにバランスがとれた「三世代同等同居型住宅」は、高年者側が主体的に構築せねばならない。ジュニア(孫)との接触スペースなどは、可能なかぎり祖父母の側から提案すべきことである。高年者が自在に暮らす住宅としての具体的な要望が足りないために、メーカーから高年化対応に積極的な構造が引き出せないのである。
「三世代同等同居型住宅」は、三世代の暮らしの変化が構造に反映される「ファミリー・ライフ・サイクル」(家族変化の過程に応じる)住宅である。いまの家族の一まわり先を考慮した構造として表現される。三世代がそれぞれ三○年ほど先の姿とそこへ至るプロセスを想い描いてみるといい。もちろん「不在」の孫世代を参加させ、みずからの「不在」の時も考慮して。
メーカー側は、「世帯同居」型住宅は一〇〇年(センチュリー)、少なくとも六○年保証と自信をもっていう。いまの建築水準から耐用年限は五○~六○年は優にある。だから、およそ半世紀後に孫世代家族が中心で暮らす家や家並みをつくっていることになる。
傷んだ住宅を修理しながら住んでいる高年世代からすれば、「近居」や「隠居型同居」ではなく、三世代が同等に暮らせる「三世代同等同居型住宅」が「新・日本型標準住宅」として指向され、「家庭内の高年化」への新たな試みとして、知識も活力も資力も注入して参加するだろう。それぞれの家族の態様や地域の特性に応じた改造を加えながら「わが家」が形成される。ライフ・スタイルの異なる三世代が、それぞれ同等にプライベートな生活空間を持ち、お互いに工夫して「わが家三代の暮らしの知恵」を共有していくことになる。
Wさんは、ライフ・スタイルが異なる家族が出くわすさまざまな場面で、「いっしょに考えて解決することができますから」と期待をこめていう。「三世代同等同居型住宅」の実現をめざすWさんは、「世帯同居」丈人と呼ぶことにしよう。
子育て期の女性が男子社員と伍して能力を十分に発揮できるよう支援をする「三世代同等同居型住宅」は、企業の側からも歓迎すべきものとなる。そして何より孫世代にわが家の「暮らしの知恵」を伝える「母娘同居」という母系のつながりを有効に活かすことになる。母と娘がやりとりする継続性のある生活感、祖父母と接することによってもたらされる孫世代へのメリットには計り知れないものがある。
「うちのジージがね」といって自慢するジュニアが三分の一ほどいないと、この国の先人が残してくれた「暮らしの知恵」が次世代の子どもたちに伝わらなくなってしまう。同居しながら高年者をたいせつにするジュニアを育てる機会をもつ家族。これもまた「高年化社会」を構築するために重要な「三つのステージ化」の一環なのである。
*・*熟成期を共有する「シニア文化圏」*・*           
「シニア文化圏」
本稿では「丈人力」や「三世代のステージ」などとともに、「シニア文化圏」ということばを、強い把握力をもつ高年期キーワードとして位置づけている。
といっても現状のところでは、内容となるコア(核)は確かな感触でつかみとっているが、その奥行きも広がりも漠としたままになっている。広く理解されて成熟するとともに、やがて大小の水玉模様がどこまでも広がり重なりあうような印象の波紋を形成するという成長予測をもって期待していることばなのである。
そこでここでは、コア(核)となる意味合いを述べることになる。
「シニア文化圏」というのは、「人間五十年」を過ごして、それぞれに個性的にわが道での業績を積み上げてきた高年者が、異なった成果を得た人びとと出会い、お互いにみずからの経験や業績を語り合い、高年者同士でなければ味わい得ないレベルの理解を共有することを目途として集まった場(高年期の文化ステージ)、といった程のところだろうか。
少し排除的にいえば、「利」を望まずに、あるいは望んでも優先せずに、「文を以って友と会す」といったところ。加えていえば、ここでは「青少年(ジュニア)」や「中年(ミドル)」の存在を脇に置いて、おとながおとなの「文化を語って文化を生じる場」といったほうが分かりやすいかもしれない。そう気づいていないだけで、すでにさまざまな形で存在しているわけだから、とくに新しいことを言い出しているわけではない。
ここではそれを高年者意識の視点から捉え直すこと、これは「シニア文化圏」だと意識することで、高年化社会のなかにそれぞれに個別な特色をもって重なった水玉模様のような印象の存在として見えてくればいいのである。 
「シニア文化の内容」
語られる「シニア文化の内容」とはどういうものか。
「環境」とか「文化」というと、どうにでも広くも狭くもなるが、狭く考える必要はないだろう。学術的な領域から芸能・スポーツ、暮らしの知恵に至るまで、人為万般にわたってみんなが共有しているもっとも広い意味での「文化」のイメージでいい。少し限定するとすれば、五○歳を経た高年期にある人が関心をもって考え、語り、作り、表現した事象・事物を主に対象とする、ということぐらい。
たとえば五○歳で亡くなった夏目漱石の『心』や『明暗』、若くして自死した芥川龍之介(三五歳)の『侏儒の言葉』、三島由紀夫(四五歳)の『天人五衰』などは、若い日の濫読時代とは違って五〇歳をすぎた立場からの読み込みによって新たな発見がなされるはず。
同時代人として、吉本隆明さんのような並みならぬ思索の根っこを持つ人の、かつて妥協のない立場がぶつかり合った一九六〇年代の状況下で、ロゴス(統一法則を内包することば)の混乱にまきこまれながら柔軟で示唆的であった『共同幻想論』などから、思索の根っこを裸形のまま曝した『老いの流儀』などの新作にいたるまでの、中年期と高年期の作品を合わせて採り上げてみるのもおもしろい。また『蓮如』を書いた五木寛之さんの新作、古代インドの「四住期」から想をえて現代の高年者の第三の人生のありようを説く『林住期』も、個人の生き方の事例として理解されるのもいい。みずからの長年の思惟の到達点から発して試みられた井上靖さんの『孔子』や瀬戸内寂聴さんの『釈迦』といった史上の人物についての作品は、作品批評まで含めて、さまざまな角度から語り合える素材となる。
「親族シニア文化圏」
「学友シニア文化圏」
文化圏の「圏」としての大きさは、どうだろう。
テーマや参加する人にもよるだろうが、「最小規模の多数」である七~一一人といったところが基本だろうか。不可能とはしないが、四、五人では少ないために「文化」を生じるための変則や異見といった要素を含み込めないし、また多すぎると散漫になる。
メンバーが多い場合には七~一一人を代表発言者とし、テーマや時間を限って質疑などを通じて全員が参加するシンポジウム方式が有効のようである。
わかりやすい例としては、多くの会議や学会の総会そのものも高年者が中心の「シニア文化圏」ではあるが、むしろその後の「二次会」のほうを基本型と考えたらどうだろう。二次会なら談論風発、結論を出す必要もなく、話題はさまざまに移っていく。ひとつのテーマをめぐる場合もあるが、意見が二つに割れたり三つになったり、二つの話題が混ざって語られたり、また一つにもどったりする。その自在性の中に「最小規模の多数」による発見と味わいがある。
高年者同士が自由自在に「文化を語って文化を生じる場」が「シニア文化圏」であり、高年期の人生の成熟をともに実感しあえる愉快な「高年期のステージ」なのである。小規模で静かに開かれている「::先生を囲む会」などは、おだやかな老師を中心にして、「如座春風」(春風の中に座しているよう)というにふさわしい「シニア文化圏」として、参加者を暖かく包んで成立している。それぞれの立場で、いろいろな「シニア文化圏」に属していることに気づく。
冠婚葬祭の折りに、親族が集まる場で「シニア同士」で話し込んでみると、思いもよらない発見があるものだし、「親族シニア文化圏」といったものを意識し直すこともできる。同様にクラスメートとの「学友シニア文化圏」も長く親しい。同窓会では生涯にわたる絆をもった何人かの学友との出会いを経験しているだろう。
「地域シニア文化圏」
「職場シニア文化圏」
地域の知りあいとの「地域シニア文化圏」、職場の同僚との「職場シニア文化圏」、仕事での知人、ネットのウエブ・サイトで知り合った人びとも「シニア文化圏」として意識してみる。やや広がりをもったクラブ・同好会などはまさに「シニア文化圏」の典型といえる。ゴルフ、釣り、碁・将棋、郷土史、俳句ほかスポーツや趣味の仲間もまた改めていうまでもない。だれもがいくつもの水玉模様の重なりに似た「シニア文化圏」を大切にして暮らしている。
高年期になって親しくつきあえる人といえば、だれでも「学友」と「同僚」と「親族」の三点セットのうちに、幾人かの信頼する相手をもっているだろう。しかし実はこの三点セットだけでは長い高年期の人生を充足して送るには心もとないのである。心もとない理由は、どれも高年期になって自らが選んだものではなく、与えられた環境下で得た人びとであり、外に閉じた仲間だからだ。高年期に心躍る人生の充足を得るには、さらに地域や目標とする分野からあらたに加えて五つ~七つの「シニア文化圏」での活動が、高年期の人生に変化と厚みのある成果を刻んでいくことになる。 
「日本シニア文化圏」
といって、参加者がそれぞれの立場で自在に活動していればいいことだから、「シニア文化圏ネット」といったヨコ幅を広げる組織化を急いだりすることもない。それぞれに自立した「シニア文化圏」が多種多彩に活動し合い、お互いに存在を意識し合いながら豊かな「日本シニア文化圏」が総体として成り立っていればいいのである。
極端に閉じすぎた組織では先がないが、引退シニアであるSさんのような「引きこもり」にはいった人びとの一見、閉ざされた仲間うちの「閉鎖的シニア文化圏」もまた座位を少しずらした自律的な「シニア文化圏」として、その存在が理解されてくる。高年化社会の現役として、ともに熟成した豊かな人生のひとときを共有して過ごす。それなくして何の人生か。
「シニア文化圏」だからといって「青少年」や「中年者」を排することではない。中心になる構成メンバーが高年者であり、中心テーマが高年者を対象とするものということであって、とくに将来の成員である中年の人びとには開かれたものでいい。ほどよいほどの「シニア文化圏」の存在が、一人ひとりの「第三期の人生」の充足と重なるであろうことは確かである。
 

現代シニア用語事典 #4家庭用品の「途上国化」と「国産化」

#4家庭用品の「途上国化」と「国産化」
#職域と製品の高年化
*・*日本製「高年化優良品」に活路*・* 
「日本の途上国化」 
「途上諸国の日本化」
家庭用品の「途上国化」と「国産化」も顕著にみられる多重標準である。
「家庭用品の途上国化」が日に日に進んできたのは、「えッ、これもか」というほどに、暮らしの中の「MADE IN KOREA」や「MADE IN CHINA」や「MADE IN THAILAND」といったアジアの国々からの日用品の増加によって実感されてきた。
「百均」(一〇〇円均一ショップ)が成り立つほどに製品が多種多様になって、それも「安かろう、悪かろう」というローコストの時期をすぎて、品質が安定してきている。アジア諸国の人びとの暮らしに大きな変化をもたらしているが、といってわが国の高年者の暮らしが便利で快適になったわけではない。「日本の製品を使って日本人のように暮らしたい」というアジア諸国の人びとの希望が叶いつつある。その間、わが国の高年者は、実質的には足踏みしていることになる。
「日本の途上国化」と「途上諸国の日本化」がしばらくつづき、「アジアの共生」がすすむ。
それとともに国産の「やや高い」けれど品質が安定しており、「安心」もいっしょに買うことができた日用品が手に入らなくなって、不便になったところもある。いまや日用品の中に「MADE IN JAPAN」を見つけると、ほっとするほどだ。
暮らしの中の「モノの途上国化」は、衣料品や食料品からはじまって、「ついにこれまで」と驚く精密機器にも及んでいる。一〇年ほどの間にここまで一気に進んだのは、「グローバル化」によって急激な業績悪化に見舞われた日本企業が、サバイバル(生き残り)をかけて選択した荒療法が、社内リストラと生産拠点の途上国シフトだったことによる。それが目前の利益を確保しようとする応急の処方として有効に見えたからである。「グローバル化」という時流は、わが国の家庭を「日用品の途上国化」という形で直撃した。
だからといって優れた生活感性を持つわが国の高年者層が、このままこれ以上に途上国製品に埋もれてしまうことなどありえない。高級品を指向する必要はないが、優れた生活感性をもつ高年者大衆にとっての「わたしのもの」となりうる優良品への要請が、遠からず「高年化用品の国産化」を求める声として、「雨過天青」といった明快さでこの国を覆うだろう。
 「欧米追随の一国先進化」
「アジア主導の途上国化」
前項でみたように「グローバル化」の対応に日本企業がサバイバル(生き残り)をかけて選択した荒療法が、社内リストラと生産拠点の途上国シフトだった。両方ができる企業はそれを急ぎ、できない企業は社内リストラだけをしながら萎縮(デフレーション)に耐えてきた。二〇世紀にアジア地域でただひとつ「欧米追随の一国先進化」をなしとげたわが国の企業は、とくにアジアの途上国にノウハウを移して途上国の需要者にも受け入れられる日本ブランド品にシフトした。その結果として、国内の経済活動が萎縮し、途上国製の日本ブランド品が増えつづけ、それとともに日本の企業が正社員でもたなくなり、アルバイトや派遣社員で支えるという「アジア主導の途上国化」対応が進んだのは、現れて当然のグローバル化症候群ともいうべき変化であった。
この間に経験したように、電球や電池は安くなった。でもすぐ切れるようになった。メーカーを見ると日本を代表する企業である。「日本企業はこんな製品をつくっているのか」という評判が立たざるをえない。これはアジア共存のための「日本の途上国化」であり、「余儀なき評判」である。かつて成長の途次にたどった地点(「ふり出し」までとはいわないが)にもどっておこなうアジア共存のための「共同歩調」としての対応であり、日本のなすべき責務なのである。踊り場で足踏みして待たされることになった日本の高年熟練技術者に直接の責任はないし、被害をこうむった上に、「家庭用品の途上国化」のために技術や意欲まで失うことではない。
「安価な輸入食品」
「やや高の国産食品」
急激なグローバル化が一般家庭の暮らしの場にもたらしたものは、総不況で稼ぎ手の収入が不安定になり、実質的に減ったところを、家族みんなが安い途上国製品で補いあって収支を合わせ、「家庭内国際化」(途上国化)を時代の趨勢として受け入れてきたことといってよい。
ひところは東京でも明治屋や紀ノ国屋やデパートでしか入手できなかった海外の山海珍味が、いまや各地の大型スーパーの食品売り場で見慣れたものとなった。食品には産出地が記されているから、世界中から運ばれてきているのが分かる。それを逆にたどれば、現地の人びとの暮らしを便利にしている日本商品がたどり着いた水際の広大さが知られる。 
その対価として運ばれてきた「安価な輸入食品」は、「飽食の時代」といわれるまでに食卓を豊かにした。その中にあって、日本各地からの食材は苦戦を強いられたが、モモ(山梨)もリンゴ(青森・長野)もサクランボ(山形)も産地の努力がうかがえるほどに質の差が歴然とし、価格がほどほどに収まっていれば、「やや高の国産食品」は品が良く安心な季節ものとして受け入れられている。
一次産品でもそうなのだから、他の商品ならなおさらそうだろう。高年消費者は、「消費意識の途上国化」に歯止めをかけている。暮らしの中の「モノの途上国化」には納得しても、国内の身近なところで生産活動から活気が失われ、優れた技術を持ち良質な製品をつくってきた企業の倒産が続出し、国内の技術が失われる現実をみているからだ。購買者として、底なしの「生活水準の途上国化」は何としても押し止めねばと思っている。
「待ち受け状況」(閉塞状況)
「家庭内高年化用品」
長い「待ち受け状況」(閉塞状況)に耐えて、景気の回復を待ってふんばってきたのは、生活の成熟を願う高年者と、下請け孫請けとして「日本製品」の良質さ、多彩さ、繊細さを支えてきた中小企業である。中小企業の親父さんはその両方にかかわって焦慮に近い暮らしを続けてきた。親会社が応急の「生き残り」を理由にこれまで共有して蓄積してきたはずの製品化ノウハウを勝手に海外に移転し、自国の下請け会社には設備投資で発生した経理残高の処理を押しつける。そんな理不尽な「生き残り」策がつづくならば、中小企業の現場から再生への意欲を失わせ、息の根を止めることになりかねない。消費者として、だれもが自分たちの生活を支えてくれてきた中小企業の生産者と技術の将来を危惧しているのである。
「自力で製品を開発することで対抗しよう」として、東京・大田区や隣接する川崎市の高度な技術を持つ「町工場」が、インターネットのウエブ・サイトで製品の広告をし、独自に共同受注を始めたことなどは、広く消費者からも応援の拍手がわく生産者側の「攻めのリストラ」への転機を示している。評判の高いIMABARIのタオルは、生き残りをかけて「世界一」に挑戦した地元技術者の結晶であるが、この地域産出のスグレモノこそが本稿でいう「高年化製品」であり、高年者ユーザーが期待して待っている国産の生活用品なのである。 
家庭用品の途上国化に歯止めをかけ、成熟する「日本高年化社会」を支える「モノの高年化」を担うのは、高度成長期をともにしてきた中小企業の高年技術者と高年消費者のほかにいない。「家庭用品の途上国化と国産化」という多重標準による暮らしを安定させる。そういう国産の優れた家庭用品製品の生産活動に契機を与えるのは、五〇〇○万人の高年者の消費動向である。ひと味ちがう暮らしをめざす高年者が、「家庭内高年化用品」(丈夫で長持ちする一生ものの優良品)を要求すること。優れた生活感性を持つわが国の高年者層が、途上国製品に埋もれてしまうことなく、生活感性を生かすための「わたしのもの」を要請する。
「使いやすく、品質が良く、長持ちする」という日本の中小企業が自負してきた製品である。企業内の熟年技術者は、自社製品の基本に立ち返り、「高年化優良品」の開発・生産に取り組む。「日本高年化社会」へ自主参画する意思を固め、得意な技術を生かして高年世代の暮らしを豊かにする製品を着想し、成員全員が底力を発揮して事業化をすすめる。各地で熟練技術者が奮起した姿とその成果としての優れた「高年化用品」に出合えることになる。
 *・*優れたモニターとしての日本高年者*・*
「中年輸入品ユーザー」
「高年輸出品モニター」 
日進月歩にある途上国産の家庭用品は、安価で便利な日用品として、おもに若年・中年世代が「家庭内の国際化」の筋で担う。とくに「中年輸入品ユーザー」として「アジア途上国製品」を支援する。その一方で、安心して生涯を通じて愛用できる日用品は、おもに高年世代が家庭内の高年化のために「国産品モニター」としての役を担う。ひと味違う質の良さを表現する「国産品」のユーザーという分担である。品格と品質とで優れる「高年化国産品」によって家庭内に高年化ステージを実現する。パパのものはさすがにパパのものだ。
この家庭内用品をめぐる多重標準が、国内外の経済活動を支えることになる。
少し遅れて差をつめてきたアジア友好国の家庭が、いずれ近い将来には求めるであろう日本製の「優良高年化用品」を、一足先にモニターしておく必要がある。「高年輸出品モニター」として、アジアの途上諸国ではまだまだ手薄な「高年化商品」の開発をモニターをしながら進めること。日本高年者の生活意欲と中小企業が留保している技術力による新製品の展開が、アジア的な視野でみて優位な時期にある。激走してきて一休み(ペースダウン)している日本経済が、アジア各国との友好関係のなかで次の先進的位置を確保するための未来戦略である。 
 「高年化製品経済圏」
高年者が肌で感じられるほどの「モノの地域化・国産化」が安定した存在感を示すとき、「日本高年化社会」を下支えする「高年化経済活動」の安定した姿が見えてくる。 
