友好都市・風土が絆-未来都市への基盤づくり 

未来都市への基盤づくり   

さいたま市と鄭州市  

大黄河は、青海省に発して渤海にそそぐまで五五〇〇キロの旅をする。そのうち鄭州市の北の桃花峪(海抜九六メートル)から河口までが下流域で、七八〇キロをゆったりと流れている。黄河はこのあたりを支えにして巨龍が首を振るように南に北に河道を変えてきた。先の日中戦争の際に、一九三八年六月、蒋介石軍が堤防を切ったのは旧河筋を利用した濁流で日本軍の進撃を阻止するためだった。その地点が鄭州市北の花園口だった。

鄭州市は、黄河文明発祥の地で「華夏文明の揺籃」といわれる河南省の省都である。黄河の南岸にあって、西に洛陽市、東に開封市という歴史文化地域をつなぐ位置にある。中岳崇山や少林寺にも近い。市内に商代の城壁が残る中国八大古都のひとつである。歴史上の人物とその古跡も多い。まずは黄帝故里、玄奘故里、杜甫故里、少林寺の塔林には高名な日本僧のものもある。現在も中原地域の政治、経済、文化の中心で、科学肥料、機械、食品、薬品などといった工業が盛ん。大陸を横断・縦断する鉄道と高速道路が十字にぶつかる交通路の要衝である。人口は約二六〇万人。

鄭州市と浦和市(当時)との友好都市提携をすすめたのは日中友好協会浦和支部だった。友好協会の関係者が行き来するうちに、埼玉県の県都浦和市と河南省の省都鄭州市との提携を中日友好協会が推薦することになり、両市での調整を経て合意をえて実現した。

八一年一〇月一二日、浦和市へ鄭州市友好代表団を迎えて、徐学龍市長と中川健吉市長が友好都市提携の議定書に調印した。これを機に三〇年間にわたって井戸掘り役をつとめてきた協会浦和支部は官民一体の「浦和市日中友好協会」となり、市長が会長に就任した。浦和市は二〇〇一年五月に大宮市、与野市と合併して、さいたま市となった。友好関係は新市にそのまま受け継がれている。

さいたま市は、古くは中山道・日光街道の宿場町としての歴史をもち、現在は東北・上越新幹線ほかが結節する交通の要衝である。首都圏の北の中核都市として三市が合併して誕生し、〇三年四月には全国一三番目の政令指定都市となった。〇五年にはさらに岩槻市が加わり、大型合併都市としてのこれからが注目されている。人口は約一一八万人。

両市の友好交流の実績としては、自治体、議会、市民による訪問団派遣、教育交流、園芸交流など。とくに目立つのが青少年のスポーツ交流である。Jリーグの浦和レッズと大宮アルディージャを持つさいたま市は、県主催の「国際ジュニアサッカー大会」を成功させてきた。鄭州チームをふくむ姉妹・友好都市チームを通じてのジュニアの国際交流を熱心におこなっている。

さいたま市の国際交流は新たな構想で始まったばかり。一方の鄭州市もいま新都市建設の真っ只中にある。空港は南の新鄭に移ったが、その跡地をふくむ鄭州市鄭東新区の新都市計画(一五年完成)は、黒川紀章氏の設計により始まったばかり。お互いに未来都市への脱皮をはたし、相互互恵の立場で、さいたま―鄭州が友好都市交流の成果を得るにはまだ間がありそうである。(二〇〇八年九月・堀内正範) 

 

友好都市・風土が絆-工業都市化の実務を支援

工業都市化の実務を支援

明石市と無錫市  

海峡交流都市――明石。
古代から都と大宰府を結ぶ海上交通の要衝として栄えてきた。旅の途中で柿本人麿が詠んだ、
「天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」
も、紫式部が『源氏物語』の「明石の巻」で書いた浜辺の情景も、古代から人と物資が行き交う景勝の地であった明石の特徴と魅力を伝えている。

世界最長の吊り橋(中央支間一九九一メートル)である明石海峡大橋は、明石市ではなく神戸市垂水区と淡路市を結んでいるが、かつては明石と呼ばれていた地域である。また明石市は東経一三五度線上にあって日本標準時を知らせる「子午線のまち」でもある。人口は約二九万人。

日中国交回復が実現(一九七二年九月二九日)した翌年の一九七三年に、「全国自治体首長訪中団」の一員として、衣笠哲市長が参加し、その滞在中に神戸ー天津が初の友好都市(七三年六月)となった。同じ県にある明石市として、衣笠市長はお互いに古代から海上交通の要衝として知られた「寧波市」との提携を中日友好協会側に申し入れて帰国したのだった。  

だが、現地側の事情もあって、唐家璇中日友好協会理事から無錫市を推薦する助言があった。明石市は、七五年に改めて江南の景勝地で古い歴史をもつ無錫市との提携希望を中国側に伝えた。七七年には衣笠市長を団長とする「第一次明石市各界代表友好訪中団」が無錫市を訪れている。その後も市議会代表、教職員、市民などが相次いで訪問し、友好を深めた。 

友好都市提携の調印式は、八一年八月二九日、無錫市で催され、当日の模様はKDDの協力で両会場を結んでおこなわれた。無錫市の馬健市長と明石市の衣笠哲市長の調印のようすや挨拶が双方に同時に伝えられ、両会場を市民の拍手と歓声が包んだのだった。

無錫市は、上海と南京の中間に位置し、大運河が市内を貫通している。南に臨む太湖は淡水で、琵琶湖のほぼ三倍ほど。無錫の歴史は古く周代に始まり、蘇州に移るまでは呉国の都だった。錫山で大量の錫がとれたことから有錫と呼ばれていたが、後漢時代に錫が採れなくなって無錫の名になったといわれがある。南の越国が呉王に送った美女西施と功臣范蟸の故事にちなむ蟸園がある。総合工業都市として発展している。人口は約四三〇万人。

両市の友好交流は、友好代表団の相互訪問、研修生の受け入れ、物産展の開催、友好校提携など。あずまや「明錫亭」(八四年・明石市に)の建設、山水画・書道の交流、月照寺から無錫市の開源寺に梵鐘と鐘楼の贈呈(八五年)もおこなった。「江南の文物展」(一〇周年)、教育、歌舞、武術・太極拳、柔道、料理、梅、生け花交流など暮らしの文化交流もある。

 二〇周年に当たった二〇〇一年に、歩道橋事故に見舞われた明石市。その中でも「江南の文物Ⅱ―南京博物院・無錫市博物館特別展」や「無錫市・明石市児童作品交流展」が催されて、市民の心を明るくした。最近は工業都市化のすすむ無錫市から、環境、都市計画、交通管理といった実務型の研修生を受け入れて支援している。民間の投資・貿易による「春華秋実」(二〇周年記念友好旗)にはまだ遠い道のりである。無錫市は、その後八五年に相模原市とも友好都市となっている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-北の大地と開拓者魂

北の大地と開拓者魂

札幌市と瀋陽市  

北の大地――北海道。

一八六九年の北海道開道とともにその中心地としての地歩を刻んできた札幌。北海道には、全国各地からさまざまな暮らしの伝統や文化を持つ開拓者が移住して、進取の気性あふれる開放的な地域を形成してきた。

札幌市は、北方圏の拠点都市として、「世界とむすぶ高い文化のまち」(市民憲章)をめざしている。人口は約一八七万人。

一方、奉天府として清朝の陪都だった瀋陽。一六二五年に後金(のち清)を建てたヌルハチが盛京として都と定め、北京遷都後も陪都とし、奉天府を置いた。いまに壮大な瀋陽故宮が残っている。清末騒乱期の一九〇五年、日露争奪の大激戦地となり、双方で約一六万の戦傷者を出してついに日本側の勝利に終わった。三月一〇日に、日本軍は「奉天入城」を果たしたのだった(のち三月一〇日は「陸軍記念日」になった)。