再度確認しておくが、優れた生活感性を持つわが国の高年者層が、このまま途上国製品に埋もれてしまうなど決してありえない。「高年化社会」を支える良質なモノの創出に乗り出す供給者ともなり、利用する需要者ともなる「昭和丈人層」が活動を活発化する。家庭用品のアジア・エリア内での先進性を確保するレベルを意識して、「高年化コア(核)用品」(一生ものの優良品)を生産者に要請する。各地各種の中小企業は、自社の高年技術者を中心にして成員全員の力を結集して「高年化優良品」を開発することに挑む。引退した社友も参画して、みんなで愛着をもって使える国産品を支えていく。
現有の経済圏にさらに「高年化製品経済圏」を上乗せする「子ガメの上に親ガメ」といった趣きの経済活動が展開されることになる。地域の持ち場で可能な「高年化製品」の開発に成功した業種がふえることで地域の高年者の生活を多彩にし豊かにし、それによって内需を安定させ、将来は海外の高年者が求める良質で丈夫で長持ちする日本製の「高年化用品」を準備し、「加工貿易立国」としての信頼を引き継ぐ。
「人生の夢日本の夢」
「高年者優遇リストラ」
さらにこれがもっとも重要なことだが、世界中の高年者が一生に一度は訪れてみたい、「人生の夢日本の夢」を満たすような高年者優先の街並みや施設を、高年化先進国として全国各地に創出することができるかどうか。
推進役はいうまでもなく全国津々浦々の「丈人層」のみなさんである。みずからが暮らしやすい「社会の高年化」を構想し先行して築く。こういう「構造改革」が可能なのは、優れた能力と気力と倫理性をもつ「昭和丈人」のみなさんが広範に健在でいる時代だからである。日本高年者の持つこういう「世紀の役割」を感知できず、能力を発揮する環境を整えることなく渋滞させてしまったのは、だれか。高年者が「尊厳を保ちながら自立して参加し、自己実現を果たす場」の形成を怠ったのは、だれか。
日本企業の苦境脱出のために再逆転の思考「高年者優遇リストラ」(企業経営の若年者優遇から高年者優遇へ)が求められている。
グローバル化(アメリカ化・途上国化)に対応するため若手・女性・中年の主導によってなされた「逆転」の契機は、今度は「高年化」に対応する再逆転として、先人が残してくれたわが社の「高年化優良品」を契機として、高年社員主導ですすめられる。
企業にとっての多重標準は、製品の「若年化」「女性化」と「高年化」であり、「国際化」と「国産化」である。高年消費者にやさしい自社製品を通じて、「社是」にあるような社会的存在としての自負と自信を取り戻し、成員全員が力を尽くして内外の風圧に耐えうる「新・企業樹形」を形づくる。その過程そのものが「終身雇用」や「年功序列」という伝統の愛社意識による新たな表現であり、「日本型マネジメント」の真髄である。愛社意識を醸成しながら「再逆転」に立ち向かうには、なによりも「和の絆」によって培われた新製品の開発でのわが社の来歴に学ぶことだ。これで負けたらしかたがない日本企業の「伝家の宝刀」なのである。    
*・*造る者と使う者の出会い*・* 
「造る者と使う者の出会い」
中小企業の高年技術者の努力で、優れた「高年化国産品」が考案され、製造され、発売されたとしよう。それを必要としている高年者ユーザーもいる。だが、その手元に「高年化製品」情報として届かなければ、さらには購買意欲を動かすことができなければ、「高年化商品」として消費には結びつかないし、「高年化用品」として家庭に入らない。
逆にまたユーザーとしての要望があっても、商品の所在がわからず、メーカーの現場に届かず、製品化の検討がなされなければ、「高年化国産品」が生まれるチャンスを失う。
一方的に造る側によって使う側が支配されるスーパーやコンビニ商品では人生を楽しむ「家庭内の高年化」などできない。「造る者と使う者の出会い」による優良品の製造と流通。その実現はたやすくはないが、できないことではない。
まずはネットのウエブ・サイトの充実。しかし何といっても、造る側と使う側の高年者が直接に「モノ」に触れながらタテ・ヨコ・ナナメに情報を交換しあえる場としては、「商品展示場(会)」がその場を提供するであろう。二〇二〇年を待つまでもなく、それほど遠くない時期での開催が想定されるのは、年ごとの「高年化用品展示会」である。
「高年化社会」を支える丈人層のみなさんの年ごとの「モノと場の成果」を表現する場となり、高年者がワンサと会場へおしかけて、みずから利用するための専用日用品を求め、さらに次回のために斬新な企画や要望や議論がユーザー側とメーカー側の間で活発に展開される。いうまでもなく、ここでの高年者は、「人生の第三期」を物心ともに豊かに愉快に過ごそうという「丈人力の旺盛な高年者」のみなさんである。
「国際福祉機器展」
「高年化用品展示会」
すでに一〇月一日を「福祉用具の日」として、三〇回を越えて「老人と障害者の自立のための国際福祉機器展 HCR」(社会福祉協議会・保健福祉広報協会)が、着実な歩みを続けているのは心づよいことだ。ここでは健丈な高年者層が対象だから、内容も時期も先行の同展などを下支えする立場、たとえていえば二重丸の外丸といった性格の展示会になる。
「豊かなあすを拓く高年化優良品展」をテーマにかかげて、新製品を選りすぐって、「高年化用品展示会」といった形での開催が予見される。
おおいに想像をたくましくしてほしい。
この展示会は、「日本高年化社会」を体現して暮らす人びとの要望に応えるさまざまな新製品を展示するとともに、各ブースには参加者が新製品のための企画アイデアを持ち込んで製品化につなげる談論コーナーも設けられるだろう。高年世代が年々、共感をもって参加できる場となるとともに、将来の「高年化社会」の形質を先取りして表現していくことになる。
フェアの内容や規模や開催時期は、実務の人びとが、すでに開催しているものとの間合いを計りながら、収支予測などもふくめて綿密に進めていくことになるだろう。
ステージに立つ顔ぶれも見えてくる。高年者を購買層とする新商品を成功させた企業、住宅関連の企業、観光、カルチャー関連、ファッション、広告、健康・スポーツ、高齢者雇用といった業界・分野。さらに先進的な高年者活動を展開している自治体や商工会、高年者の活動組織。そしてマスコミ・関連官庁などがメンバーに連なるだろう。
将来の「高年化用品展示会」のシンボル的な存在となることを意識し意図して、柔軟な構想力と豊かな表現力をもつ各界代表と消費者代表が構成する「(仮)高年化用新製品懇談会」が公開討議を重ねて「高年者用品フェア」構想を練りあげる。クリエイティブで愉快な「シニア文化圏」のひとつとなる。
これが最良でありすべてといえるわけもないが、二〇二〇年を見透かして、みなさんの要望を想定し、実現が可能と思われる範囲で、いくつかのブースを設定してみよう。もちろん単独ブースでの開催でもいいのだが、ここは大振りに一六ブースを揃えてみた。「高年化社会」を支えるモノと場のありようを集約する展示ブースである。
 *・*「(仮)日本高年化用品展示会」の開催*・* 
「仮)日本高年化用品展示会」
本稿の各所で二〇二〇年への実現目標として提案している「高年化社会」への構想を、下支えする「モノと場」のありようを、展示ブースの形で集約したものが「(仮)日本高年化用品展示会=NIPPON  SINIA―SPECIAL―GOODS FAIR=NSSGフェア」である。
それにしても「高年化社会」として避けて通れない課題とはいえ、その体現者として期待する高年者層の姿が不確かな時期に、いささか大振りな構想に踏み込みすぎたかもしれない。二〇二〇年への近未来構想なのだから、大きいことはいいことだ。小振りにするならいつでもいくらでもできる。
そこでここはとびきり大振りに一六ブースを揃えてみた。 
1 「高年期五歳層の日」(五〇~五四歳の日や六〇~六四歳の日や七〇~七四歳の日など)
      同世代講演会、同世代コンサート、五歳層別スポーツ競技、五歳層別の健丈度
2 「高年化新用品」発表会
  ひとつ上のレベルのリニューアル用品、「超人生」用品、高年期起業、能力再開発
3 「三世代同等同居型住宅」と「四季型(通風)住宅」展示
  自然との共生、ファミリー・サイクルと住宅、関連設備、建築相談
4 「シニア・チェア」と高年化対応の室内用品の制作・展示即売
  「チェア」製作コンテスト、室内用「高年化対応「コア(核)用品」、専用家具
5  「高年化地域特産品」と「三世代四季型商店街」フエア
  「高年化地域特産品」の即売、地方の「三世代四季型商店街」フェア
6 生涯学習・高年期活動報告
  まちづくり報告、高年期活動報告、「地域シニア会議」 カルチャーセンター
7 「四季」の暮らし
  春・夏・秋・冬展、ボンサイ、生花、四季の花鉢、「四季花軸」・四季カレンダー
8 高年者街着ファッションショー
  地域の四季ファッション、和装街着ファッション、高年者向け衣装、小物、化粧品
9 高年者用装身具・日用品小物の展示・即売
  帽子、杖・ステッキ、メガネ、カバン、時計、シューズ、筆記具
10 なつかしの名器・名機・古書・骨董の展示・即売
   カメラ、古時計、SP機器、レコード、オルゴール、模型、陶磁器、古書
11 観光・観賞旅行案内
   熟年ツアー、世界遺産の旅、「還暦富士登山」、「古希泰山登頂」ツアー
12 「シニア文化圏」のつどい
   講演、演奏や工芸家の実演、句会、「高年大学校」「シニア大学院」
13 高年者向けメディア
   高年者向け情報誌、高年者向け放送番組、保存版図書、シニア・ネットの会
14 「健康と食品」の実演・販売
   旬料理と食材、薬膳料理・茶の実演、包丁・道具類、健康食品、予防医学機器
15 高年者用キャリッジ
   高年者用仕様車、電動付車両
16 高年者の健康スポーツ
    健康スポーツ、碁・将棋・麻雀
  各ブースの参加コーナーでは、高年化用品の新企画、高年化用品の人気投票、健丈度診断などなど::。
「(仮)国際高年化用品展示会」
「(仮)地方高年化用品展示会」
さて、人気投票によるベスト・スリー「高年者三種の神器」はどんなものだろう。
「高年期五歳層の日」は華やかで知的に、同世代であることをたたえ合う場に。
「チェア製作コンテスト」は、世界から優れた技術者を招いて。
「和風街着ファッションショー」は、各地の衣装製作者と高年者の晴れ舞台に。
以上の三つのイベントをフェア盛り上げの核にして、一年間の成果を示す展示会とする。仲間の一年間の成果をたたえあう場面がみられるだろう。演出は優れた高年演出家にゆだねよう。
メーカーとユーザー双方の交流の場として、高年者の暮らしの「モノと場」の現在を示すことになる。右のような「(仮)日本高年化用品展示会」の開催を成功させることができればさらには海外のシニア世代に呼びかけて「(仮)国際高年化用品展示会(WSSG・フェア)」を日本の大都市を開催地として行う。年に一度の日本訪問を、世界中のシニア世代の人びとが「人生の夢」としてやってくるような。そして何より本稿が期待しているのは、県都レベルでの「(仮)地方高年化用品展示会(LSSGフェア)」の展開である。地域特性をたくみに取り込んで演出した「高年化地域特産品」の展示会は、全国各地の「モノと場の高年化」の熱意と豊かさの表現となるからである。

現代シニア用語事典 #5新スグレモノと企業内高年化

 #5新スグレモノと企業内高年化
#日本型企業の基本樹形を作り直す
*・*九割が「中流」と感じる社会が消えた*・* 
「維新期の天保人」
「大戦後の大正人」
「新世紀の昭和丈人」
どこで論じてもいいのだが、企業に関するこのあたりで触れておきたいことがある。
歴史上のできごとは、学者にとっては蓋然だが、主体者にとっては必然である。学者は結果を机上でこうなったと記録し、主体者は現場でこうやったと述懐する。学者は将来を演壇でこうなると語り、主体者は現場でこうすると決断する。学者は主観性を排除し、主体者は客観性を懐疑する。
どちらもおよそ正しく、どちらも幾分かの過ちを冒す。
空から舞い降りて鷲づかみにしたような歴史の経緯であるが、近代にわが国が遭遇した外圧を契機とする三つの改革期の主体者は、一九世紀の明治初期は主に「維新期の天保人」が担い、二〇世紀中葉の戦禍からの復興は主に「大戦後の大正人」が担った。そして二一世紀初頭の経済グローバル化のもとでの「日本高年化社会」は昭和生まれの高年者、つまり「新世紀の昭和丈人」層が主体者となって担うと本稿は断ずる。
「維新期の天保人」の活躍ぶりは別の機会に残しておくとして。
一九四五年の夏、敗戦の焦土に立ちつくした「大正人」は、二○~三三歳だった。「大戦後大正人」の活躍の姿を記憶している人は多いだろう。南方の島々や北方の大陸の戦場から帰らなかった友を思い、遺族の悲嘆と苦しい生活を傍らに見ながら、友のぶんまでも働きずめに働いた勤勉で実直な人びとも、いま鎮まろうとしている。元ちとせが「ワダツミの木」で、うすい透明な風のような声で、「星もない暗闇でさまよう二人がうたう歌、波よもし、聞こえるなら、少し今声をひそめて」と、歌うのを聞いたとき、重ねて南方の『きけ わだつみのこえ』を思い、いまはもう声にこそ出さないものの、合わせて北方の「異国の丘」がつい胸の中に溢れてしまった人びと。記憶のなかの敗戦後のせつない青春期の暮らしと重ねて、
「きょうも暮れゆく異国の丘に、友よつらかろせつなかろ」
と、「鎮魂歌」としての「異国の丘」を口ずさみながら、ひとりで、ふたり三人のしごとを仕遂げようとしてきた人びと。それは生き残った者同士の無言の契約でもあった。それを成し遂げた人的パワーが、総体として二○世紀後半の奇跡といわれた日本経済の復興を支え、いまある資産を蓄積してきたのである。
若き「大正人」を中核に据えて、国土の再建、経済の復興は始まったのだった。
だれもがスイトンとサツマイモ(甘みも色も太さもいろいろ)で飢えをしのぎ、「タケノコ生活」(タケノコの皮をはぐように衣類を売って生活した)に耐えつづけ、身にまつわりついていた「封建的」なものいっさいを削ぎ落とし、「世界平和」と「社会平等」と「男女同権」をみずから実践する人びとに主導されて、国民大衆は貧しさも豊かさもともに等しく分け合う風潮をはぐくんできた。
「加工貿易立国」
「MADE IN JAPAN」
物質的にはしゃにむに近代化(多くは戦勝国アメリカ化)をすすめざるをえなかった日本は、外国から素材を買い良質な製品を作って売る「加工貿易立国」として第二の開国を行い、国土の再建をめざしてきた。鉄のカーテンのむこうの「社会主義」にも強い関心をはらいながら。
「日本は、社会主義的・平等主義的・自由経済の国だ」と外国人に向かって紹介したのは、「大正人」のひとり、ソニーの盛田昭夫さん(当時はソニー会長、経団連副会長)だった。盛田さんは、外国人に日本の「国のかたち」を問われると、自信をもってそう説明していたという。日本経済の頂上期に、盛田さんが書いた『MADE IN JAPAN』は、そのあたりのことをこう記している。
「国内のマーケット・シェアをかけた激しい競争を通し、海外での競争力を養うのだ。エレクトロニクス、自動車、カメラ、家庭用電気製品、半導体、精密機械などが、その代表的なものである」
日本製品の多くは高級品ではなかった。「良質な中級品」、つまり一般の人びとがもっとも必要とする良質なものを作ることに活路を見いだしてきたのだった。良質というのは、「使いやすく、丈夫で、長持ちする」という意味でいわれた。前記の商品は国内でよく売れれば、それは外国とくにアメリカで評判がよく、「MADE IN JAPAN」のトランジスタラジオ、カメラ、テレビ、小型車など良質な中級品は、実用品として認められてきたのである。それがまた日本人みずからの生活を平均的に充足し、中産化することにもなった。良質な技術者が「良質の中級品」をつくり提供することがわが国の立国の基盤であることは「銘心刻骨」しておかなければならないことである。  
「中流と感じる社会」
社会主義的・平等主義的・自由経済の国
一億人を超える国の国民の九割までが「中流と感じる社会」の実現は類がないだろう。ソニー会長であった盛田昭夫さんが国際的基準の中で誇らしげに主張したように、「社会主義的・平等主義的・自由経済の国」として、世界の開発途上国から目標とされるスバラシイ先進国として立ち現れたのである。高年者は、その経緯と成果をリアルタイムで体感してきた経験をもっているのである。
いまも「シニア海外ボランティア」の高年者が開発途上国の現場で、また日本企業の現地駐在の高年社員が現地の人びとから、心からの信頼をかち得ているのは、生産者としてユーザーが満足する品質(モノ)にこだわる背後に息づく品格(ヒト)が、おのずから伝わるからだ。
「みんなが中流」という意識に亀裂をもたらすことになる日本経済の「萎縮」(デフレーション)がはじまったとされる九〇年代初めのころを、体感的に思い起こしてみよう。
「サンパク(三八九)以後」
「内在する萎縮」
晴れやかだった記憶として思い起こせば、東京株式市場の「大納会」で「東証一部の株価」が三万八九一五円というピーク値を記録したのは一九八九年一二月二九日のことだった。「三八九=サンパク=三白」というのは正月三ガ日に降る祝い雪をいうが、九〇年正月の東京の空高く株価が舞って「サンパク(三八九)以後」(三八九一五)はひたすら右片下がり。
それに先立つ一九八九年一月七日に、一○○日を超える闘病をつづけた「昭和天皇」が八七歳の高齢で亡くなったのだった。六月二四日には、「東京キッド」や「私は街の子」以来、戦後の日本を体現していた歌手の美空ひばりさんが、最後に「川の流れのように」を歌って五二歳で亡くなっている。
「やれやれ、これで戦後が終わったのだ」とつぶやいた人びと。「昭和」が終焉し、「平成」とともに始まった日本経済の下降。「明治・大正生まれ」や年長の「昭和生まれ」の人びとのなかには、みずからの戦後を顧みての終息感と、その後の「経済の萎縮」とを体感として重ねて理解した人が大勢いたのだった。
世紀をまたいだせいか、ずいぶん遠い記憶のように思える。戦乱で亡くなった人びとへの鎮魂の思いは胸中から消えずとも、自分の肩にかかる荷だけは静かに降ろし、長かった緊張を解いたのだった。将来に新しい目標も見当たらなかったし。
「われにかえった」一人ひとりに「内在する萎縮」は、ゆっくりとした静かな変容であり、外から気づかれることはなかった。しかし戦争を知り貧しさを知るというきびしい経歴をもつ自分たちの後を、戦争も知らず貧しさも知らない若い連中が引き継ぐことなどできないだろうという自負と憂慮をない交ぜにした感慨は、仲間同士の会話のうちに繰り返された。
 「日本経済の萎縮」
それがすべてではないにしても、企業現場からの自分たちの隠退(労働力の消滅)が、総体として「日本経済の萎縮」をもたらす要因となるだろうとは予測しえても、まさかこれほど早くに高年者となった自分たちの医療費の負担増や年金の減額や、あろうことか若年層から不公平との反発まで浴びようとは、思いもよらなかったことであろう。与因と結果との間で、人間がどれほどの力を出しうるか、出したかは経済指標では計れない。したがって歴史や社会や人間存在への想像力が働かない経済学者には実態はわからない。
ここでは戦争の惨禍を知っている人びとの企業現場からの引退による人的パワーの萎縮が、高度成長を支えた「終身雇用」慣行によるインセンティブ(誘因)をも萎縮させつづけたことに注意しておかねばならない。八〇年代には「日本型マネジメントは世界一」(ジャパン・アズ・ナンバー・ワン)とみていた海外投資家に、二〇年後には日本企業の利益率が低いのは「終身雇用のせい」といわれるようになる。原因は終身雇用のせいではなく、企業内の人的パワーが衰えたせいなのだ。いまでも七八%の日本の労働者は終身雇用制を支持しているのだから。
「成熟した日本社会」
成長期にある中国などアジアの途上国の成長を支える人的パワーは、進出企業の技術指導にあたる高年社員、かつて「ワーカホリック」(仕事中毒)といわれながら働いた「企業戦士」をも驚かせる。ひるがえって本国の本社での士気の鎮静化が何の影響も残さずに終わるとは思えない。過去と現在を知る者の立場で、「実体経済の萎縮」に体感として納得がいくからである。
歴史は「もしも」によって歴史になる。もしも、新世紀にはいったところで、わが国の高年者の能力や士気が停滞することなく、新世紀の潮流である「高年化社会」を展望し、それを支える「モノと場の創出」へと流動し、「企業の高年化」を成し遂げ、「成熟した日本社会」の形成へと展開していたならば、つまり「終身雇用制」が「高年化社会」形成へのインセンティブとして働いていたならば、社会主義圏の崩壊やアジア経済圏の変動の中にあっても、みんなが「中流と感じる社会」をこれほど急転直下に見失うことはなかっただろう。