さらにその後の三一年九月一八日には、北郊「柳条湖」での線路爆破が「満州事変(九・一八事変)」の勃発となり、全土に抗日運動が拡大した。瀋陽市には「九・一八事変陳列館」が設けられている。奉天時代に二度も日本軍の入城を経験しているまちなのである。製鉄の鞍山、石炭の撫順が近く、瀋陽自身も鉄、石炭、銅、鉛、ニッケルなど二〇種類もの地下資源を産出する。六路線が交差する鉄道交通の要衝である。いまは遼寧省の省都であり、多民族が共和して住む東北地区の中心都市である。人口は約七四〇万人。 

平和の時代を築くための友好都市として、札幌市には「往来がしやすく、緯度が似通っている都市」という希望があり、東北地区の瀋陽市を対象とする交渉は、板垣武四市長が、七五年一一月に北海道市長会友好訪中団の団長として瀋陽市を訪れ、好印象を得たのが契機となった。

七九年五月に「中日友好の船」で札幌を訪れた孫平化副団長(中日友好協会秘書長)との話合いで双方の意向が確かめられ、往復書簡や訪問団派遣を重ねて実現に進んだ。八〇年八月に開設したばかりの中国の札幌総領事館は初しごととして取り組み、一〇月には札幌市議会も全議員提出による決議案を全会一致で可決して提携を進めた。 

そして八〇年一一月一八日、両市の友好都市提携の調印式は、宋光市長ら瀋陽市友好代表団を迎えて、札幌市でおこなわれた。板垣武四市長と宋光市長が議定書に調印し、「永遠に輝く日中友好」と「中日友誼万古長青」の文字を染め抜いた友好旗を交換をおこなった。

提携後の友好交流は、寒冷地の水道・道路建設技術協力や市職員の相互派遣をはじめ、幼稚園から大学までの相互交流、障害者、労働組合、デパート、放送、観光、スポーツなど、さまざま分野におよぶ。往来には札幌―瀋陽を週二便の直行便が三時間で結んでいる。

二〇〇五年は二五周年にあたった。一一月には瀋陽市で記念式典が開かれ、「札幌の日」が設けられ、文化紹介や商談など、新たな交流にむけた活動がおこなわれた。
瀋陽市は川崎市とも友好都市提携をしている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-東北同士の類似都市

東北同士の類似都市 

仙台市と長春市(吉林省) 

東北を代表する類似都市―といえば仙台市と長春市で異論はないだろう。
日本の東北地方最大の都市仙台市と中国の東北地区中央に位置する重要な歴史都市である長春市。

日中両国の友好都市提携が、比較的に交流の歴史の古く長い九州地方や近畿地域で進むなかで、仙台市は、市の成り立ちがよく似た性格を持つ東北地区の都市との提携を希望として中国側に打診したのだった。
中日友好協会の廖承志会長から長春市との提携について提案があったのが、一九七九年七月のことだった。その後、文書の交換や先遣隊の派遣などを通して合意に達した。

そして長春市代表団を迎えて、八〇年一〇月二七日、馮英奎市長と島野武仙台市長とが議定書に調印し、東北初の友好都市提携が成立した。

長春市は、建都して二〇〇年余になる吉林省の省都である。「一汽」(長春第一自動車工場)のトラック「解放」で知られるが、ほかに機関車、客車、トラクターなどの工場がある。吉林大学など二五の大学、一〇〇余の研究所がある緑の多い文化・芸術都市でもある。満族、朝鮮族、回族、蒙古族、壮族など四六の少数民族が在住する。近代の歴史の渦中にあっては、一九三二年から四五年のあいだ「偽満州国の首都・新京」として戦禍を免れえなかった。