 *・*新・日本型マネジメントの展開*・* 
「終身の雇用」
「年功の序列」
「終身雇用制と呼ばれてきましたが、実際には六〇歳定年制が一般的だったですね」といわれれば、その通りである。
たしかに「終身の雇用」といっても雇用は終身ではなかったものの、長期(無期)であり、社員としての意識の中に「同じ釜のメシを食う」仲間として、先輩から後輩へとわが社流儀を伝えながら支えあう信頼と平等の絆の表現として引き継がれ、定年後も終身のつきあいを建て前とする「愛社意識」として保たれてきた穏和な伝統なのである。入社したての新しい能力を秘めた若手社員は先輩社員を敬愛し、中堅社員は会社や製品を育ててくれた引退社友を敬愛する。それが率直に表わされることが「終身の雇用」の安心感となり、「年功の序列」の長期モチベーションとなり、「和の絆」の信頼感となり、最良の製品を提供することになる日本型企業の基本樹形である。
と、社内でいおうものなら、「同じ釜のメシ?」「終身雇用?」「年功序列?」「和の絆?」「愛社意識?」、まるで「時代知らずのオオバカ!」といわんばかり。八〇年代までは世界の関心を呼んだ日本型企業が九〇年代以降に国際競争力で耐えられなくなり成長力を失う一方で、「温情主義」を排して合理化を進めた企業が業界トップとなり、弱体化した企業がアメリカ企業の傘下に組み込まれて生き残る。そして「華の元禄」にもまがう繁栄を謳歌した日本型大手企業は、業績悪化から立ち直れない状況が長く続いた。
その間に、業績を回復できない理由は、それまで日本型企業の特徴であり優越性といわれた「終身雇用」や「年功序列」や「企業別組合」がその元凶だと指摘され、納得させられてしまった今、日本型企業の優越性を声高にいって通じる状況にはない。
 「日本型マネジメント」
「終身雇用慣行重視」が、一九九三年に減少に転じ、「どちらともいえない」が増え、九六年には「慣行にこだわらず」が大企業でも多くなり、その趨勢は止まらない。本稿は、沈黙してしまった企業人にかわって、あえて火中の栗を拾うことにしたい。
「ものづくり」が主体の企業にとって、成員同士が信頼しあい生産技術を共有し、将来にわたって安心して働けるということ、つまり「終身雇用」や「年功序列」といった日本型企業の基本樹形をつくっている「日本型マネジメント」のどこがいけないというのか。
業績がいいトヨタやキャノンだから支えられたのではなく、いずれの企業もが根・幹として守ることのできるはずの慣行なのである。「終身雇用は高コスト」と短絡して評するのは、本質が見えない自己保身の社員の身勝手な判断なのだ。いまある企業は、いまの社員のためではあっても、いまある社員のものではない。先人が敗戦の焼け野原の下に温存されていた根っこから、「生き残る」ために敗戦後の状況に必死で適応させ、試行錯誤を繰り返しながら樹形を整え、枝葉を茂らせてきたものである。苦難の中で模索し、選択してきたのが、「終身の雇用」であり「年功の序列」と呼ばれる企業慣行であった。
それも経緯が穏やかであったわけではない。企業の存続をゆるがすような社内争議を、「インタナショナル」を歌って社屋を包囲する労働者側と経営者側との間で何度も繰り返したすえに形成されてきたものである。だからそれを知らない若い社員が思うほどに、国際的にもやわな企業樹形ではない。先人が苦闘のすえに育てあげてきた基本樹形である現有システム「日本型マネジメント」を、まるごと伐採してしまう愚挙だけは避けなければならない。
といって固定的に捉えることではなく、ここ一〇年余り、「グローバル化・途上国化」に若年層を中心に対応しながら耐えてきて、いま顕在化して迎えている「高年化」の進捗にも対応して「新・企業樹形」の構築に取り組まなければならないのである。それが先人がたどってきた苦難から、新たな「日本型マネジメント」を作り直すプロセスなのではないか。 
「アメリカ型マネジメント」
「成果主義」
五〇年来の慣行である「終身の雇用」と「年功の序列」という穏和な仕組みを、「グローバル化」のもとでの「高年化社会」の形成を契機として企業現場で変容させること。それが可能な企業形態につくり直すことへの挑戦であり、そこから生まれる新たな生産活動の態様とそれに見合う社会改革である。「社会の高年化」に対応する「企業の高年化」であり、担うのは高年者自身の他にいない。
先の大戦後期にも似た現下の外圧(グローバル化)によって日本社会が急速に変貌している。「日本型企業」の経営がきびしい時に、その内側からの保護対策のためにこそアメリカ型の企業経営に学んだ人びとの見識や分析や予測能力が求められているのである。
だが、実情は外圧の柱である「アメリカ型マネジメント」の「成果主義」を企業再生のマスターキーとする方向へと傾いている日本企業の経営者にむかって、発想の核を海外に持つ若手学者やベンチャー企業家からは、なめらかな外国語で「日本型システム」全否定の矢が放たれているのだ。いまや業界を覆う主流の考え方になっているから、日本型の企業風土について語ることすら企業現場ではままならない。本稿がいま時代の強い風圧に抗して、「昭和丈人層」の代表でもある経営トップに「経営の多重標準」を訴えかける理由は、なんとか日本型企業の基本樹形を活かして、「グローバル化」のもとでの「高年化社会」を支える企業改革の先駆けとなってほしいからだ。
それなのに即座に、「そんな小春日和の縁側談義に付き合ってはいられない。引退シニアとやってくれ」という声が跳ね返る。小春日和どころかハリケーンやトルネードに鍛えられた「アメリカ型マネジメント」の旋風が吹き荒れている時に、日本型企業の樹形がどうのこうのなんていっていられない、というのである。
どうやら本稿は、帰りたくとも帰れないイバラの道に踏み込むところにきてしまったようである。現場での企業内改革を呼びかけた「昭和丈人層」のみなさんへの手前もある。先に進むより仕方がない。降るほどに罵声や嘲笑を浴びても退くことはしない。
「日本型企業風土」
「新・日本型マネジメント」
まずは相手を知ることだろう。ここで着目すべきことは、アメリカが若年・中年社会であり、高年化を迎えている他の先進諸国とは企業風土が違うということだ。大統領候補討論でも「高年化」問題は白熱していないし、変化のきざしはない。
若年・中年社会であるアメリカと違って、「経済のグローバル化」とともに「社会の高年化」を迎えている日本社会の変容に、どう企業システムを対応させていくかに苦慮しなければならない時に、「日本型企業」の全否定にむかう意見が先行するのは困ったことだが仕方がない。
「新商品開発の遅さ、人事異動の不活性、非採算性など、みな日本企業のもつ特殊性です」といってのけ、労働にインセンティブを期待する「個人主義」、社内競争による「成果主義」といった手法を導入する。
したがって給与も能力優先の「職務給」にシフトして、終身・年功型給与の基本である「年齢給」や「勤続給」を縮小まではともかく、廃止するという本稿の立場からすれば、幹に傷をつけるような愚かな変革にも着手してしまう。わが国の企業風土では、個人に還元するアメリカ型の成果主義はインセンティブとしてさしたる効果を生まないだろう。
日本企業の経営者が、「終身雇用」と「年功序列」が景気変動への対応や雇用調整でのデメリットとしてではなく、つまり先進国で加速する「社会の高年化」を支える「モノの高年化」を指向して、良質の「高年化製品」開発のためのリストラ(高年技術者の社内温存)を成功させ、わが国固有のインセンティブとして捉えること、それがグローバルな視点での日本企業の役割だというところに、思考の根っこが届かない。
そのためには、外国からはうらやましがられていいほどに好都合な「終身の雇用」と「年功の序列」という在来の企業風土と仕組みがあり、世界レベルの経験も知識も気力もある「昭和丈人層」という良質の高年社員・社友がいるという優越性に気づこうとしない。日本社会の高年化を礎のところで支えていくのは「日本型企業風土」に根ざした「日本型企業」である。いま輝いているグローバル化企業というのは、外圧に対応する緊急処置としての業態であり、やがて多くは「新・日本型マネジメント」の基本樹形に回帰する「宿り木業態」なのである。
 *・*「窓際パラレル・キャリア族」の模索*・*
「経営者不信」
「モラル・ハザード」
将来構想に秀でているというよりも、目前の業績悪化に歯止めをかけられる人物として推されて座についた経営トップは、まず何を手がけたか。
社内では一円を争うような細かな経費節約をなりふりかまわず徹底した。社業として歴史があっても赤字事業ならやめて「ダウンサイジング」(適正規模まで縮小化)をし、目前で利益が見込める製品にシフトして売り上げ増を督促した。そして人件費圧力に対しては、アルバイトや派遣社員で対応し、返す刀でともに企業の発展を支えた仲間の「人的リストラ」(おもに高年社員が対象)をやってのけた。
どこからも拍手は沸かない。
「グローバル化」時代に生き残るためには、まずは速やかに、そうするより他に手立てはないと信じて強行した。部局単位の採算性を採り入れ、IT化・女性アルバイト化をはかり、遅速はあっても製品の「若年化・女性化」を推し進めた。市場は多様化したが、企業サイドでは困難が増しただけ。その背後で「企業戦士」であった高年社員の作業意欲は確実に萎え、リタイアした先輩には想像ができないほどに「経営者不信」と「モラル・ハザード」(社員倫理の崩壊)を社内に広げることになった。これが一般的で、そうでないところはむしろ特別といっていいほどなのである。
「会社への忠誠心」
「年間労働時間」
若年層を集めて五〇歳代はゼロという企業が元気なのは当たり前。一方で、五〇歳代が三〇%以上という多くの企業では、勤続年数一〇年~二〇年という中堅社員の間で、先が見えなくなった「会社への忠誠心」が急速に衰えて、英米仏独に比べても低いという状況に陥っている。
かつては日本がトップだった「年間労働時間」(ILO調べ)もむかし語りのこと。すでに世紀末の二〇〇〇年にはトップが韓国、アメリカが三位で、日本は六位となり、「アメリカ人が働きバチだった日本人を上回ったんだってね」といわれたのだったが、いまやニュースですらなく納得される状況を迎えている。残業を含めて「時短」のために長いあいだ闘ってきた労働者側の権利獲得へのエネルギーは、内側からしぼんでいく。
「忠誠心はいらない、能力優先と成果主義でいく」として、とまどう暇もなく経営者側がとった「グローバル化」対応の対策は、製品と人員配置の「若年化・女性化・IT化」だったから、若手社員や女性の活力・能力発揮つまりインセンティブとなり、業種によっては効果をあげていることは確かである。しかし、転換(ゆりもどし)が選択されざるをえない局面が近づいているのもまた確かである。このまま推移していけば、企業が組織体として生き残れなくなることに経営トップが気づいているからだ。それは「少子・高齢化」対応への「高年社員」の潜在的な能力発揮へのインセンティブとなるべきものとしてである。
 「パラレル・キャリア指向」
「日本高年化社会」を構築するプロセスは、先進他国から学んで後追いするのではなく、みずからの内的条件によって自力で創出すべきものである。ここは「日本での解決がモデルとなる」という推測を残してくれたアメリカ丈人の故P・F・ドラッカー教授の洞察を脇にして考察したい。教授によれば、マネジメントされる存在だった働く者(知的労働者)が、みずからをマネジメントすることによって現出する新しい社会、日本でのその解決が他の国のモデルとなるという。「終身雇用制によって実現してきた社会的な安定、コミュニティ、調和を維持しつつ、かつ、知識労働者に必要な移動の自由を実現すること」と洞察していた教授は結果を見ずに〇五年に亡くなったが、その示唆は生きつづけている。
日本の知識労働者の模索は、その方向に着実に動いている。それは「本格的に踏み切る前からの助走」の時期、つまり五〇歳代の人びとが心躍る人生を見出すための「パラレル・キャリア指向」として確認することができる。「パラレル・キャリア指向」を重ねる五〇歳代の高年社員の先方に現れるものは何か。これが日本型企業の将来を左右することになる社会構造の「高年化」に見合う社内の「ミドル化」と「シニア化」という多重標準による企業改革なのである。
「社内ミドル化部門」
「社内シニア化部門」
「途上国のリーダー」として若年・中年社員が働きやすいように、これまでのリストラ体制をいっそう推し進めた「社内ミドル化部門」と、高年者がみずからの生活を豊かにする自社製品を考案する「社内シニア化部門」という多重化への模索と変容。後者の中心になるのが、足踏みして待機していた熟練高年社員である。かくして「社会の高年化」に対応する「企業の高年化」によって、日本型企業の「新・企業樹形」への変容がはじまる。将来の新入社員が安心してふたつづきの職場を選べる「新・終身雇用」の導入でもある。OJT(仕事を通じての業務能力の習得)にも心構えからして違ったものになるだろう。
日本型企業は、グローバル化対応の「ミドル化」を優先して推進したが、同時進行で社会の高年化対応の「シニア化」を、従業員のパラレル・キャリア指向として許容し支援することをしなかった。将来の高年化社会を見据えて、その体現者となるはずの経験も知識も意欲もある高年社員を、「窓際社員」として温存してきたという言い訳は許されない。将来を見抜けずに、温存することなく排除してきたのではなかったか。
ここ一〇年ばかりの潮流は、この項でも繰り返すが、アメリカ一極下で開発途上国の若年・中年層を巻き込んだ「経済のグローバル化」であったから、わが国の企業は前面にIT青年や若い女性層を起用して対応し、とくに若手の非正規社員を起用することで急場をしのいできた。その背後で高年者の「窓際化」が進んだことは実見してのとおりである。底流して目前に迫ってくる「高年化社会」の形成に立ち会うことになる高年者自身が、機を察知して職域での「パラレル・キャリア」指向を強め、逆風にあがらって新たな「職域の高年化」構築に乗り出すしごとは、高年期の人生に意欲的な個人に任されてきたのである。
「社会の高年化」の進展と重ね合わせて、高年社員が中心になって実現するのが「企業の高年化」であり「製品の高年化」である。そうして初めて、「高年化社会」を支える企業としての手応えを確かなものにできるからである。この先進国共有の課題を解決するマスターキーは、メーカー主導で成功しているアメリカ型企業家にあるのではなく、ユーザーでありメーカーである日本型企業の高年社員が持っているはずである。
 #「攻めのリストラ」による企業再生
*・*わが社が誇る「高年化製品」*・* 
「わが社製品の高年化」
「窓際パラレル・キャリア族」
Bさんは「団塊シニア」のひとり。赤字事業部門の廃止に抵抗した部署の責任者として「左遷」を受け入れて事務系の閑職にいる。四○歳代の後輩からは「純正窓際族」として敬意を受けつつ気の毒がられているのを知っている。「あと数年だから」と定年(六〇歳から六二歳に)を待つ「定年待望族」としていたくないと考えているし、何かをやれる時がくると思っている。ところが胸の奥にさまざまなしごとの記憶とともに居座っていたはずの「愛社意識」を押しのけて、「モラル・ハザード」の波がとめどなくやってくるのを感じている。
胸の内のそれが許せない。かつての同僚の無視する視線や若手社員のひとことやアルバイト女性の音高な靴音や起こるささいないらだちが職場に溜まる。胸の奥にわだかまる「萎え」への誘惑は自分で断たなければならない。職場での集中力が落ち、しごとへの意欲もまた萎えていく不安を感じる。これまでなかった自宅と職場での感覚のズレが「モラル・ハザード」として意識される。
会社人間としての緊張が薄れるにつれて、新しいしごとをはじめる「起業」はどこにいてもチャンスがあるのだとBさんは気づいた。ヤンキースだけがチームではない。要は自分が何ができるかである。そこで自社所有の地図原版を生かして自分と同年輩の人びとの暮らしに役立つような「高年者向け地図」という「わが社製品の高年化」の企画を試みる。社内の逆流の中で提案しても「ゴミバコ騒がせ」にしかならないから企画案として出すつもりはないがおもしろい。とりあえずは勤め人として保持してきたモラルをなだめすかし、職場での気力の萎えに歯止めをかける。「窓際パラレル・キャリア族」としての意識は前向きに働いている。
「穏和にすすむ社内改革」
「再逆転の思考」
社内の時流からははずれた位置(窓際)にいながら、高年期をリタイアではない「もうひとつの心躍る人生」として過ごすためにどうしたらいいのか。職域に留まるのか異業種に移ってキャリアを活かすかの模索がつづく。折りしも会社は兼業緩和の措置を打ち出している。「窓際パラレル・キャリア族」として高年社員は「人生の第三期」の活動の場となるふたつの道に通じる踊り場にいて足踏みをしている。前項のBさんも「自分からは動けない。待つよりしかたがない」とはいうが働く意欲は萎えてはいない。
経験と知識をキャリアとして大切にしてきた高年社員が、自分になにができるかを確認して、ひとたび「わが社」から出て高年期の「わが人生」を考える。可能であれば、リスクを冒しても社外に活躍の場を求める覚悟で準備することが、「高年化社会」が必要とする新たな「モノづくり」の能力と意欲を蓄積していることになる。窓際族といわれながら、真摯にふたつの人生を考える。高年社員の内面の葛藤と模索が、「穏和にすすむ社内改革」である。
年功序列が有効にはたらいていた日本企業に横なぐりの颶風が吹きつのった。若手社員の優遇、派遣社員、アルバイトの採用という逆転の思考によって「生き残り」をはかったが、日本型企業の生き残りのためには「企業の高年化」という高年社員優遇への「再逆転の思考」を働かせなければならない。その動静を見逃がしていて企業の再生も活性化もありえない。再生への契機は、将来構想に秀でた経営トップの決断をを待たねばならない。
 *・*社内ミドル化と社内シニア化*・*
「グローバル化企業」
「熟練技術者の引退」
Yさんのような優れた技術力を持ったまま退職した人なら、みずからを顧みればおわかりいただけることだが、自分が「高年化社会」の基礎となる「企業の高年化」や「製品の高年化」を果たせずに引退しておいて、他の業界からの「高年化製品」を待っても得られるわけがない。業界でもっとも製品企画や製造技術や販売戦略に精通していた高年社員として、「わが社の高年化製品」の開発を果たすチャンスを逸してきたのだから。退職したYさんも急に責められても返答に窮するだろうが。
企業側が生き残りをかけて「グローバル化企業」(「若年化」「女性化」「IT化」など)に変容し、派遣社員、アルバイトを導入して対応してきた。そのためにこれまで幹とも頼んできた高年社員を疎外しているような時期に、一方で「高年化社会」にみあう「製品の高年化」や「企業の高年化」をまともに考えることなどできるわけがない。
しかし企業現場で、高年社員の立場で「製品の高年化」を考えることはできる。その成功が「企業内の高年化」をもたらすことになる。Yさんも「わが社製品の高年化」に応ずるシステムを整えるどころか、愛する企業の変容と生き残りにつとめる後人に期待して席をゆずり、蓄積してきた技術と経験をみずから惜しいとは思いながら退職したのだった。グローバル化をすすめる企業側も後輩に惜しまれながら去る「熟練技術者の引退」を当然としてきたのである。  
「コア・コンピタンス」
「泉眼型中小企業」 
なお進行する国際化(若年化・女性化・IT化)に対応して変容するグローバル化企業が、同時に進行している国内の「高年化」にも対応して、つまり多重の課題としての「企業の高年化」までなしとげて、国内の高年者の暮らしのコア(核)となるような「高年化製品」の開発に乗りだせるだろうか。これまでも新製品化と同業他社との競合に成功し、社業の守成と創成にも苦闘してきた歴史をもち、時代の要請に応じて小回りがきく企業、とくに独自の開発力によって自社のブランド商品を展開してきた「コア・コンピタンス」(製品開発の核になる独自の能力)をもつ中小企業に期待がかかる。大地からこんこんと湧き出す泉のような独自の発想力・製作力をもつ企業、つまり「泉眼型中小企業」と推察される。
小回りがきいてコア・コンピタンスをもつ国内型企業といっても、横並びの経営に慣らされてきた業界で、「グローバル化」に生き残りを賭ける風潮のなかで高年化対応の事業に乗り出す「再逆転の発想と決断」が可能かどうか。「次期のトップ」になるべく育てられた後継者では覚束ない。自ら律して中心に立ち、時代の趨勢に抗して社運をかけるような「一擲乾坤」型の覚悟が決められる「二世の星」も、多くはないがいるはずだ。
自社のブランド製品に関わってきた高年社員を結集した「社内シニア化」部門を立ち上げ、「日本型企業」の根っこから生まれた愛社意識を結集して企業再構築をおこなう。現有部門とともにそれぞれの新製品開発システムを整ええた企業が先導していくことになる。
これは国が中小企業に呼びかけている「七〇歳まで働ける企業の推進」だけでは足りない。高年者として造る者と使う者が息づいている職場とならないからだ。本稿の視野には収まらないだけで、すでに「わが社が誇る高年化製品」の事業に踏み出した泉眼型中小企業が各地にあって当然の先駆的改革なのである。 
「新・終身の雇用」
「新・年功の序列」
社内の「ミドル化部門と「シニア化部門」の立ち上げは、日本的企業風土での「新・終身の雇用」と「新・年功の序列」の導入といえよう。
世の趨勢はなお逆である。国の政策も消極的である。ますは企業に高齢者を確保することを求めた。ゴムひもを引き伸ばすようにして六〇歳から〇六年には六二歳へそして二〇一三年までに六五歳へと雇用年齢を延長(高年齢者雇用安定法)して公的年金の取得年齢である六五歳までをつなぐという政策の整合性をめざした。民間による高齢者福祉支援の要請である。企業は雇用確保措置を義務づけられ、毎年、実施状況を国に報告することとなった(改正高年齢者雇用安定法)。しかしそれで肝心の高年社員の力が引き出せるのか。
定年の引き上げ、継続雇用の導入による雇用確保は、どれも高年齢雇用者にとって有利にみえる。しかし実態をみればわかるように希望者全員を継続雇用する(できる)企業は約半分にとどまっているし、給与減もはなはだしい。何のためにという内発性に乏しい義務づけだからである。本稿が希求してやまない「企業の多重標準」をもつ業態である「新・日本型マネジメント」とは遠い、責任不在の施策だからである。
対応は職種や企業の経歴によってまちまちであろうが、おおよその手立てとしては、現有の事業はそのままにして、経営・労働側の双方の検討によるミドル世代とシニア世代それぞれの成員の中からメンバーを選りすぐり、みずからが主宰する「社内ミドル化会議」と「社内シニア化会議」という二重焦点をもつ企業現場を立ち上げる。これが「少子・高齢化」時代に対応する社内改革の第一歩であり、製品開発の両輪になる機構となる。それはまた新たな愛社意識の醸成による穏和な「新・終身雇用」と「新・年功序列」の導入となる。 
*・*「新・日本型企業」への期待*・* 
「指示待ち若手社員」
「起業家」(アントレプレナー) 
企業内での「社内ミドル化部門」と「社内シニア化部門」の立ち上げが、すべての企業で可能なわけではない。旧来型の素材として入社し、先輩に育てられて社業を知り、「指示待ち若手社員」を多くかかえた大企業は、むしろ動きづらいのではないか。先行するのは、大企業の傘下には収まらず、昭和時代に主力商品を中心に会社の幹を太くし、関連商品で枝葉を茂らせてきた内需型の、本稿が「泉眼型中小企業」と呼んで期待している伝統産業のうちからであろう。会社の成長の経緯を知る高年社員がなお内外に健在でいるような企業からと推測される。
そういう企業での「社内ミドル化部門」と「社内シニア化部門」の立ち上げをみてみよう。
若手・中堅社員は、先輩がこしらえてきた会社が根であり幹であることを敬意をもって理解している。そこから滋養をえて新しい枝を伸ばし実をならそうと努める「ミドル化部門」だと位置づけていることだ。「グローバル化」に対応する若手社員は、みずからの生活者意識を働かせた「起業家」(アントレプレナー)を意識して参加する。これがいま「成果主義」に学ぶことである。国際化に勝ち抜く新製品の企画、製品化による成果主義はどしどし採用される。しかしながらその成果は、先輩から後輩へのわが社流儀の受け渡しの絆である「愛社の意識」や「年功の序列」をつき崩すことには向かわない。企業の成長は枝葉だけが伸びるのではなく、根も幹も年ごとに太くせねばならないからだ。
若手社員主体のオープンな議論やスピーディーな決断を可能にするために、「ミドル化部門」としての機構改革や人事の異動をおこなって最良の布陣を構成する。その一方で、高年社員による「シニア化部門」では、国内指向の「高年化製品」の検討がすすめられる。これが「企業内の多重標準」として機能する。 
「攻めのリストラ」
「社内シニア化会議」
ここから「高年化社会」に対応する企業リストラの本題である「社内シニア化部門」の立ち上げを論ずることにしよう。人生の熟成をどこまでも追い求める「丈人モデル」型の高年世代が中核となった「社内シニア化部門」が、製品のリニューアルや新たな「高年化製品」の考案・開発に従事する。これまでの主要事業だが現状では赤字回復が見込めないという理由で廃止してしまった製品でも、「高年化製品」として優れた特徴をもつものなら蘇らせることもある。

供給者であるとともに需要者である強い生活意欲をもった高年社員が「攻めのリストラ」に力を発揮することになる。「シニア化部門」のスタッフとして、人生の踊り場で模索をしていた別項のBさんのような人も表舞台に登場する。管理者としてのキャリアではなく、経験と企画力と想像力の豊かな成員を動員して「社内シニア化部門」を構成し、生活者として発想した「わが社の高年化製品」を開発するために、それにふさわしい総合力を発揮することになる。

「社内シニア化会議」は、現有製品のひとつ上のレベルのリニューアル製品や高年者の暮らしを支えるコア(核)となるような新たな「高年化製品」を企画し製作をすすめる。かつて企業の業績を支えたスグレモノ製品を送り出した引退社友もまた要請に応じて参画する。いずれは厚生施設の運営費用や企業年金分などは「社内シニア化部門」がゆうゆうと稼ぎだすのが、将来性のある日本型企業である。
わが社の製品がわが社の高年者の暮らしを豊かにする。それが発想の原点になる。「丈人モデル」型の豊かな人生を望んでいる高年者層の存在は確信していい。高年社員の総力をあげて当たる心意気が成功の源泉である。「丈人モデル」型人生を願う多くのわが国の高年者の豊かな後半生のために、「信頼を得る優れた専用品を送り出そう」と決めて、新ブランド商品をめざした企画にはいる。
「社内シニア化部門」は、さらに将来の国際的な高年化時代の到来にも目をむけて、品質のよい「日本高年化製品」として海外の高年者が競って求めるような次世代の輸出製品の準備をする。心躍る情景ではないか。「社内ミドル化」と「社内シニア化」という多重標準による「攻めのリストラ」は、日本型企業ならではの企業改革なのである。 
「新・企業樹形」
「日本型企業の多重標準」 
大樹となればまた強い風にもさらされるが、その間にも見えないところで根がしっかりと太くなっていることに思いをめぐらそう。「樹大招風」というが、明治維新期と昭和大戦後と今回の新世紀初頭の三回の外圧を乗り越えて根をはった「樹大招風の日本型企業」は、二一世紀の中葉にむかって大きく枝を広げて育っていくだろう。
若手社員を中心に急速なグローバル化に対応してきた職場に、足踏みをして待機してきた実力派の高年社員の動きが戻ってくる。「社内ミドル化部門」を推進しながら、もうひとつの根幹部門としての「社内シニア化部門」が構成される。この多重化の機構改革が、グローバル化時代の最中でのわが国の「高年化社会」に見合う企業改革となる。前者は若手・中堅社員を中心にして製品の国際化に対応し、後者は高年社員を中心に引退社友をまじえて、わが国の高年化の進展に対応した国内需要に備える。社内体制を固めるに当たっては、成員を五〇歳から定年までの社員ですませるか、引退社友を加えるか、さらには異業種から社友を迎えるか、などは職種や社内事情によって異なるだろう。両部門では当然のこと、異なった労働形態や給与体系が検討される。このあたりの対応の仕方が、日本型企業の「新・企業樹形」を作ることになる。
この日本に固有の有利な特徴である終身型雇用制を生かした「日本型企業の多重標準」、つまり「社内ミドル化」と「社内シニア化」という二部門を両立させる改革の成功なくしては、わが国の企業ばかりか、社会もそして家庭も、固有のよさを保ちながら国際的「高年化時代」に適応することができないのである。   
*・*「SWIT会議」に新・家族主義の芽*・* 
「SWIT会議」
「モノづくりの志」
スウェット(sweat 汗をかくきつい仕事)ではない、「スウィット」(swit)である。シニア(Senior)社員、女性(Women)社員、IT(Information Tecknorogy)社員による新製品開発のための合同会議が「SWIT(スウィット)会議」である。
「すでに、うちにありますよ」という企業があれば、汗をかいても激励にいきましょう。
現有の主要製品のラインを確保して国際化に対応しながら、新企画の製品を開発するための拠点、それが「IT製品開発」部門と「女性製品開発」部門であり、さらに「高年化製品開発」部門の三部門を構成する。暮らしを多彩にする三者が加わって、それぞれに競って新製品開発での成果を期する布陣をかまえることになる。その上でさらに三部門による新製品開発会議が、シニア(S)と女性(W)とIT社員代表による「SWIT(スウィット)会議」である。
ここにひとつの「新・日本型マネジメント」の生き生きした現場が登場する。
新製品開発の場で、それぞれ生活者として異なった立場からの多角的な検討を、とことん加えるという社内協議の体制ができた「日本型企業」が、家庭向けの最強の商品開発力を発揮する。協議の結果として、個人の成果にインセンティブを置くアメリカ型の改革に動いた企業に圧倒的に勝利する新製品を登場させることになるだろう。
生産者側のマーケット・リサーチと利己的判断に基づいて製品化するという現在の「グローバル・スタンダード」(国際標準)を超えて、わが社の利とともに、それにも増して消費者の益を思う「モノづくりの志」が製品として明確に表現される日本製品。その生産活動が「ヒューマン・スタンダード」(人類標準あるいは全人標準)に最も近くにあるということを、「SWIT会議」を通じた製品が示すことになる。
「和の絆」(愛社意識)
「一品多種の新製品」
会議を通じた製品によって、温和な環境と伝統文化に培われた、モノを丁寧に扱い、ヒトを優しく思う品性としての「和の絆」(愛社意識)を組み込んだ日本型企業の国際的先導性が明らかにされるだろう。五〇~五九歳で六五%、六〇~六四歳で五〇%というインターネット利用率(〇四年末)からも明らかなように、デジタルデバイドの解消が課題となるが、会議でのIT社員との論議が有効に働くことになる。業種にもよるが、若年・女性・高年に受け入れられる「一品多種の新製品」の成果を実感できるまでには容易でないが、生活者としての三者の熱い議論の結実として、ユーザーのための最良の製品が生まれてこないわけがない。
比較的に適応性のある先行業種としては、世代間でライフ・スタイルが異なるとされる分野である、アパレル、化粧品、音響機器、住宅・家具、食品・料理、流通・広告、情報メディア・出版、スポーツ・レジャー、観光・・などが考えられる。 
「ウエアラブル」
「ホーム・ネット家電」
たとえば「ウエアラブル」(着られるもの)なども、ITを内蔵した「IT+女性」によるファッション性が先行しているが、それとともにIT補助機能を内蔵する高年者向けウエアラブルに市場性があり、「SWIT会議」でのテーマである。
さらにたとえば、家電企業が「家族化」をテーマとし、家庭内ネットワークを形成する「ホーム・ネット家電」という融合概念をもつ新製品開発を進めるに際して、想像力ゆたかな社員を集めて「SWIT会議」を立ち上げて、「IT+女性+高年者」のアイデアを取り込む家族的会議で製品の検討に入ることになれば、これまでゲームやコンテンツ(映画や音楽などのソフト)事業を中心に若者をターゲットにしてきた企業ばかりか、市場をも刺激することになる。 
「新・家族主義」
家族ひとりひとりの衣装の趣向、多様化する調味や栄養のバランス、表現の多重化・・それぞれの立場からの「多重標準」のありようを認めたうえで、ひとつひとつ製品化される。嗜好や指向の違いが際立ちながらも家庭内用品として安定して利用されるには、家族の成員での納得が前提となる。コーディネートされた住空間がおのずから形づくられる。
 新製品開発の場で、さまざまな視点と知識と経験をない交ぜにして展開する「SWIT会議」から最良の家庭用品が生まれる。シニア(S)+女性(W)+IT青年(IT)による会議は、日本企業の「新・家族主義」への可能性を蔵している。未知の領域に挑む「IT製品」と、日本社会を質的に多彩に変える「女性向け製品」と、経験を裏打ちにした完成度の高い「高年化製品」を開発する部門の社員が合議する場は、穏和な職場環境を醸成する核として機能する。開発された新製品は、外国企業から畏れられる存在になるだろう。個人の成果に片寄らず、日本型企業ならではの企画・製造・販売の検討を経た製品だからである。
企業現場への「新・家族主義」の導入、これが終身雇用を基本としてもつ日本型企業で来歴を活かした社内改革である。現有の活動を支える若年・中年パワーと合わせて、「IT青年」「女性」「高年」という多重標準のパワーが製品開発の現場で凝集して発揮される。そうしてはじめて「成熟した日本社会」の形成に立ち向かう「日本型企業」内でのヒューマン・スタンダード(全人標準)の表現としての姿が見えてくる。

現代シニア用語事典 #6日本再生と地域の四季

 #6日本再生と地域の四季
#地域特性と季節感を取り込む
*・*「百季人生」を豊かにすごす拠点*・* 
「双暦」
ここで採り上げる「時の移ろいに関する多重標準」は、国際標準(グローバル・スタンダード)とされる「太陽暦」(西暦・公暦・グレゴリオ暦)と地域標準である「太陰暦」(農暦・旧暦・天保暦)であるが、どちらかの良し悪しを論ずることではなく、双方の良さをどう採り入れたら高年期の暮らしを快適にできるかを考えること、つまりふたつの暦「双暦」に慣れるといった柔軟さと謙虚さをもって対応しようということである。
国際標準とされる「陽暦」と地域の農作業のめぐりに根ざした「陰暦」との関係については、わが国では一三〇年ほど前の明治五年一二月三日(陰暦)を明治六(一八七三)年一月一日(陽暦)とすることで「西暦」が始まった。その後、農作業や祭事との繋がりが濃かった陰暦を「旧暦」としてなし崩しに遠ざけてきた。大戦後は暮らしの洋風化とともにいっそう進んだが、それでもせいぜい一四〇年ほどのことである。ケタ違いに長い年月を刻んできた旧暦。地域の季節感を取り込んだ暮らしの知恵を体感することなしに終わる人生が、どれほど殺風景なものかは知れば驚くほどのことなのだ。ここだけをおおげさに取り上げてほしくないのだが、意識としては「鎖国型」の対応が必要であろう。
伝統的な「ひな祭り」「七夕」「夏祭り」「お月見」などは年中行事として定着しているし、また新しい「バレンタインデー」「母の日」「クリスマス」といった行事も、だれもがどこでも楽しめる祭事・歳事・催事として親しい。といって煩雑なほどに旧暦を再生する必要はないが。高年期になって地域の季節行事のよさに気づいて関心をもって参加する人びとはけっこう多く、静かにそういう趣旨の活動をしている会も知られる。 
「二五年一〇〇季」
地域の季節行事をおざなりに扱ってきたこれまでの自分の暮らしを顧みて、これからの人生を豊かにする契機を与えてくれるのが「地域の四季」に根ざしたものなのだと知ること。そう意識することで、住んでいる地域でしか得られない四季折り折りの風物の変化が感じられるようになる。つまり「地域の四季」が、高年期を過ごす者に等しく与えられている自然からの恵みなのだということに思いが及ぶ。まずはそれでいい。「地域の四季」のめぐりに衣・食・住の知恵を活かすことで、高年期の暮らしが生き生きと変容するものになる。
そこで「一二カ月一年」とともに「三カ月一季」を時節のめぐりの基本とし、暮らしの場としては都会指向から「身近な地域」へと指向すること。時の移ろいの感覚というものは相対的なものだから、ひとつずつの季節をていねいに迎えて過ごすことにより、一年は四倍の長さで充実して感じられるようになる。高年期は「二五年一〇〇季」にもなるのである。
あと二五年と意識することと、あと一〇〇季と意識すること、これが「時の移ろいに関する多重標準」である。六〇歳からはじめて八五歳までの二五年を「高年期一〇〇季」として一年を四分した「三カ月一季」を時節の基準として迎えてすごす。地域の四季(一〇〇季)を楽しんで暮らす。出遅れた人や新たな展開をまじえて、七五歳からはまた新たな「高年後期一〇〇季」を始めてもよい。そんな「百季人生」をこれまでの生活に重ね合わせることで、高年期は「四倍の豊かな時節の変化」とともに過ごすことができる。たとえば六一歳の春季、夏季、秋季、冬季・新年、六二歳の春季・・というふうに。
「地域の四季」の変化に素直に向かいあい、「一〇〇季」のうちの一つひとつをていねいに迎えてすごす。そう考えただけでも心弾むではないか。
一年を一二カ月として平板に流されていた日々に、四季を基準として「地域の変化」とともにすごす日々とを、「双暦による多重標準」と意識して巧みに折り合わせて暮らすのが、高年期の人生を豊かにするのにふさわしい処世法といえるだろう。 
「四季カレンダー」
Dさんは六〇歳直前の定年待望族のひとり。早期退社はしないが、このまま定年まできちっとしごとをこなしてすごすつもりでいる。その先の計画はまだ固まってはいない。
それでもいま心躍るのは、季節の催事との出会いや、旬の料理づくりや、俳句仲間との「四季吟行」の小旅行やである。「一年」ではなく「一季」を基本にして暮らしている高年者のDさんを「四季丈人」と呼んでもいいのだが、ややせわしいので、ここでは「百季丈人」と呼ぶことにしよう。
古風な民家づくりの居間には、重厚なサクラの机にそろいの「マイ・チェア」もある。「百季丈人」のDさんは、「チェア」に座って眺められるほどよい壁面に、実用を兼ねてビジュアルのしゃれた「四季カレンダー」(四季ごとの三カ月のもの)を掛けている。年に四枚、四季それぞれ三カ月の日付が視野の中に呼び出されていることに意味があるのだという。
サインペンの赤マルは、催事や「吟行日」である。よく見ると月と月の間を貼っている。例年入手しているカレンダーの月ごとの一二枚を三枚ずつ切り貼りして、四季ごとの三カ月(三~五月、六~八月、九~一一月、一二~次年二月)の四枚にしたてたもの。新年・冬は一月が、春は四月が、夏は七月が、秋は一〇月がそれぞれ中央に据えられて、早仲晩の順になっていて、そこ季節行事が記されているから、「地域の四季」はカレンダー上に鮮明に表現されている。
年末恒例の東京銀座・伊東屋の「カレンダー展」などをみても、「四季カレンダー」と称するものはあるが、実際にこういう四季ごとの三カ月九〇日間のものは見かけない。あるのだろうが、目立つほどにはない。カレンダー会社が競って制作する「季節しごと」の成果を待っているというのが、Dさんのあわてずさわがずの願望である。  
「季節小物」
Dさんは「マイ・チェア」に座って眺められるほどよい位置に「四季」を取り込むしかけをいくつも配している。年四回のモノの配置の「季節替え」(大掃除)をおこなうのを、負担にするどころか楽しみにしている。新しい季節を待って迎えて送る楽しみである。花鉢、紋のれん、玉すだれ、星座図、扇絵、雛人形、鯉のぼりや風鈴や蚊やり豚や丸火鉢といった「季節小物」の置物や飾り物を入れ替えたり移動したりする。季節の移りに応じて、住にかんする春もの、夏もの、秋もの、冬ものを目立たせるとともに、衣・食それぞれの変化をも楽しんでいる。