愛新覚羅溥儀が執政した建物は「偽満皇宮」の名で博物館として保存されている。また官庁街は吉林大学などの施設として利用されている。かつての満映は長春映画撮影所として生まれかわり、有名な「白毛女」などを送りだし、長春は「電影城」と称された。二〇〇五年には「長映世紀城」がオープンしている。〇七年にはアジア冬季大会が開かれた。人口は約七一八万人。

仙台市は、人口約一〇二万人を擁する東北最大の都市。一六〇一年に仙台藩の城下町として伊達政宗によって開かれた。緑と文化の街で「杜の都」と呼ばれる。市内を清流広瀬川が流れ、青葉通りのケヤキ並木が街を彩るなど、環境先進都市を誇る。

両市の友好交流は、各界で着実に進められてきた。市代表団の相互訪問、行政各課の研修生の受け入れ。さらに経済視察団、「仙台フェア」「長春展」といった展示会。学術、医療交流。中学校・高校の友好校提携、児童絵画展、少年少女合唱隊、雑技公演。動物交換。放送、観光、サッカー、卓球、ロードレース、茶道、書法、囲碁のスポーツ・文化交流。在住日本人孤児の激励や「長春中日友好会館」(九八年)の開設など。多彩な成果を積み重ねてきている。

二五周年にあたる〇五年、五月一三日には祝業精市長を団長とする長春市代表団が仙台市を訪れ、藤井黎市長と会見した。両市長は新たな交流を誓い、仙台で学んだ魯迅の碑に献花した。仙台時代の魯迅についてはあわら市のところで述べている。

「二五周年記念写真展」の作品には、歴史に学びながら新たな信頼に根ざした四半世紀にわたる両市の交流の成果が、かけがえのない平和友好の証しとして写し出されている。

 東北同士の仙台市と長春市が世紀にわたって蓄積する友好交流の成果は、そのまま日中両国都市の友好交流を代表する「平和の絆」の証しとして、ひとつの標準を示すことになるだろう。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

 

友好都市・風土が絆-都市形態の類似性を活かす

都市形態の類似性を活かす

久留米市と合肥市(安徽省) 

中国の省都(省会)のうちにはわが国との長い関係もあってよく知られたところが多い。長江流域でも南京市(江蘇省)、武漢市(湖北省)、成都市(四川省)はそのうちだが、なぜか安徽省の合肥市は知られる機会がなかったうち。

歴史は古く、秦が合肥県を置いた。三国時代には、曹操配下の張遼が拠り、孫権の大軍を寄せ付けなかった「合肥の戦い」が有名。宋代の清官として京劇にも登場する包拯や近代では日清戦争の講和条約(下関条約)で全権大使をつとめた李鴻章の生地。

化学工業のほか先端技術開発をすすめ、近年はハイテク産業の誘致にも務めている。伝統産業としては、文房四宝(筆・硯・紙・墨)がある。理工系の有名校、中国科学技術大学がある。人口は約四六〇万人。 

将来の交流の発展性を考慮すると久留米市は大物を提携相手としたともいえよう。
久留米市は、すでに七一年に商工会議所主催の「中国物産展」を、七二年には「久留米中国展」を催しており、早くから市民の間には中国の都市との友好交流の機運が高かった。

一九七九年六月に「中日友好の船」が博多港に入港した際に、郭献瑞副団長(北京副市長)が久留米市を訪れた。これを契機にして、市内各界代表からなる日中友好都市促進期成会が発足し、友好都市の候補選定が本格化した。

都市形態が類似していることで選定されたのが合肥市だった。久留米市は直接に書簡を送って希望を伝え、友好都市提携の申し入れをおこなった。これに駐日中国大使館も支援を表明、八〇年四月に久留米市長が招請に応じるかたちで合肥を訪れて協議し、合意をみた。

そして八〇年五月一二日、合肥市からの友好訪問団を迎え、団長の魏安民市長と近見敏之市長が友好都市提携の議定書に署名した。市民約一三〇〇人が見守る式典会場(石橋文化ホール)で友好旗を交換し、友好都市宣言をおこなった。

久留米市は、筑紫平野の中心にあり、自然の恵みを活かした独自の文化や産物を築いてきた拠点都市である。江戸以来の絣、足袋、ゴムなどは地場物産を超えて近代化のなかで産業化された。また近代に画家の青木繁、坂本繁次郎らを輩出したことでも知られる。市町村合併で人口が約三〇万人となり、中核市をめざす。

主な友好交流は、両市の代表団の相互訪問をはじめ、都市建設・農業・教育・環境などの行政交流、技術研修生の受け入れ。孔雀(久留米)と丹頂鶴(合肥)といった動物交流、美術展・歌舞団公演などの文化交流。小学校同士の友好学校、中学生相互派遣、サッカー、卓球など青少年・スポーツ交流。さらには日中友好協会や各種市民団体同士による民間交流など、さまざまな分野での友好達成の努力が、着実に積み重ねられている。 

二〇〇五年は二五周年に当たった。記念式典は〇五年一〇月に合肥市で実施された。式典・植樹のほか、「合肥―久留米友好美術館」での合同美術展、新装なった長江大劇場での市民吹奏楽団と市歌舞団による合同公演がおこなわれた。江藤守國市長と郭万清市長が新協議書を交わし、両市は各分野での交流を深めていくことになった。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・風土が絆-環日本海の「面」の交流

環日本海の「面」の交流

新潟市とハルビン市(黒龍江省) 

ハルビン、中国語では哈爾浜。

その名は白鳥(満州語)からとも、平地(モンゴル語)からともいわれる。わが国の近代史では、一九〇九年にハルビン駅頭で、伊藤博文(当時枢密院議長)が安重根によって暗殺されたことで知られる。一九世紀末のロシアによる鉄道敷設で開かれ、ロシア風のまちづくりがすすんだ。いまもロシア風の建物が見られる国際都市。シンボルとして残る聖ソフィア大聖堂は博物館となっている。 

ハルビン市は、中国東北地区の経済・文化の中心であり、黒龍江省の省都である。松花江が市内を流れる。平均気温は三・八度。新潟が「水の都」に対してハルビンは「氷の都」と称される。機械、医薬、ハイテク産業が盛んで、農産物は大豆やジャガイモが特産である。ロシア語や日本語教育で実績のある黒龍江大学は有名。人口は約九四八万人。

新潟市は、信濃川河口に位置する日本海側最大の都市である。新幹線で東京へ二時間。九八年に定期航空路が開設されてハルビンまでも二時間である。古くから米どころの港町として発展してきたが、とくに安政の通商条約(一八五八年)で外国に対して開かれた五港のひとつに指定されたことで海外との交流が進んだ。ロシアのハバロフスク市、ウラジオストク市とも姉妹友好都市関係を結んでおり、とくに環日本海地域での「面」の交流の拠点都市として成果を蓄積してきている。都市と農村が調和した「田園型政令指定都市」をめざす。人口は約八〇万人。

中国との友好都市提携にあたっては、戦前に多くの新潟県人が黒龍江地域に渡ったこと、戦後にも同省の土地改良事業に協力してきた関係などから、黒龍江省の省都であるハルビン市との提携が模索された。そして一九七九年一二月一七日に、新潟市にハルビン市友好代表団を迎え、文敏生市革命委員会主任(市長)と川上喜八郎市長とによって友好都市提携の議定書の調印がおこなわれた。日本海側都市では初、全国では一四番目だった。 