Dさんはボタニカルアートの手習いをしている。いずれは「四季色紙」を自作するつもりという。年に四作では寡作にすぎるが、それでも季節ごとに花々の盛期を熟視して楽しみ、ほどほどの出来の自作でわが家の居間を飾れるならば、「百季人生」の味もまた深まる。
「茶道や華道も、そろそろ男性回帰の時期ではないですか」と、Dさんは文化勃興期の変容は男性が主導するが、完成期以降は形式美として女性が支えるという持論を述べる。和装もまたしかりで、これまで主として女性の儀式用の盛装として技術も意匠も素材も女性によって支えられ保存されてきたが、「季節感と地方性を享受する高年男性の登場によってよみがえる時期にある」とわが身に引き寄せて熱心に語る。いささかささやかともいえるDさんの人生目標ではあるが「地域の四季」を、個性的に享受する心根が形の上に息づいている。 
「床の間春秋」 
「そうそう、どこのお宅にも四季を取り込むために先人が残してくれた仕掛けがあるのに活かされていませんよね」とDさんがいう仕掛けというのは、「床の間」のことである。軸が年中かけっぱなしの一幅だけでは、せっかくの「床」が動かずにさびしい。というより無いに等しい。気づいてみれば、Dさんとこの床の間も長いあいだ、入居時のお祝いに頂いた中国画家の「牡丹」のままだった。花の軸なら「梅」「牡丹か桜」「蓮か蘭」「菊」の四幅の「四季花軸」がほしいところ。春は「桜」にして新年に華やかな「牡丹」とすれば五点である。まずは春秋一幅ずつそろえれば「床の間春秋」が楽しめる。有名画家のものは高価だし贅沢だから、習作期の画家や素人画家の力作に魅力がある。
密室でぶんぶんクーラーを回してすごす無季節、無機質な「常春」指向を修整して、「地域の四季」を家庭内に取り込むこと。遠からず自作の「四季色紙」が居間を飾り、切り貼りのないしゃれたデザインの「四季カレンダー」が季節を伝えるだろう。さまざまに季節小物を配して、繊細に個性的に「百季人生」の季また一季を迎えて享受して過ごす。
 もうひとつ、Dさんお気に入りの「エイジド用品」を忘れて名ならない。チクタク振り子が行き来する古時計。百寿期の「おおきなのっぽの古時計」とまではいかないが、形と数字の表現に古風の味がある小振りな柱時計である。傍らにデジタル時計も置いていて、「二もとの梅に遅速を愛す哉、です」などと、蕪村の句を挟みながら、時計の遅速をもまた楽しんでいる。 
*・*一年より「四季」を折節の基本に*・* 
「祭事・歳事、催事」
前項では、時節の基本を一年ではなく「一季」に置いて、「地域の季節」の移りゆきとともに暮らす「百季人生」を紹介した。「地域の四季」に関わる歳事のうちには、地域の暮らしにリズムをつける催事として、門前(社前)市があちこちで復活している。
だれもが参加して楽しめる「祭事・歳事、催事」を追ってみる。
年初の「初日の出」や「初詣で」ではじまり、「初荷」「初午」など初ものがつづいて「節分」。春を迎えて「ひな祭り」「お花見」「端午の節句」や「新茶つみ」。季節が動いて「しょうぶ湯」「七夕」「お盆」に「夏祭り」、全国各地の「花火大会」、「薪能」。そして「お月見」(中秋の名月・十三夜)や「七五三」と季節は移って、暮歳の「酉の市」「大晦日」・・。
そして、季節の移ろいの節目を次々に追うのは、
 立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨 立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑
 立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降 立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒
 という「二四節気」。すべてとはいかないが、多くが実感をともなって知られている。
それに八十八夜、入梅、二百十日や、さらには開花日、初鳴日、初見日といった「雑節・生物季節」など。この国の先人は、それらを合わせて新しい季節の訪れを心待ちして迎えては愉しみ、名残りを惜しんで送っては楽しんできた。 
「自作五句」
日本の民衆文芸として親しまれている俳句を支えるのが「季語」。そこには時の移ろいとともに動く季節の突っ先をとらえる感性のエキスが詰まっている。そこで「百季丈人」であるDさんに、俳句仲間ならだれでも知っているという近代秀句を選んでもらった。
 まさをなる空よりしだれざくらかな     富安風生
 万緑の中や吾子の歯生え初むる    中村草田男
 をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田蛇笏
 湯豆腐やいのちの果てのうすあかり  久保田万太郎
 など、折り折りの味わいが巧みに捉えられていていいものだ、とDさんの評。
 稀にみる短詩だけに文字づかいにきびしく、仕上がりの句境には天地雲泥の差がある。巧拙は風にまかせて、新年・春・夏・秋・冬の五句くらいは、なんとか「自作五句」として選定して心にとどめておきたいところ。特に気に入ったひとつは、ひそかに「辞世の句」として内定したりして。 
「八方時刻」
一日を二四時間に刻んで過ごしてきた国際標準に重ねて、高年期に入ったみなさんに本稿が推奨するのは、三時間ずつ八つの刻みを意識して一日の予定を織り込んでいく「八方時刻」を取り込むこと。ゆったりとした暮らしの日々に鮮明な記憶を残してくれることになる。
  〇~三時       更(ふけ)  
      三~ 六時        明け方 
      六~九時         朝方
      九~一二時     午前・昼前    
      一二~一五時   午後・昼過ぎ  
      一五~一八時 夕方  
      一八~二一時   晩方   
      二一~二四時   夜
「更」は五更まであって三更からが日替わりだが、夜更けや深更として日替わりの感覚としてはじめに据える。「明け方」と「朝方」は異論があるまい。正午をはさんで「午前・昼前」と「午後・昼過ぎ」そして「夕方」を迎える。そのあと「夜」までの間を、気象庁は天気予報で「宵のうち」(午後六時~九時)と呼んでいたが、人によって捉え方が違うからという理由で、〇七年四月から「夜のはじめごろ」に変更した。本稿では朝昼晩として実績をもつ「晩方」を据えた。使いならすことで「八方時刻」(八分時刻)を実感してほしい。
「八方美人」ほど目立ちはしないが、「八方丈人」には着実な生活感がある。
某月某日、朝方に朝刊を読んでから学校へ出かける孫の翼くんにひとこと。昼まえにはO先生に手紙を書き、昼すぎには町なかの郵便局と図書館へ。夕方に近所の八百屋へ総菜を買いにいってから夕刊を読み、晩方に晩飯をすませてからTさんに電話とFさんにファックス。そして夜にEさんへEメール、BSテレビのニュースと読書。でも夜更かしはしない。
こんなふうな時の過ぎゆきとともに三時間ごとの活動を刻んで過ごす「八方人生」には、日また一日を着実に刻んでいるという充足が感じられる。 
*・*「四季型(通風)住宅」への回帰*・* 
「四季型(通風)住宅」
住宅についてはすでに「三世代同等同居型住宅」というやや大型で耐久性に優れた住まいを取り上げた。ここでの「四季型(通風)住宅」もだれでもとはいかないだろうが、住宅に対する考え方としてはだれもが納得しておいてほしいところである。全室冷暖房という「常春型(エアコン)住宅」が快適さのすべてではないということである。
古来、わが国の風土に適応した住宅は、「地方性」を活かした素材や様式をもち、「季節感」を巧みに取り込みながら、一年を通じて過ごしやすい工夫をこらしたものだった。古都の町屋や各地の古民家として、わずかだが今に残されている。そういう古い日本住宅を活用した旅荘やレストランなどで「風土の良さ」を実感したことがあるにちがいない。最新の無季節で多産型のプレハブ住宅に住んでいるうちに忘れてしまった住まいの味わいや安らぎを、現代に引き継いで活かす「モダン変容」が、現代の匠たちによってなされていることに注目しよう。
「常春型(エアコン)住宅」を取り入れながら、住宅全体としては繊細でリズムのある「四季型(通風)住宅」にするのが、「住宅に関する多重標準」である。すべてを通風に回帰することではなく、一部を冷暖房付きで一部を通風型にして、電力を倹約しながら季節の変化を享受する暮らし方を可能にしている。機密性が保たれ、常温が得られる住宅構造(すきま風のこない家はうれしかった)によって、冷暖房施設は急速に普及して「3C時代」を謳歌してきたが、その快適さをひたすら支えてきたのが電力だった。夏ごとに「クールビズ・ファッション」をはやしたてて何かが変わるなどというのは環境ファッション程度での議論で、天然の樹木や水や風への基本的認識がないばかりか、本格的取り組みを見失う過ちを隠すことになる。
 「外向的街並み」
内向きに閉じた常温型住宅から、「地域の四季」つまり外界と向きあうたたずまいを持った住宅への回帰。これがこの国の「住まいの良さ」の本流なのだ。高年者層の人びとの「季節感」と「地方性」への関心と配慮が、庭など街と住宅の中間領域にも安定感を与えて外向的な住宅街を実現する。
「季節感」や「地方性」を具体的に取り込むことによって住み心地は変わる。新築や改築にあたって、個別に現場で工務店側の熟年技術者と細部の検討がなされれば、その成果は共有されて、時をへて地域の特徴を巧みに表現した「四季型(通風)住宅」を中心にした家並み、街並みが形成されてゆく。高年の人びとが「地域の四季」を意識することによって、電力消費も少しずつ平常な姿を取り戻す。
内向きに閉じた「常春型(エアコン)住宅」の暮らし方を修整して、外向きに開放的に「季節感」と「地方性」を構造として取り込んだ「四季型(通風)住宅」が主流になる。地域のみなさんが工夫をこらして街空間の形成にも参加する「わが家」が増えることによって、三世代がそれぞれに内でも外でも暮らしやすい家、家並み、街並みが姿を現わすことになる。これまでの季節感をシャットアウトし、地方性を失った家並み・街並みに代わって、「地方の四季」を謳歌する地域特有の「外向的街並み」の展開が新幹線の車窓から楽しめるまでには、世紀のプロジェクトとなるだろう。 
*・*地方色を生かした「高年化用品」*・* 
「季節和装」
長着、羽織、帯、野袴、足袋、履物。履物は草履、下駄、雪駄。襦袢に褌。かずかずの和装小物類、そして財布や名刺入れまで。各地の産地がそれぞれに、和装の復興に努力をつづけている。伝来の意匠や素材を生かした「季節和装」が、高年者の衣の趣向として街に見られるようになるだろう。戦前の写真をみると、和洋ほぼ半々の街着である。それも趣味人の凝った風姿としてではなく、ふつうの人のふだん着として。それはこの上なく自由で闊達な雰囲気を地方の街にもたらしていた。
とくに男性の「和装街着」は、急テンポですすんだ容赦ない近代化の過程で、欧風のスーツとシューズを取り込むとともに街頭から追われてしまい、暮らしの場での「モダン変容」の機を得ずに日常性を失っていった。が、「裃」や「晴れ着」として儀式衣装に閉じこめられながら、意匠も素材も高度な製作技術も生産地のみなさんの努力によってなんとか保たれている。消滅に瀕しているそれらを引き継いで後代に残すためにも、「和装街着」の復活が急がれる。 
「和装街着」
「地方の四季」を特徴づける「モノと場の高年化」の契機はさまざまにある。まずは身近な「衣」の部門から。衣は「地方の四季」をもっとも率直に表現できる分野。地域に残されている意匠や素材は、どんな些細なものでも「四季の衣装」に素早く取り込んで生かすことができる。つまり伝来の形や素材を大切にしようとする地元高年者の衣装への趣向が仔細に発揮されているうちに、「和装街着」という地域高年者ファッションが登場する。
「和装街着」をリードするのは、洒々落々の風情を楽しむ「百季丈人」のみなさんである。合わせ、単衣、薄もの、単衣、合わせへと移りゆく季節の変容を、地元の意匠と素材とで繊細にとらえた「地域和装」は、着けても楽しかろう。こだわりなく着用して街をゆく和装姿が僧衣と作務衣だけでは心もとない。和装の形は保っているものの、いかにも窮屈そうな女性の晴れ着や男性の裃姿ではなく、カミシモを解いた和装への回帰が、本稿の希求している衣の情景である。 
「南方(農耕)系衣装」
「洋装(欧装)」の「北方(狩猟)系衣装」は冬の寒気をしのぐにはいいのだが、この国の夏日にだれもがシャツとシューズというのでは、画一的で暑苦しい。もっと気楽に夏の気分がかよう「南方(農耕)系衣装」の意匠と素材を採り入れた衣装がいい。南方の国から訪れる人びとの民族衣装は、「洋装(欧装)」でなく、着る側からいって「和装」に属するが、明るくて開放的である。迎える側も「和装」で応対するのが自然のように思える。ここにも「衣装の多重標準」を巧みに率直に活かす暮らし方がある。
歯に衣を着せずにいわせてもらえば、「クールビズ・ファッション」でこと足れりとせず、優れたわが国の衣装デザイナーがヨーロッパの衣装のために日本的な素材と意匠と才能を提供してきたが、今度はわが国に似合う衣装のために、世界のトップ・デザイナーが伝来の和装を知って、「和装街着のモダン変容」を競う場としての「トーキョー・コレクション」を開催する。そうして初めて、ヨーロッパ中心の硬直した「洋装(欧装)」指向から脱した、本来のおおらかな国際性が開けてくる。はっきりと「衣装の多重標準」を意識した舞台を現出する。黒人モデルが「洋装(欧装)」を超脱したネイティブの衣装を着けていきいきと登場することのほうに、だれしも豊かな国際性を感じるだろう。トーキョーならそういう流れをつくれるはずだ。 
「四季型衣装サイクル」
身近な問題だが、春先と秋口に出くわす不順な天候や昼夜による温度差(一〇度を超える)の時期に、地域の高年者が体調を崩さずにすむ「高年者向け重ね着」の工夫を、「衣の季節表現」として取り込んでゆく。各地に特有の春先と秋口の不順な時期を、重ね着によって乗り切る「高年者向け衣装」をつくり出す。そうすることで、夏もの、春・秋もの、冬ものの四季三分類による「四季型衣装サイクル」が完成するからである。
衣装づくりに熟練したみなさんが自分のために「折り折り思考」を働かせることでいい。
二〇世紀を風靡したのが「洋風(欧風)」ファッション。それに重ねて、新たな世紀での「和風」の復活。各地に四季折り折りの素材と意匠の「和装街着」が定着し、競われて話題に。隣家のジージが「春の街着ベスト・ドレッサー」なんてあっていい情景である。海外の姉妹・友好都市から素材や意匠を移入して個性的な街着をつくり出せば、欧風とは違ったファッションで街がはなやぐ。街着は和洋折衷という「衣装の多重標準」を活かせる分野である。 
*・*地元の素材で味わう旬菜*・*  
「旬菜料理店」
「食」の部門。
「鎌倉は活きて出でけんはつがつお」なんて旬の句を口ずさみながら、水気を切った旬のカツオの一切れに、香ばしいショウガ・ミソを載せてほおばると、江戸前の旬の句の風趣を偲ぶことができる。季節なしの冷凍食材への恩恵はそれとして、季節の恵みと先人の食の嗜好を伝えるのが、四季折り折りの旬の食材を生かした「季節折り詰め料理」。そんな料理は、外に求めるよりは、みずから「男子必厨丈人」として包丁をとって調理に立つよりない。「わたしの旬菜」が四季の食のシーンを賑わすことになれば、高年期の人生はいよいよ楽しいものとなる。
「旬菜」といえば、当日入荷した食材によって「メニューなし」で供する「旬菜料理店」。熟練の板前が丹念に調理する場で、丹精してつくった農作者や獲物を追う漁師の素材に対するこだわりを、菜卓(カウンター)をはさんで語り合うのは、伝承してきた日本の食文化の最良のシーンである。
食は「医食同源」の立場から素材と調理法の蓄積が進んでいる分野である。といっても昨今のTV料理番組のように、レシピで効能をあれこれこだわって、「耳視目食」に陥ることはない。季節を限った旬の食材をさがして「自前薬膳」にしたてあげればいいことだ。地域のレストランで、季節メニューに「地場薬膳」を発見したら逃がさない。
  けっこういけるコンビニ味覚に慣らされてきたが、高年期ともなれば、時節とともに現れる新鮮な食材を求めて調理した自作料理「わたしの旬菜」の創出を試みる。さらには「男子必厨」丈人として、旬の素材を吟味して「自前薬膳」を考案する。時に朋友を招いて、できたての旬菜を前に「しずかに新酒の数盞を嘗め、酔って旧詩の一篇を吟じる」のもいい。季節の恵みによる贅をつくした食のシーンである。 
「口楽文化人」
食べて語って歌うというのは、口が求める三つの楽しみであり、「口楽文化」ともいうべきもの。カラオケ店に「高年者専用ルーム」(「カラオケSSルーム」。VIPではない)があって、「口楽丈人」が出動して、「歌う、語る、食べる」(うるる三楽)ということになれば、ここは三味一体の「シニア文化圏」となる。「年少と春風を争わず」に、高年者が好みの曲を選ぶことができ、映像にも工夫をこらし、高年者好みの食ダネを揃えて供するホールを持つカラオケ店なら、これは与楽効果が満点の町の文化施設である。レストラン系カラオケ店の多重「うるる」構想に期待しよう。若者を狙った新曲争いに走ったり、やすく提供するために曲想と関係のない映像の繰り返しでは、「途上国化」というより、すでに衰弱化のうち。カラオケ店は、三世代がそれぞれに、またみんなしてこよなく愛し育てる街の文化娯楽施設なのである。
世界の料理を食べて歌が歌える「国際カラオケ」で外国からの客人をもてなすことができれば、技術立国日本の「口楽文化」の拠点としてどれほどの効果があるか測りしれない。国際的「口楽文化」を日本「口楽文化人」の「うるる」嗜好が先取りするのは愉快な情景である。 
*・*街並みを整える庭づくり*・*  
「一〇〇季の庭」
「住」の部門。
「地域の四季」の変化をじょうずに取り込んだ住居での暮らしが、高年期の日々の充足とどれほど深く関わっているかについては、すでに述べた。季節とともにまわるわが家の「四季のステージ」を演出するには、大道具・小道具がいる。そこでまずは先人が工夫してこしらえた伝来の園芸用具、新しい工具や設備など、庭いじりの業の要所を習うことになる。
若手の「百季丈人」(高年前期)であるDさんは、隣に住むベテラン「百季丈人(高年後期)」のGさんに習いながら、花期や実入りに配慮した植栽を手がけている。植物が繊細に表現してくれる「一〇〇季の庭」にひとつずつ迎えた「地域の四季」を実感しながら過ごしている。
街並みにかかわる庭木のうち、高木は周囲と合わせて土地にあったものにし、狭いながらもわが庭やベランダを通じて折り折りの「地域の四季」の変化を享受しながら、街並みの構成に参加していることもまた実感している。こんな街なら紛れ込んだ旅人も安心して時を過ごし、思い出を得て立ち去ることだろう。穏やかに風土・伝統が息づく街だからである。 
「わが庭の公開」
「地域の季節の花」が観光名所になっているところは数知れない。多くは観光協会などが管理にあたっている。梅や桜の名所は全国的に分布している。その一方で、寺院や個人の持つ庭園が「季節の花」のころに入場料をとって公開されて、「地域の季節」を楽しむ人びとに支持されている。牡丹、薔薇、紫陽花、菖蒲、藤、桃、菊などの「わが庭の公開」が話題になる。もちろん果樹の場合には摘果による収入が見込まれる。 
# 地域生活圏の高年化
*・*ふるさとの大地を踏み鳴らせ*・* 
「ふるさとの現風景」
将来を期待されて「ふるさと」を離れて、ひとり大都市に出て大学で学び、そのまま職業について都会暮らしをしてきた人びと。そのまま「都市浮遊型(Q字型)の人生」に終わらずに、高年期には「ふるさと」にもどって過ごそうと考えている人びと。「ふるさと帰巣型(U字型)の人生」を思う人びとには、こころの支えとして「山は青き、水は清き故郷」が原風景としてあって、静かに唱歌「ふるさと」を歌えば、山や川、うさぎやこぶなは変わることなく眼の裏に浮かぶ。「いかにいます父母・・」、となると父母はすでになく、「ふるさと」も記憶の中の風景としてよりほかになくなっていることを知るが、それでも溢れ出るなつかしさの度合いには変わりがない。だれもが住みやすくなることを望んできたのに、わが村や町の「ふるさとの現風景」は求めていたものと違う姿になっている。先の大戦ののち半世紀あまり、得たものよりも失ったものが多いことにも気づいている。
得たものといえば――舗装された真っ直ぐな道路。メカニックな騒音。コンビニ、スーパー、駐車場。コンクリート造りの新校舎と新庁舎。郊外のゴルフ場・・まだある。途上国製のさまざまなカタカナ表記の家庭用品。そしてマイカーとプレハブづくりのマイホーム。
失ったものといえば――安心して歩ける小路。緑ゆたかな雑木の里山や鎮守の森。ヒバリやカエルの声。野外で遊ぶ子どもたちの歓声やお年寄りの笑顔。秋祭りの活気。わら屋根の篤農家やよろずや商店・・まだまだある。もしかして明日への期待や将来への展望も。 
「歴史・伝統環境」
春になるときまって蠢動していた小さい生きものが次々に失せていく気配。失ってしまった自然環境のなにほどかでも回復しようという活動が、各地域で沸くようにして試みられている。とくにホタルは「水は清き故郷」のシンボルとして全国各地で蘇った。全国ホタル研究大会(ホタル・サミット)が開かれている。
夜空に舞うホタルの光は、過去に出合って失った何かなつかしいものを想い起こさせる力を持っている。「ホタルの飛翔」は終わりではなく次の何かへのリード・ライトなのだろう。「ふるさとの変貌」を見つづけてきて、何を蘇らせたらよいかの具体的イメージを探っている人びとに、新たな発見をうながす契機となっている。
人間中心の利用がすぎて再生力に崩れを生じた「自然環境」の回復がいわれ、消費の現場を無視して生産活動を優先したあげくに壊された「生活環境」の保全がいわれる。「ふるさと再生のまちづくり」ということになれば、「自然環境」や「生活環境」ばかりでなく、先人から引き継いだ「歴史・伝統環境」といった住民の暮らしにかかわる風土を含めて、それらが重なり合う現場で何をどうしたらいいかは、経緯に詳しい高年者の人びとが再生を協議するところからはじまる。 
いきいきシニア」
特例債付きの合併協議がひと段落した二〇〇五年六月中旬、どれほどの地域がどれほど元気であるかを知るためにおこなわれた調査(内閣府「地域再生に関する特別世論調査」)の結果では、暗に相違せず「地域に元気がない」ことがわかった。
自分が住む地域に「元気がない」と感じる人が四四%、「元気がある」と感じる人の三八%を上回っている。「元気がない」と答えた人は、その理由として「子供や若者の減少」(五九%)、「中心街のにぎわいの薄れ」(五一%)、「地域産業の衰退」(三九%)などをあげている。そして活動の中心となるのが国(一八%)でなく、住民(四八%)と地方自治体(三八%)であることもはっきりしている。
実感とそう違わない結果だが、ではだれがどうするかが問題だ。「子供や若者の減少」の根っこには「少子化」が、「中心街のにぎわいの薄れ」には商品流通の変化が、そして「地域産業の衰退」には「地産地消」の問題がそれぞれに指摘されており、国としては「合併による地方分権」をすすめ、「少子化特任大臣」を置き、「中心市街地活性化」や「地場産業育成」もみんなやっている、活動の中心はもはや国でなく、「住民と地方自治体のみなさんです」という国の悲鳴が聞こえる。「住民と自治体が主導」であることもわかっている。もはや人ごとのように国を批判していても始まらない。住民と自治体が何とかしなければならないときなのである。
全国には元気がいい「いきいきシニア」だっているのである。長期にわたる国主導の政策のなかで、やむなく生涯現役で対応してきたのが、農林・水産業の人びとだった。「地域おこし」の成功例(模範事例)を取り上げて表彰する「いきいきシニア活動表彰」(農林水産省)をみていると、農業・林業・漁業にたずさわる高年者のみなさんがきびしい環境のなかでいかにして生産組合や協議会をつくり、アイデアを出し合って特産物を作り出し、よろこびを作り出し、暮らしの安定に努めているかがよくわかる。  
「地域土中の地」
「少子化」対策にしても、子どもたちのためにイモの苗付け、茶畑づくり、七草とり、すだれづくり、トンビ凧・・そして少なくなってしまった安全な居場所をこしらえるといった事業も、地域の高年者のアイデアと参加なしにはすすまない。地域が湧き立つのを願わないものはいない。それを担うのは若者ではなく健丈な高年者なのである。
「ふるさと再生まちづくり」のきっかけをどこに見つけ出し、どこから元気をもらうのか。
唐突に聞こえるかもしれないが、それは「地域土中の地」からである。村や町にはかならず「土中」と呼ぶことができる場所がある。「土中」といってもモグラやミミズが住む土中ではない。地域の「歴史・伝統環境」を支える重心になっている場所のことで、社寺であったり役場や小学校や老舗や旧家であったり、城跡や大樹が残る岡の上や先人がたどり着いたとされる海辺や河口であったりする。身辺に三つや四つは必ずある。
人生をはるかに越えて残りつづけるものへの畏敬の念をもって、どこかそういう「地域の土中の地」に立ってみる。頭の中で結論を出さないで外へ出て、まずは実際に立ってみる。すでに鎮まった先人に語りかけ、今ある姿を見つめ、行く末を考える。他に支援を求めようとすることなく、みずからが「土中」の地に立って、地域再生に立ち向かう元気を沸き立たせることだ。そして地域の高年者として記憶のなかに残されている「懐かしく元気だった生活圏」を再生して後人に引き継ぐ事業に投じること。力が足りなければみずからを奮い立たせるしかない。
ふるさとの大地を烈しく踏み鳴らせ! 先人が頼もしい力を与えてくれるだろう。 
*・*合併後の課題は「広域化+地域化」*・* 
「平成の大合併」
先の大戦のあとしばらくして「昭和の大合併」と呼ばれる市町村合併があり、それ以来、四○年余りを経て、「平成の大合併」が生活圏の広域化が進んだことと「地方分権化」を主な理由としておこなわれた。住民の側も、自家用車を利用して三キロ~五キロ圏のスーパー・大型店舗への買い物や文化施設や病院などへの遠出は日常的になっていることから、合併の必要性は生活圏広域化の流れの中で納得できた地域も多かった。
ここで前世紀の末に近く、全国の自治体が競いあった事業があったことを思い出しておきたい。「ふるさと創生」事業である。一律一億円でアイデアを競いあった。そのときは小さな自治体を減らすことではなく、それぞれが特徴を探しあてて「小さくとも輝く自治体」を目指したのだった。「一億円ふるさと創生」をきっかけにして地域ごとに生活圏意識の醸成に動いた。
新世紀初めの全国規模での「平成の市町村合併」ではどうか。総務省は「地方分権」をかかげながら「人口が一定規模に満たない自治体は解消する」として、自治体の数を減らす(一〇〇〇が目標)ことをめざした。「ふるさと創生=地域化」と「平成の大合併=広域化」とに示される国のふたつの意図のよじれに地域住民はとまどわざるをえない。 
合併を数の上だけでみれば、三二三二市町村(二〇〇二年末)を三分の一の「一千自治体に」を目標にして全国展開し、一八二〇市町村(二〇〇六年三月末)を成し遂げたのだから、総務省としてはひとまず面子を保ちえたのだろう。国の合併指針は、「規模の適正化」とともに「合併市町村の円滑な運営の確保及び均衡ある発展」(合併特例法・新法)であった。
新自治体は、合併後の「生活圏の広域化+地域化」という多重標準による新たな生活圏の創出を模索することになった。 
「生活圏の広域化」 
国(県)からの要請であった広域化としての生活圏(平成の合併圏)の形成は、クルマの利用やIT化をとりいれた規模のメリットを納得できる住民の広域化意識を醸成しながら進められる。その一方で、これまでの暮らしの場であった生活圏(昭和の合併圏)は、「地域の特徴の再生(創生)」といったまちづくり事業として、「自然環境」「生活環境」「歴史・伝統環境」それぞれの見直しに立った住民活動として展開される。だから「生活圏の広域化+地域化」という多重標準の視点が必要で、どちらか一方に片寄ってもみんなが暮らしやすい地域とはならないだろう。
住民の側からの対応としては、新自治体の新たな構想のもとでの暮らしの場(クルマ利用の行動圏)をつくる一方で、旧自治体の範囲(歩行圏の小学校区と自転車圏の中学校区)での地域の暮らしを守ること、つまり「生活圏の広域化と地域化」とに同時に対応するという多重標準の意識と視野をもった暮らし方を選択することになる。合併評価の基準は、住民がこの双方の生活圏をうまく利用してうまく暮らすことができているかどうかにかかってくるのである。新自治体の中心部だけが賑わって、関係した周辺の地域が特徴や暮らしやすさを失って萎えてしまうのでは成功例とはいえない。 
「個性ある地域の発展」
別の項でも論じるが、「均衡ある国土の発展」から「個性ある地域の発展」へという政府の「骨太の方針」の理解においては、「Aに替えてBを」という単純・一元的なものではなく、「Aに重ねてBを」あるいは「AとともにBを」という多重・多元的な変化としての理解が必要なのである。「合併特例法」(新法)では、市町村合併の推進により、「規模の適正化」と「合併市町村の円滑な運営の確保及び均衡ある発展」をいうが、「地域の個性」(特徴)を残して活かしながらの「均衡ある発展」であることを、それぞれの関係自治体の現場でみんながしっかり把握しておかないと、地域の特徴を失って均衡ばかりが先立つことになる。
合併を機に、産業(モノ)と文化(ヒト)での「歴史・伝統」の再生を通じて、各地域がみずからの特性を再確認して暮らしに活かすような「まちづくり」の実施によって地域住民の活力を呼び覚ますこと、住民の地域を思う意識を醸成しないでは地方分権の受け皿としての「個性ある地域」は成立しない。 
「民主主義の抜苗助長」
合併を成し遂げた新しい自治体のうち、住民の関心が沸かず、具体的な動きが「ふるさと創生」のときほどにも生じなかったところ、つまり「元気がない」ところでは、中心部だけに合併のメリットが集中するという結果がみえはじめているのではないか。
「民主主義の抜苗助長」になりはしないか。大戦後に得た主権在民の種から芽が出て苗となって育ってきていたのに、早く苗を伸ばそうとして引っ張って(助長して)苗を枯らしてしまう愚かな農民(まともな農民はそんなへまなことをするはずはない)の姿に重なるのだ。
足並みこそ違うものの、住民がゆっくりと育ててきた「地域民主主義」の根付き具合を個別に考慮することなく、国(県)は「地方分権」による自治の強化・効果をいいながら逆に自治能力を奪うことになる「一律の平準化」を強行したともいえる。実際に「新市民」の反応がにぶいところは苗が枯れてしまった可能性が濃い。住民が自主的に動かないことによって、次第に「抜苗助長」であったことが明かされ、いくつもの「小さな自治権」が奪われ、住民自治から国家管理へ、つまり「民から国へ」と振り子がもどっていく。 
それを知りながら国があえて「抜苗助長」という愚かな農民役を務めたのはなぜなのか。
「一律に強行しなければ、きびしい財政事情を自治体職員も地域住民も分かってくれないからだ」という、財政事情の逼迫がその理由であろう。
地元住民が納得し呼応して実現に参加する事業でないかぎり、財政赤字を好転させる地元効果は生まれない。住民が呼応し地域が動かないかぎり、「地方分権」どころか、「三位一体の財源配分」の場で国による地域行政支配だけを強めることになる、つまりは国家管理をしやすくするための虚構となる。 
「地域社会の高年化」
各地の合併協議会で「高齢化」問題はどう扱われていたのか。合併の必要性のひとつが「少子・高齢化」への対応だったはず。あとは「財政の悪化」「日常生活圏の拡大」「地方分権の推進」「住民要望の多様化」である。このあたりの課題はどこもそう変わらない。
「少子・高齢化」への対応では、六五歳以上の人口割合が増えて医療費・福祉対策費が増大する一方で生産年齢人口が減少し税収が減少し財政が逼迫する、だから「現在と同じ水準では行政サービスが受けられなくなる」と指摘する。将来像では、「シルバー人材センターの充実、生涯学習の振興、NPOの活用」などをあげる。どこも新たな展望をふくむ解決策を示していない。
そして「市民参画の推進」には「男女共同参画」はあるが、「高年者の参画」への期待はどこにも見えないのだ。これでは「少子・高齢化社会」の将来像は描けない。
合併が成立したところもだが、現状のままでは自主財源を取り崩して対応するしかない。小さな自治体ほど厳しさを増す。このままいけばどこも数年しかもたず、めぐりめぐって財政赤字の潜在的担保となっている高年者の資産がねらわれるのは目にみえている。それに気づいた高年者が動き出す。「高年者住民の参画」はいまなら早くはないが遅くはない。
「平成の大合併」の成否にかかわりなく重要なことは、地域の「まちづくり」に高年者がどれだけ参画する意欲をもっているかにある。財政の好転もその結果としてもたらされるからだ。地域が独自に解決しなければならないのが「地域社会の高年化」である。人口の三分の一にあたる高年者層(五〇歳から)が協力して、地域特性や伝統を生かした高年者自身が暮らしやすい地域づくりを推進する。自治体は全国一律の合併を機に、「地域社会の高年化」を施策の柱として位置づける。つまり「高年者の社会参画」が「地方分権」の受け皿としての自治体の特徴を支えて独自性を発揮しうる課題であり、周囲の自治体を比較しながら良所を導入できることが、合併を契機にした全国一律の活動であることの最大のメリットなのである。先の大戦後に育ててきた「地域民主主義」の芽は、「地域生活圏の高年化」活動によって引き継ぐことになる。高齢化率が高い県でさえも、「高齢社会を豊かで活力ある社会としていく」といいながら、なお担当部署が旧来の健康福祉部や土木部という現状では、全国一律の「地域の高年化」対応はむずかしいだろう。 
*・*わがまちの「高年化特産品」*・* 
日本的よき均等性」
新幹線の座席でうとうとした後で、身を起こして、列車の窓から外を見る。
「いま、どこさ走ってるん?」
流れ去っていく風景からでは、どこを走っているかの判別がつかない。外国での話ならともかく、わが国の国内での話。利用した人ならだれもが経験していることなのである。次々に展開する田畑も家並みも、どこも同じような風景なのだ。新幹線の車窓からの風景の中に、「ここはR町 △△が特産」といった程度の看板くらいはあってもよさそうだが、地方特性(特産)がいっこうに立ち上がっていないのである。「地方の時代」といわれてずいぶん経つというのに。
しかし、これは見方の違いによるのであって、いずれの地も凸もさせず凹もさせずに、「冨を等しく分かち合いながら、ともに豊かになる」という、先の大戦後にわが国の先人が選んで目標としてきた「日本的よき均等性」の成果なのである。「豊かになれる者からなれ」とはせず、個人差や地域差をなくして、等しく成果を分かち合おうと務めてきた善意の人びとによる積年の成果なのだ。その意味でなら、これまでも「地方の時代」だったといえる。東京一極集中の風潮の中で、地方の人びとは優れた多くの人材を提供しながら、残った者たちによって、「モノと場の平等な豊かさ」のために、たゆまぬ努力をしてきたのである。
みんなが等しく貧しかった時代、若者を大都市へ送り出し、地元に残って貧しさや不便さにも耐えながら辛苦した人びと。いまはもうその姿は定かでないが、地元のために尽くした先人の努力を無視しては、現状の公平な豊かさに対する理解の公平さを欠くことになる。
新幹線を利用しながらこう語るのは失礼になるが、「善く行くものは轍迹なし」という先哲のことばに耳を傾けたい。すべての業績を周囲の人に振り分けて、みずからは轍の跡を残さず去っていった善意の人の姿を忘れ去るわけにはいかない。等しく冨を享受するという善意から始まった「均等化としての地方の時代」が、時を経て「横並びの安心感」による自立意識の欠如となり、推進力を失ってしまっている。成果主義といった目の先の競争誘因を取り込まねばならないほどの転機を迎えようとしている。
他ならぬ政府が掲げた「骨太の方針」の、「国土の均衡ある発展から個性ある地域の発展へ」 というキャッチフレーズには、そういう理解による転機への要請が表現されている。
ここで注意すべきことは、「~から~へ」に示される政策の変更である。ここは「~を転換して」ではなく、正確には「~に多重化して」と理解すること。地域特性の回復だからといって、一八〇度の「転換」をするのではなく、これまでの国主導の「横並びの均等化」によって得た現況に、さらに地元の発想を「多重化」して、地域の活力を呼び起こそうということである。そう理解しなければ先人が善意として積み重ねてきた営為をまるごと無視することになってしまう。
「地域に根ざした暮らしの知恵がどの地方にもあったはずなのだが」と思いながら、新幹線の客は、どこかわからないまま車窓から目を戻す。前方の出入り口の上の小さな空間をニュースが流れ、「あと三分でN・・」というお知らせが流れた。 
「地方色・県民性」
江戸時代の後半期に各藩が競い合って育てた地域特性は、近代化という外圧の中でも明治・大正期まではなお地域特性として保存する努力がなされてきた。それが昭和の初期に国家主義が全土を蔽って以来、「全国的な均等性」が優先するようになり、「地方色・県民性」などといわれていたそれを消し去ろうとする力が働いてきた。その方向は「お国ことば」が「標準語」の普及のかげで「訛り」として忌避されるなど、戦後にもなお持続してきている。それでも戻りの道が確保されていることは、特産物や郷土料理や民謡や祭事がなお盛んなのをみる限り、潜在して健在であるといえよう。
敗戦後に地域の人びとの安心感を支えてきたのは「モノと場の横並びの平等感」であった。だから新幹線の窓からでは見定めがつかないR町のような町でも、次のような横並びの「基本課題」を共通して持っている。「個性のあるわが町」を創生するには、地元の高年者が協力して、自分の経験をつき合わせて、この中から地域特性を掘り起こすことになる。
「産業・流通」では、主要な物産の確保と地元素材を活かした特産品の形成
「環境」では、「自然環境」では里山や鎮守の森、水辺などの再生・保全。「生活環境」では生活道路の整備、リサイクルに関する住民意識の醸成と施設。「歴史・伝統環境」では四季の祭事や古城跡・旧跡や文化財、人物などの再興・保存・伝承
「情報化」では、情報ネットの形成、パソコン教育・研修、お国ことば(方言)の保存
「国際化」では、姉妹・友好都市との交流、青少年ホームスティ、特産品の共同開発
「少子・高齢化」では、健康保持事業、子育て・孫育て教室、男性料理教室、世代交流
「地域コミュニティー」では、防災・安全事業、まちづくり構想、中心街の再生
「スポーツ・生涯学習」では、地域の歴史・伝統、四季の暮らし、園芸、各種スポーツ、碁・将棋、ダンス、文化講座、芸能、ボランティア・・などなど。
すでに各地から具体的成功例として耳にするのは、環境に関する「エコ・ライフ」や「スロー・ライフ」による再生活動である。「ホタルの里」や菜の花・レンゲ・コスモスといった「花の里」や「そばの里」や「和紙の里」といった名物づくりの里づくり。そして地元の焼き物・織物の再生。和太鼓・歌舞伎・踊りの復活。××弁・民俗芸能の保存と伝承など。いずれも意識されないが、地域の高年者が主体となって活動をリードしている。 
「高年化地域特産品」 
各地の「物産館」や「道の駅」に陳列されている「地域特産品」をみてみよう。
季節ものの青果・果実、水産物、ジャムや味噌のほか、まちの「創作の里」などで住民がこしらえた陶器、和紙、木製品、塗りものといった日用の手づくり製品の中に、伝承技術を生かした「高年化(一生もの)地域特産品」が見られる。高度の伝統工芸もあるが、そこまでいかなくとも地域の素材を活かした素人の熟練した手作り品のほうに地産品の味がある。価格も高いわけではない。没後の遺産としてまではムリとしても、終生の愛用には十分に耐えられる製品になっている。
ここでの「高年化地域特産品」というのは、高年者のための用品と狭く限定するよりも、「丈夫で長持ちする一生もの」という意味でいい。終生用いられるほどの耐久性と「熟練の手ざわり」があればいい。地元の素人づくりのよさを認めあうことからはじまる。
前項の表のように、どこの自治体も熱心に高年者住民が参加する活動の支援をおこなっている。中央から講師を招く定番の文化講座やスポーツや芸能ものが少なくないが、地域と地域を結ぶ活動や国際交流、地場産業の展示・品評会といった「地域特性のモノづくり」を意識した活動に将来性がある。高年者住民と自治体と地元企業がバランスよく協働する活動にも可能性がある。他の地域の追随を許さないレベルにまで技能や特性を磨きあげることで、地域独自の物産が創り出されることになる。  
「企業の地方化」
企業もまた「中央から地方へ」の流れの中での役割を果たしている。かつて若い日に「均衡ある国土」づくりの時代に地方に出た社員が、いままた「個性ある地域」づくりの時代に地方へU・Jターンすることで、高年期での最良の職場選択となる可能性が大いにある。
「地方化」をめざす企業がなすべきことは、地元資本の企業を資金力と経営ノウハウの差で打ち負かし、市場を奪うことではない。それでは良き「企業の地方化」とはならない。勝っても長期的には歓迎されない業態である。
中央で培った経験を地元企業と共有して提携・協力しながら地域の活力を引き出すこと。そのためにU・Jターンする地元出身の高年社員の経験が活かされる。会社に願い出て、地方で定年を迎え、「人生の第三期」のステージとすることも選択肢のひとつだろう。
地域の高年者のみなさんが暮らしの中から発する要望が「高年化地域特産品」につながる。きっかけは思わぬほど身近にあるものだ。また前述したように、海外の姉妹・友好都市が培ってきた伝統的な物産や行事や暮らしの慣習といった特性の中から、新しい意匠や新素材を移入して新製品が生まれることが十分に予測される。そういう新製品の場合は、地域の「高年化特産品」の市場は、地域内にとどまらない。 
「地域ブランド製品」
地域の高年者の要望に応じて、地元企業は「モノづくり」に、自治体は「まちづくり」に、どう柔軟に対応するかが「地域特性のあるまちづくり」の形と質を左右する。各地の高年者のみなさんの「地域の四季」を際立たせる家庭内と生活圏での地道な挑戦が、「地域社会の高年化」の道程であることは確信していいだろう。
「地域の四季」を快適にすごすための住民自身による「モノと場の高年化」の実現。その要望から、伝承技術を活かした「高年化地域特産品」が生まれる。終生にわたって愛用できる「地域特産品」をいくつも持った「個性のあるわがまち」が競いあう。地域の生活を支える製品が超人気になれば、それは「地域ブランド製品」として定着するばかりか、地場物産に新たな活力を与えることになる。その成果を集めて「県都」では毎年、「(仮)高年化特産品展示会」が開かれる。  
*・*地域が担う「少子・高齢化」社会*・* 
「家族総出の子育て」
かつて近代化の過程で、わが国でも「人口急増(爆発)」の時代を経験した。地方の家庭は子どもたちを、お国のために、大都市のために、労働力として送り出してきた。長男が農家を継ぎ、次男坊、三男坊、*男坊は一人前に育つと都会に出ていって働いた。
いまや送り出せる余力はない。それでも地方の家庭では、「家族総出の子育て」で女性の社会進出を支え、「子育て」をおこなっている。都会生活の若い夫婦の子育てに支援の急務があるが、伝統的な子育ての基本は地方の「家族総出」にあることをしっかり把握し直す必要がある。霞が関にも「家族・地域の絆」を再生するための三世代同居支援という動きがあるが、流れをつくるにはいたっていない。
子育て支援といえば「エンゼルプラン」(九四年策定・九五~〇五年度実施)も、「新エンゼルプラン」(九九年策定・二〇〇〇~〇四年度実施)も、そして「次世代育成支援」のための「次世代育成支援対策推進法」(〇三年公布・行動計画〇五~一四年度実施)も、この一五年の施策のどれにおいても、直接には祖父母の育児参加には触れておらず、「地域住民」として扱われてきた。子孫の育成にとって祖父母の存在はゼロなのである。
施策の上でそう軽視して扱われていても、実際には孫の傍らにいて親の目と違った目で見て、知らないことを教え、励ましを与え、孫から二重マルの似顔絵をもらう祖父母は多い。過保護や板ばさみを避けながら、社会適応性のある子どもたちを育てる役割を果たしてきたのは、おじいちゃんやおばあちゃんではないか。それがごくふつうの伝統的な次世代支援であり、家族による自然で当然の「子・孫育て」である。祖父母に可愛がられて育った孫は、高年者になってきっとやさしい祖父母になるだろう。
「ひとりじゃないよ、みんなで育てる未来に輝く子どもたち」
いいキャッチ・フレーズである。家族総出で、そしてさらには地域のみんなで、地域の子どもの成育を支援し見守っていくことが、もっとも有効な「少子化対策」であり「少子・高齢化」社会づくりなのだといえるのである。
 「孫育て講座」
多くはないが、「育孫書」が出版されている。「祖父母が孫と遊べる児童館」へ行ったり、「孫育て講座」や「孫育て教室」に出て、新しい育児のやり方を知り、孫たちとどう接したらいいのかを考えたり話したりするチャンスも増えている。
期待されていないから熱心になれない。「子・孫」を育てるためには、父母の子育てに加えて祖父母の「孫育て」がうまく重なるのが自然であり当然であり、各地でさまざまな取り組みがなされているが、肝心の国の子育て政策が大都市型の「保育施設の充実」や「夫の育児参加」や「育児休業」といった支援対策に片寄ってしまっている。
「三世代同居」や子ども世帯が同じ敷地に家を建てて住む「敷地内同居」が多い地方の町村での次世代支援は大都市型とは同じではない。つまり「子育ての多重標準」としての都市型と地方型とが明確に意識されなければならないのである。
世帯同居ならいうまでもなく、近居の場合には「おじいちゃんち」が成り立っているだろう。保育施設や幼稚園での「おばあちゃん先生」、公立小中学校の補助教員、塾の教師、通学路や公園や公民館、図書館、その他の施設での目配り。事故や犯罪やいじめといった被害から子どもたちを守るのに、地域の高年者の「次世代育成」への関心は欠かせない。さまざまな自然体験、決まった遊具を置かずに子どもたちの自主的な参加で遊び場をつくる「まっ白い広場づくり」には、かつて自然のなかでそうして遊んだ経験をもつ高年者の知恵や手助けがいる。マンガで育ってすぐキレル子どもに、豊かで精細な表現力を身につけさせて感情のコントロールができるようにしようという「読み聞かせ図書館」や地元の伝統技術・芸能を伝授する活動などにも高年者の支援が生きている。 
「総人口減少」
何度聞いても違和感を覚える統計用語のひとつに「合計特殊出生率」(厚生労働省)がある。ひとりの女性が生涯に産む子どもの数を示すが、わが国の場合は、人口を維持するのに必要といわれる二・〇八には程遠いラインで推移している。二を切ったのが一九七〇年というからもう四○年も下がりつづけている。〇八年では団塊ジュニアの出産期ですこし持ち直したといっても一・三七となっている。
そして総人口が二〇〇五年の一億二七七七万人をピークに長期的に減少という事態を迎えている。国会の論議で、「総人口減少」の危惧に対して、政府側答弁は、減るものなら減ってもしかたがないというものだった。明治時代は三〇〇〇万だったし、戦後も七〇〇〇万だったのだから。将来は六、七〇〇〇万人という事態はありうるというもの。為政者としては「子育て」環境を整えつつ、「減ってほしくない」として努力したすえの結果ならいざしらず、無策のままで統計的な予測を述べるのには唖然とするばかりである。
国は「次世代支援」を進めているとはいえ、都市型の夫婦ふたりの抱え込みによる子育てに固執している。地方の実情や高年者を軽視したまま、祖父母の支援による「孫育て」という伝統を引き継ぐことをしていない。支援対策の実態も、結婚・出産期にある人たちの「結婚、出産を奨励」するが約二〇%なのに対して、「結婚、出産を阻む要因を取り除く環境整備」が過半数という(総務省の世論調査)。なのだから、家庭内で、地域社会で、職域で、「孫育て」のための連携した支援が必要なことはおのずと明らかであろう。
 「高齢者センター」
これまで高年者側からの世代間の出会いといえば、「老人クラブ」がおこなってきた「地域を豊かにする活動」(旅、将棋など)がある。「伝承活動」や「世代交流」は組織的な活動の柱になっており、地域の文化や芸能・民芸や手工芸、郷土史などを子どもたちに伝承している。しかしながら既存の「老人クラブ」と「子ども会」との間ではとても扱いきれない地域の問題が山積しており、家庭内とともに地域生活圏でも高年者による「三つのステージ化」の活動が、新たな生活圏の創出とともに次世代育成支援と重なるものになることはまちがいない。そしてその先に地域の課題を解決するための「三世代会議」の発足が想定され、施設として「三世代会館」が構想される。各地に「児童館」「青年館」「高齢者センター」は多くあるが、「三世代会館」はまだ聞かない。合議して名前を変更して、三世代の代表者が管理するようになれば有効な地域の集会所として機能するだろう。
たとえば東京都千代田区の「高齢者センター」は、さすがにトップクラスの地域にあるトップクラスの高齢者のための総合的施設である。憩いの場、健康増進のための場、仲間づくりのさまざまな同好会、講演や映画や演芸も楽しめる。七階の施設でいたれりつくせりだが、世代を超えて発信する拠点というコンセプトはない。
 「三世代会議」
高年者側から発信する「青少年」「中年」「高年」の代表による地域の「三世代会議」には、これまでの「老人クラブ」などによる活動を大きく越えた構想が込められている。
地域の特性や伝統を大事にし、特産物を育て、篤農家を守り、若者を鍛え、子どもたちに強く生きる夢を与えられる地域の高年者層の活動に、地方自治体はもっと期待し参画を求めるべきであろう。そんな活動を担うのは地域の来歴を知っている「昭和丈人層」のみなさんである。
地域住民みんなが暮らしやすくする活動、たとえば「バリアフリー」による環境の整備など「ユニバーサル・デザイン」の考え方に配慮したまちづくりは成果をあげているが、それに重ねて物産、文化、余暇にわたる三世代がそれぞれに暮らしを楽しむために要請され、「青少年」「中年」「高年」それぞれの活動を推進するのが「三世代会議」である。そのための常設の施設が「三世代会館」である。公民館や文化会館はだれもが利用可能な共用施設であるが、それとは別に三世代がそれぞれに活動する場を持ちさらにそれをつなぐ拠点とし、「三世代会議」をおこなえる施設が「三世代会館」である。「三世代会議」を開いて、それぞれの要望を具体化していく。先人の事跡から学び、将来の後人に伝え、いま暮らしている三世代がそれぞれの力をあわせて、外からの風圧に耐えうる「新・ふるさと樹形」を整え、幹を太らせる。そんな活動の中心にいて高年期を享受するのが「昭和丈人」を自覚した人びとの人生である。 
*・*ふるさと人を代表する「地域シニア会議」*・* 
「地域特性を持つまち」
ふるさとに残って地域の物産や伝統を守ってきた人びとを中心にして、ふるさとを離れて大都市で活躍した後に高年期なって戻って過ごす(J+Uターン)人びとが蓄積してきた知識や技術や人脈や資産などを地元にもたらすこと。「地域特性を持つまち」にするにはそれらが有効に働くことが必要であろう。魅力のある町には、これまで関係をもたなかった人びとも高年期を過ごすためにやってくる。いわゆる「田舎暮らし」指向の人びとが参加することになる。
これまでの「均衡ある国土の発展」により平準化された町に重ねて、「地域特性を持つまち」にするためには、まず町の来歴に長くかかわってきた高年者が中心になって、外部で培った経験や知識をもつ高年世代の人びととともに「高年者会議」を構成する。既存の権益を守るために排他的になってはいけないし、一方で外来の人びとも地域の伝統やしくみを無視してこれまでの暮らし方をそのまま持ち込もうとすることはよくないことだ。お互いの長所を組み合わせた「高年者会議」が成立してはじめて良好な「高年期のステージ」を構成することができる。と同時にまちの将来を担う子どもたちのための「青少年期のステージ」にも配慮する。これまでの地域を代表して活動している中年世代のための「中年期のステージ」を合わせて、「地域の三つのステージ」がバランスよく機能する態様をつくりあげることが求められる。
この「地域の三つのステージ」の創出は、地域の「少子・高齢化」に即応する新しい住民活動であり、それはまた三世代それぞれが推挙したメンバーによる「三世代会議」という新しい活動主体を成立させることで推進されることになる。 
「地域シニア会議」
「三世代会議」の「高年者部門」が「地域シニア会議」(名称は随意に)である。ここが「老人クラブ」と重なりつつ異なるところである。五〇歳からの「人生の第三期」に地元で活動している人びとが主要メンバーとなり運営にあたる。地域の隅々を知りぬいた「地識丈人」のみなさんである。Uターンした名誉教授や企業家や高年政治家も加わるが、中心になるのは地元で活躍してきた高年者である。こうした高年者が集まって、いろいろな角度からまちの将来を談論する「地域シニア会議」は、「地域が誇るシニア文化圏」のひとつとなる。すぐれた「地域シニア会議」は、爆笑と拍手と思わぬ展開の質疑のうちに住民の「不言の言」をしっかり聞きとることができる高年者の代表によって構成される。
ひとりひとりはそれぞれに魅力的な「ふるさと人」である。まずは物産・特産にかかわる生産者の代表。物流や人の交流にかかわる商業や観光業の人。宗派や専門科は別にして人生観や生死にかかわる宗教者や医者。専門は問わないが地域を越えた見方や考え方ができる学識者。孫育て期にある女性代表。域外で活躍している「ふるさと人」。柔軟な発想ができる高年議員。「ふるさと創生」で活躍したような行政経験者が加わる。伝統技能の保持者や由緒ある寺院の僧侶などが適宜に参加する。「寅さん」が一目おいていたなつかしい柴又帝釈天の「御前さま」のような人がいると会がなごむ。在住外国人もいい。一般的には九~一一人といったところ、「わがまちのベスト・ナイン」か「シニア・イレブン」といったところ。他地域と異なる構成が「地域特性」の表現となる。
何より「地方からの逆流」をおこす潮目の時期だから、ありきたりの発想や表現力の人(とくに進行役)では当たれない。未整理なままの住民の意見を的確に整理したり、多様な意見を調整したり、党派的な利害を排して中立を保ったり、民主的な進行を保ちながら即座に公平な判断ができ、柔軟な表現力のある人びとの選出が求められる。地域をよく知っている高年者(地識人)なら、たちどころにメンバーの半分は推挙できるだろう。 
「(仮)ふるさと創生21構想」
「地域シニア会議」が中心になって「三世代会議」を呼びかける。「三世代会議」が討議を重ねて作りあげた地域特性を持つまちづくり「(仮)ふるさと創生21構想」として、国をも県をも納得させるレベルで「地方分権」を具体的に担保する自治能力の表現となるにちがいない。
「平成の大合併」が全国一律であることのメリットは、地域社会の「高年化対応」の活動が、各地で同時進行でおこなわれ、その情報が自在に行き交うことにある。ここは本来なら住民を代表する「村(町)議会」に期待したいところだが、地域の利害を離れて求心力をもって「地域の特徴」をつくり出す組織としては、にわかには機能しづらい現状にある。
「地域シニア会議」は、住民の意向を集約しながら、地域の高年者が暮らしやすい生活環境を具体的に検討していく。熱心であればそれだけ多くのテーマについて、まず医療、保健、福祉などについては当然に、それに加えて環境や物産や伝統や教育といったテーマについても議論を繰り広げて、その過程でいくつもの「地域民主主義」の現場を形成する。 
「(仮)市立高年大学校」
「平成の大合併」によって多くの自治体が広域化した。新設合併で求心力を増した中心地域はどこも安堵したであろうが、周囲の合併関係町村や編入町村のなかには、「個性ある地域の発展」という合併による地方分権の目標とは裏腹に、往年の特性や精気を失って萎えているところが想定される。そろそろその気配が見てとれる時期である。
なぜそうなるのか。地域発展のための人材の育成が欠けているからである。
「明治の大合併」のときには、わが村の「村立尋常小学校」が合併のシンボルとされた。村立の小学校は子どもたちに多くの夢を与え、地域を発展させる人材を育成した。その夢はいつしかお国のためとなり、半世紀の後には戦争へと子どもたちを駆り立てていったが。三〇〇~五〇〇戸の規模で教育、戸籍、徴税、土木、救済などが課題だった。
「昭和の大合併」のときには、わが町の「町立新制中学校」が合併のシンボルとされた。子どもたちは町立の中学校を卒業すると、ゆえあって残らざるをえなかった者が地元の産業を守り、多くは都会へ出ていって高度成長の担い手となった。八〇〇〇人の規模で、新制中学、消防、保健衛生などが課題だった。
さて「平成の大合併」では、新しい市は将来の地域を担う人材を育成するために、何を教育のシンボルとしようとしているのか。国は地域の主体性に任せるという理由で明確な指針を示さなかった。明治、昭和のあとの合併のステップからいうと、「市立の高等教育機関」であり、「(仮)市立高年大学校」といった態様のものが今回の合併のシンボルとなる。将来の地域の発展のために活躍する人材を育成するために、地域性を加味したカリキュラムが構成されることになるだろう。そして修学するのは五〇歳をすぎた高年者で、これまでの経験に重ねて行く先長いわが人生を過ごすための知識や技術を新たに習得する。名称は自在であるが、設立の可否が将来の発展の差を生むだろう。活動的な高年者は当分の間、増えつづける。その人びとが地域でいきいきと暮らすために学ぶ公立の教育施設は、個人には豊かな人生を、地域には新しい活力を生むもととなる。 
「地域特性のあるまち」に暮らす
*・*地域が産み出す国際貢献*・* 
「地域ホスピタリティー」
 二〇〇二年六月の日韓共催のサッカー「ワールドカップ」の折りの国際的な熱気はなつかしい。ホスト国として、参加各国チームの選手たちを迎え入れ、みごとな「ホスピタリティー」(歓待ぶり)を発揮した二八市町村。日本各地の人びとには、ワールドカップの期間に、世界中から訪れた人びとに競技場の内外で示したように、おのずから溢れ出る親和の感性によって、国際交流を友好的にすすめることができる潜在力があることを、世界に証明したのだった。
「アリガトー」は世界語になる勢いだったし、街の清潔なこと、花の多いこと、礼儀ただしいこと、どこにも温泉があること、列車が時刻通りに動いていること、スシが「トテモ、オイシイ」など、物価高を除けばホスピタリティーは十分に実証されたのだった。子どもたち、女性、高年者が、それぞれにみせた国際交流での「お国ぶり讃歌」であった。
市町村レベルでの国際的な友好活動の可能性が、それぞれ甲乙つけがたく納得された。アフリカのカメルーン・チームを迎えた大分県の中津江村と、人気NO1だった「ベッカム様」がいるイングランド・チームを迎えた兵庫県の津名町が、とびきり話題にはなったが。
おのずから表れるホスピタリティーはどこから生じるのか。長く孤立した島国であったことで、地域に潜んでいる国際交流への期待感には、計り知れないものがあるように思われる。これこそが今、地域の資産として生かされるべき地域パワーなのではないか。「地域から地域へ」のつながり、とくに海外の地域とのヒトとモノの交流には、労苦をはるかに越えた成果が穏和な経過のうちに実現される可能性が見えている。 
「国民性としての和の心」
わが国の地域の活力を支えているのは、四季の移ろいをじょうずに受け入れながら温和な感性を大切にして暮らしている人びと、だれに対しても等しく親切な高年者のみなさんである。その心の深い層に置かれている繊細さや優しさは、四季折り折りに変化する風物との出会いがもたらしてくれた自然の恩恵といえるものに違いない。繰り返される季節との出会い::
  春は桜前線(三月~五月)が北上し、秋には紅葉前線(一〇月~一二月)が南下する。
  南からは春一番が吹き荒れ、北からは木枯らしが吹き抜ける。
      八十八夜の晩霜を気にかけ、二百十日の無風を祈る。
      南の海に大漁を伝えていわし雲が湧き、北の海にぶり起こしの雷鳴が轟く・・。
わが国の自然は、みごとに四季の変化に調和がとれている。それはまた海の幸・野の幸・山の幸を豊富にもたらしてくれる。収穫を等しく分け合い、奪うよりは譲り合い、見捨てるよりは助け合う、といった「国民性としての和の心」(温和、穏和、調和、親和、平和、協和、総和・・)が、自然のうちに育まれている。と、これは海外の日本研究者が等しく指摘するところ。
だれかれの分け隔てなく萎えた心を励まし、痛んだ身を癒してくれる風物や特産物に事欠かない。それとともに、各地には先人が貯えてくれた歴史・伝統遺産も多く残されている。さまざまな知識や技術が人から人へと受け継がれ磨きあげられて、「地場産業」や「お国ぶり」として暮らしを豊かにしてきたのである。だれかれの分け隔てなく等しく親切な高年者。それゆえの年長者への敬愛の情は、他から与えられたものではない。 
「姉妹・友好自治体」
いま自分が住む自治体が、ふさわしい相手を海外に見出して、お互いの住民同士が親しく行き来し、異質な文化との交流や特産品の共同製作を競う姿を思い描いてみよう。
各地の小村、小都市が、そうして国際協和に努めることで、海外の小村、小都市から信頼される姿が見えてくる。わが国の高年者が持つ「モノづくり」の能力と「親和」の心情は、「シニア海外ボランティア」のみなさんの実績が示すように、途上国の人びとにとっては発展の原動力となるものだ。常に開かれた不凍港のように頼りがいある存在としての小村、小都市。ひるがえってそれは将来かならずわが国の地域の個性や豊かさを生み出す源泉ともなる。
いま「姉妹・友好自治体」は約一五〇〇ほどだが、合弁企業や物産の共同開発といった経済活動や個別分野のさまざまな文化交流が進めば、数も内容的にも広がることが予測される。とくに長い民間交流の歴史をもつ日本と中国の場合には、国家の不和・齟齬の時期を乗り越えて、すでに三〇〇余の「友好都市」が全国にあり、信頼をつなぎ友好の成果をもたらしてきた。これまでに研修生として訪れた多くの若者がいまや中国各地の都市で第一線で活躍している。
首都の東京(各区)と北京(各区)、近代港湾都市の大阪・横浜と上海、歴史文物の京都・奈良と西安をはじめ、勝沼とトルファン(ぶどう)や須賀川と洛陽(牡丹)、富士と嘉興(紙)といった特産物、そして魯迅の故里紹興と藤野厳九郎先生の生地あわら、亡命期の郭沫若にちなむ市川と楽山、中国国歌の作曲者聶耳の終焉の地藤沢と昆明といった人物を介した絆による交流まで幅広い関係を持つ。それを地道に支えているのは、長い日中交流の歴史を思い、大戦時の不幸な記憶を忘れずに信頼を積み上げてきた高年世代のみなさんである。 
*・*狭い国土を四倍にみせる*・* 
「狭い国土を四倍に見せる法」
東北K市の市役所にも「国際交流課」が設けられていて、現地のことばに堪能な職員「国際交流員」が常駐して対応している。市に滞在している外国人滞在者(各分野の研修者や留学生や企業人など)とともに国際交流圏をつくり、深夜にもインターネットを通じて現地とつないでいる。なんとも素晴らしい国際交流の情景ではないか。海外の姉妹・友好都市から友好・参観にやってきた人びとは、まず県都で交流の時をすごし、地方を代表する文化に接する。
それからそれぞれの「友好市町村」を訪れて、目的である文化やスポーツや物産に関する交流の時をすごす。海外からの客人たちは、さらに各地にある温泉施設「(仮)国際友好温泉」(名称は随意に)に案内されて、日本式のもてなしを受けることになる。
周辺の市町村が設けるは、四季折り折りの美しい風物や料理や温泉を活かした「地域のコア(核)施設」である。海外からの訪問者は、「人生に一度は行ってみたい」と心躍らせてはるばるやってくる。「人生っていいな。日本ってすばらしいな。別の季節にまた来たいな」と、野天風呂につかって暮れなずむ異郷の空を眺めながら、母国語でつぶやいてくれる。地元の高年者のみなさんが、だれをも等しく親しく迎える姿は、海外の一人ひとりの友人の心の中に、暮れなずむ星空を見上げるたびに、一生のあいだ輝いていることだろう::。
これはとくに重要な視点であるが、迎える側のみなさんが、四季を「四つの変化」として際立たせることによって、遠来の客人たちは春・夏・秋・冬(新年)の四回は訪れる楽しみを持つことになる。いうなれば、四季を時節の刻みとしてすごす高年世代の人びとの暮らしの知恵が、ここでは「優れた小国」の知恵として、「狭い国土を四倍に見せる法」となるのである。 
「優れた小国・文化大国」
わが国の市町村と海外の市町村との友好的な交流は、援助額では世界二位という巨額なのに国際貢献の評価が低いODA(政府開発援助)支援にはるかにまさる実質的な成果をもたらしていることは確かである。
北九州市が提案した「大連市環境モデル地区計画」がODA案件として国との共同事業となり、両市とも国連環境計画UNEPから「グローバル500」を受賞するという成果をあげたように、いま中国との関係ではODAを減らすのではなく、中国の抱える悩みをともにする支援を、自治体同士を通じた「地域から地域へ」の援助とすることで、貢献度は見違えるほど明らかになる。とくに「開放政策」によって生じた地域格差で取り残されている内陸都市の農村への援助(宇治市による咸陽市など)は、小さくとも友好の絆はいっそう太く深まる。
国は、地方への財源と権限移譲のひとつとして、とくに海外友好活動への支援を明確にすることで、実効のある「中央から地方へ」の潮流を呼び起こし、「国が輝くだけでなく、自治体によって国が輝く時代」への施策をすすめることだ。
とこうするうちに、経済成長をなし遂げた「優れた小国」の高年者が発揮する技術援助や人的交流への貢献が、国際レベルでの日本への信頼を着実に形づくっていく。そして何より喜ばしいことは、海外の市町村との地道で実質的な交流活動が、その経過においてわが国が、
「恒久平和をめざしている優れた小国・文化大国」
であることを、海外各地からの発信によって明らかにしてくれることである。「文化大国」なら大国意識を競っても誇ってもいい。 
*・*さびれた中心街の活性化*・*  
「モノと暮らしの情報源」
二〇年ほど前までは、あれほど地域住民みんなに親しまれていた商店街だったのに。
「ここまでさびれちまった商店街にもう未練はないね」と通りすがりの人から言い放たれるのが一般的。「シャッター通りになんか同情しない、コンビニとスーパーがありゃいいじゃん」と若者から無視されるのが風潮。
M市駅前通りにも「みんなに親しまれる商店街」というキャッチフレーズは掲げられているが、空き店舗が目立つ商店街は、活気が間引かれていて親しみようがない。歩いて商店街にいっても楽しくない。ものを買うだけなら、家にいたってインターネットの「電子モール(商店街)」、テレビ・ショッピング、それに通販。クルマで外に出れば、バイパス沿いに大型スーパー、ファストフード店、町なかには駐車場設備のあるコンビニが網をはっている。変幻自在なこういう商品流通の包囲網のなかで、旧市街から駅へ通じる駅前通り商店街はさびれるにまかされてきた。移動がクルマ中心になる一方で、日用品が国産から安価な途上国商品になるという多重攻撃にさらされて求心力を失い、顧客の足が遠のいていった。
一九八二年が小売店のピークだったという。そのころは全国に一七二万店、商店街は一万四〇〇〇カ所あったという。数もそうだが街に人をひきつける活気があった。元気がもらえたのである。歩行型住民にとって「モノと暮らしの情報源」であった中心街の崩壊。 
「地域の顔の活性化」
まず細々と商いをしていた小売店で儲けが出なくなり、投資ができなくなり、将来に魅力を失って後継者がいなくなった。明らかな「構造の問題」だったが、原因は商店主の才覚の有無に封じこめられ、煤を払った神棚にむかって創業の先人に不明をわびながら、商店主たちは店を閉じたのだった。じわりじわりと鉄道客やバス客が減りつづけ、商店の店じまいの時間が早くなった。それとともに商店街に防犯用シャッターが増え、街を歩く人びとへの親しさを閉ざしたのは商店街のほうだった。めっきり人通りが減り、店内で話し込む客の姿も少なくなった。
中心街の道筋の中心にどっしりと店を構えていた古手の商店までが、「え、あの店も?」といった話題になりながら消えていった。
まことに惜しまれるが、その中には江戸期からの歴史を持ち、「地域の顔」を支えていた特産品の毛筆・べっこう・陶磁器といった工芸品の店、呉服・和紙といった伝統品の有名老舗までが失われていったのである。地味に地方出版を手がけて、地域文化の拠点となってきた老舗書店も、大型店舗の出店のあと、しばらくして灯りを消したのだった。
そしてついには地方の流通を支える砦であり、地域住民に馴染みの濃かった地元資本の百貨店が、宇都宮市の上野百貨店や和歌山市の丸正百貨店といった有名店舗の経営不振が伝えられるのと前後して倒産し、市民に商品流通の変貌を納得させることになった。
  二〇年ほどでこうも変わるものか。
それなら、これから二〇年でどう変えればいいのか。さびれた中心市街地を回復させようという「中心市街地の活性化」のための「中心市街地整備改善活性化法」が遅きに失してスタートしたのが一九九八年七月だった。(二〇〇七年四月に「中心市街地活性化基本計画認定申請マニュアル」を改定)
街を構成する商業者、地域住民、それに市民団体、企業、専門家などが参画して「中心市街地活性化基本計画」を確定して推進するもので、これまでに「基本計画」を提出したところは、六三〇市区町村を超える。決して少ない数ではないし、対象地区には県庁所在地や中核市から小さくとも歴史的な城下町や宿場町、門前町、港町などがそれぞれ独自の活性化に取り組んでいる。知恵をしぼってアイデアを競って「特性のある市街地づくり全国コンペ」といった観すらある。問題は「街の高年化」をどう取り込むかにある。
城下町では「街なか回遊」(彦根市)・「回廊」(会津若松市)、港町では「みなとみらい21・OLD&NEW」(横浜市)・「港町スクエア」(気仙沼市)・「海DO戦略」(下関市)、そして「まるごと博物館」(有田町)、「都市型高感度市街地」(宝塚市)・「体感スポット点在のまち」(久留米市)、「ファッション・ジュエリー都市」(甲府市)・「リ・グラスのまち」(水俣市)、「こみせ・まちづくり」(黒石市)・「詩情公園都市」(小諸市)・「市(いち)の復権」(市原市)、「まちんなかづくり」(臼杵市)・「へそのまちのへそづくり」(富良野町)・・。
街並みや商店街の整備、歩きやすい環境づくり、いこいの場の設置、観光資源や歴史資源の活用、イベントなどに特性を活かしたまちづくりが企図されており、外づらの目立つ成果は処々で姿をみせつつある。
しかし注意しよう。事業がこれまでと同じ手法を踏襲しているところ、つまり中央官庁の監視のもとで、自治体が主導し、商店街の代表とコンサルタントと建設業者が合議し、おかかえ学識経験者が追認するという形で進行して「基礎構造の整備」を完了したところから、さあ住民参加とするような旧態の手法では、中心街としてよみがえることはない。結局は不況下での施行業者救済のための「公共事業」として終わることになる。それは「活性化された中心街」の姿をみればすぐわかる。 
*・*買い物と遊歩を楽しむ「四季型中心街」*・* 
「駅前通り商店街」
何代もかかって、あの戦災を乗り越えて形づくられてきた商店街だったのに、わずか二〇年余でさびれてしまうなんて、何が起こったというのだろう。
全国各地の「駅前通り商店街」(「銀座通り」も多くある)では、毎朝みずから店の前を掃除している商店主の姿が見られ、通りがかりの人へのあいさつに変わりはないが、心中は思いやられる。緩やかな下降のあと、ここ数年はとくに目立って赤字がかさみ、回復のメドも手立てもない。先が暗くても必要としている地域住民がいるかぎり、老舗としてやめるわけにはいかないところまできている。いまわずかに期待をかけている「中心街活性化」だが、構想までの議論は進んだが、そのあと停滞したままだ。
活性化支援事業の中心になる人物を、国では「街元気リーダー」と呼ぶようだが、やや味気ないので、本稿では敬愛して「地識丈人」と呼ぶこともある。
この二〇年の「さびれの経緯」を噛みしめてよく知っている高年者同士である「商店主」と「高年者住民」がともに参加して「基本計画」をつくる。そのプロセスに、商店街を中心とする「街の高年化」への契機が見えるからである。 
「歩行生活圏と車行生活圏」
ここは活性化支援事業にかかわる「街元気リーダー」(地識丈人)のみなさんに聞いてもらいたいところだが、「基本計画」のいう活性化が実現されたあと、「中心市街地」を中心になって支える人びと、つまり安全な「歩行生活圏」で暮らす人びとはだれかということ。「車行(クルマ)生活圏」を持たない人びとによる「買い物+遊歩空間」の形成だということである。
全国のまちづくりの中にも、「歩くまち」(秩父市・倉敷市・安来市など)はテーマになっている。高年化社会への移行を見越して、「買い物空間にとどまらず、心地よく歩いて過ごせる時間消費型の生活圏をめざす」として、街を歩行者モール化する都市もある。
おもな利用者は、日課として小一時間ほどの散策に出動し、暮らしの情報源とする高年の人びと、日用の買い物をする母親たち、それに安全な「居場所」をえた子どもたちである。
「街に子どもたちの姿や歓声が聞こえないようなら活性化に明日はないですよ」と商店会を代表して「基本計画」作成に参加しているUさんは熱意をこめてそう語る。日課としてやってくる人びとが安全に過ごせる歩行生活圏の中心街。おじいちゃんと孫が、母と子が、安心して散策や買い物や遊びを楽しめる「三世代のための交流のステージ」である。 
「三世代四季型の中心街」
ここが「市街地活性化」の重点だが、街の景観として「地域の四季」を組み込んだ「四季型中心街」であることだ。「家庭内の高年化」対応のところで「地域の四季」を存分に取り込む暮らしについて述べたが、家から出てすごす中心街にもまた、はっきりと「地域の四季」を感じさせる仕組みが必要なのである。
まちづくりの中にも「歳時記の感じられるまち」(長岡市)や「歩いて楽しむ街、四季が感じられる街」(盛岡市)をめざすところがある。
これまでは「歳末」(冬)と「中元」(夏)の二季だけだった催事を、季節ごとの「四季の催事」として構成し直し、住民が季節ごと「折り折りの街空間」を楽しみにしてくり出し、さらに次の季節への期待を抱けるような演出に、賑わいを取り戻す契機がある。その演出者は地元の「街元気リーダー」(地識丈人)である「商店主」と「高年者店員」と「高年者住民」が担う。二季型から四季型へ。そしてさらに「三世代四季型の中心街」へ。これなんですよUさん。
しかし商店会代表のUさんは、首をタテに振らない。理屈としてはわかるのだが、年二回でさえもすぐ次がやってくるというのに「年に四度はムリ」という。ムリして二度ではなく、ムリなく四度、あらたに参画する高年世代が「季節ごと四つのわがまちの景観」を街空間に取り込むんで賑いを呼び戻すのだが。Uさんは首をタテに振れない。
四季折り折りの風物を取り込んだ春・夏(中元)・秋・冬(歳末・新年)を表現する祭事・催事が組み込まれ、季節の装飾がほどこされる。「三世代四季型中心街」の演出のために、わが町の歴史・伝統、産物、風物、人物、文化、芸能、技術といった「地域の特性」に目を配り、「わが中心街」の態様として取り込む。こんなまちづくりの日々を、わが人生と重ね合わせる地元の高年者の活動の成果が期待される。
街の「三世代四季型の商店街」の重要なテーマに子どもたちの居場所である「少年期のステージ」づくりがある。たとえば遊具を固定せず子どものアイデアを取り入れて変化させる児童公園や「一八歳以上はお断り」といった「ブック&ゲーム・センター」。好きな本やメカやソフトに存分に触れながら、友だちと歓声をあげて楽しめる。そんな子どもたちのための安全な居場所づくりは、まちを活性化する重要なテーマである。 
「死に筋商品」
ここで暮らしを支える日用品の流通の業態についても触れておきたい。
流通の主役が二〇年前にデパート(三越)からスーパー(ダイエー)へ、そしていまコンビニエンス・ストア(セブンイレブン)へと移ってきたが、たしかに二四時間営業のコンビニほど近隣住民にとって頼りになるものはない。トップ企業の「セブンイレブン」は全国で一万店舗を展開し、日々、レジで男女別・世代別の売れ筋をチェックして選別し、次々に新製品を投入している。売れない「死に筋商品」は店頭から姿を消してしまう。客は店頭にあるモノ以外には期待できない供給側主導の流通である。優越的地位の乱用は常に潜在している。
こんな供給側主導の流通がいつまでもつづくはずがない。高年者といわずユーザーが求めるのは、コンビニエンス(便利)であるばかりではなく、継続して必要とする商品が入手できることや地域の特徴をもったものや、店頭にある商品にはていねいに説明に応じてくれる「商品知識豊かな店員」がいる店である。 
「(仮)地域流通スクエア」
「商店主」と「高年者店員」と「高年者住民」の協議によって地元商店会が経営するのが「(仮)地域流通スクエア」である。お互いに「カオが見える流通」の拠点であり、商品性の高い「地場季節商品」を主力商品としながら、スーパーやコンビニでは入手できない超コンビニ商品を提供し、地域の人びとの要望をサポートする。商品知識の豊かな店員がいて、高年者が継続して利用する日用品の注文と配達を一手に引き受ける。「中心街の中心核」として、会員である個別商店はもちろん、市役所や郵便局や銀行や病院や学校といった公共機関・施設などとの情報をネットでむすんでいる。
「街の景観」に地域の四季を導き入れ、暮らしの情報源としての「三世代四季型の中心街」を組みこむことで、「中心街の求心力」をつくりだす。そして遠からず「スーパー(超)・スーパー」といえる流通機能をもつ二四時間営業の「(仮)地域流通スクエア」(名称は随意に)が登場するだろう。 
「買い物+遊歩空間」
わが街が次の季節の訪れが待たれるような「三世代四季型の中心街」として活性化されることになれば、「クルマ生活圏」と共存する「歩行生活圏」として親しまれる「わがまちの中心街」が再生され、やがて創生されることになる。
「商店街って、おもしろいじゃん」と、通りかかった無季節・無機質そだちの若者たちがいうだろう。高年者が意識して日課として動き出すとともに、地域の中心街もまた動き出す。三世代の住民が生活圏にある「買い物+遊歩空間」をたいせつにするうちに「三世代のための四季型中心街」への変貌がすすむ。近隣に住むだれもが小一時間ばかり、散策や買い物や遊びのためにやってくる。「季節の風物」に安らぎながら、ふと出会った知人と気軽に会話を楽しみ、テラスで一杯のコーヒーと店の自家製ケーキを、あるいは老舗で一服のお茶と和菓子を味わう。高年者同士ひとときお国ことばで語りあい、暮らしの声や音を快く聞き、子どもたちの遊ぶ声を聞き、街の臭いを胸に収めることができる街。みんなでつくるそんな「三世代四季型中心街」なら、今日にでも行ってみたい。 
「シニア専門放送局」
「高年化社会」で暮らす高年者にとって愉快なのは、地元の高年者からの要請を受けて地元のテレビ放送局がすすめる「番組の高年化」である。地域情報を提供するメディアである各地のテレビ放送局が、高年者に特化した「シニア番組」を構成する。キャスターは若づくりを気にせず、本音で語り、出演者と本気で切り結ぶ番組をつくることになる。
生活感に欠けるスプライト(妖精)系の美人アナや物知り顔で舌先なめらかなコメンテーターのかわりに、トツトツとしたお国訛りの語りのうちに経験や知識が光るような人物が中心の番組がいい。現場からの生活感ある情報がナマで伝わるような番組をどしどしつくることだ。
高年者向けコマーシャル製品はいくらでもあるから、広告収入の心配はいらない。高年者が登場するコマーシャルが画一的なのは、出演する側の脇役意識や没個性な扱い方に原因があるが、若い現役の制作者に「高年化社会」に対する想像力が欠如していることが最大の理由である。高年制作者が担当する「シニア専門放送局」が、こまやかな風合いの生活感をもつシニア向け放送をおこなうようになるだろう。
大都市のホテルで、外国からの客人がふと見た映像がこんな番組やコマーシャルだったら、日本人の知性の深さと高年期の人生にかける情熱を知り、「平和で自由で歴史と未来のある国」として率直に認めてくれるにちがいない。