両市の友好交流として、新潟市は市民病院や水道局、環境対策課、国際課などへ研修生を受け入れてきた。いまや新潟市で学んだ医学研修生が医療技術協力の第一線で活躍するまでになっている。八九年の一〇周年記念にはハルビン市内に「ハルビン・新潟友誼園」が建設されたが、その際には市民募金も展開した。ハルビン物産展や九七年以降は毎年「ハルビン経済貿易商談会」に新潟ブースを出展している。小・中学生の相互交流、市民レベルではハルビン市の「氷彫刻・雪像コンテスト」への参加、太極拳交流など多彩である。九八年に両市間の定期航空路が開かれ、新潟・ハルビン・ハバロフスク三都市を結ぶ「三角航空路」が実現している。三市による「環境保護会議」(二〇〇一年から)では、共有する課題の意見交換をつづけている。二〇〇二年には、ハルビン市からライラック(市の花)の苗木の提供を受けて新潟市に「ライラック通り」が完成した。

二五周年の二〇〇四年には、今後の指針となる「覚書」を交わした。中国経済の急速な発展を受けて中国企業の日本進出誘致など新たな経済交流や観光ビザ緩和による中国旅行客の来訪といった観光での交流を強めることとなる。

〇五年一一月に新潟市で開催された見本市・シンポジウム「食と花の世界フォーラム・にいがた2005」へはハルビン市はじめ交流都市が参加した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

友好都市・風土が絆-環境保全と観光立市 

環境保全と観光立市  

熊本市と桂林市(広西壮族自治区) 

山水画のふるさと―桂林。

四方を奇峰奇岩に囲まれて漓江はゆったりと南へ流れる。桂林から九〇キロ下流の陽朔までの漓江は、山と水が織り成す独特の美しい景観を楽しむ中国有数の観光名勝である。

桂林市は、八二年に指定された第一回の「国家歴史文化名城」二四カ所のひとつである。秦始皇帝によって桂林郡が置かれ、明清時代は広西地域の中心 (省会)であった。一九四〇年に市制に。四四年には一時、日本軍に占領されたこともある。広西壮族自治区の東北部に位置し、市の中央を漓江が流れる。郊外二八キロに桂林両江国際空港があり、各都市と結んでいる。桂林動物園ではパンダに出会える。もちろん市の樹も市の花も桂である。人口は約四八〇万人。

熊本市は、九州の中央に位置する城下町である。一六〇七(慶長一二)年に加藤清正が現在地に熊本城(隈本を改めて熊本に)を築き、その後は細川氏が肥後藩主となって、学問好きで剛直な「もっこす気質」を育てた。藩校時習館は一七五四(宝暦四)年の開設。明治期には五高に加納治五郎、小泉八雲、夏目漱石が着任したことで知られる。徳富蘇峰も活躍した。これまで市議会は、「森の都」「地下水保全」「健康」「平和」「環境保全」「スポーツ」「観光立市くまもと」といった都市宣言をおこなって市民活動の指針としている。国際交流会館が中心になって、情報サービスや留学相談、在住外国人と市民の交流の場を提供している。人口は六七万人。

熊本市と桂林市との友好都市提携は、熊本市の市制九〇周年に当たる一九七九年を機に友好都市締結についての機運が市議会、市民に高まり、五月に「中日友好の船・明華号」で来日した廖承志団長(中日友好協会会長)から、桂林市との提携提案がなされて、「長い歴史と風光明媚な景観」をもつ都市同士ということで、実現へとむかった。

さっそく七月には熊本市の先遣団が協議のために桂林へとんだ。そして一〇月一日には、熊本市へ桂林市革命委員会の梁成業主任(市長)を迎えて、熊本市の星子敏雄市長との間で友好都市提携の調印にこぎつけたのだった。

その後の友好交流では、熊本市からの「市民の翼」訪問団がすでに二三〇〇人に及んでいることからも、桂林の観光地としての魅力が知られる。おもな合意事項としては、地球環境保全にむけた取り組み、観光協力、文化交流による相互理解、それに高校生・留学生の相互派遣などがある。

二〇〇四年は提携二五周年に当たった。新たな交流内容を協議するために、八月に幸山政史市長らの代表団が桂林市を訪れて、王躍飛市長と覚書を交わした。九月には熊本市で「桂林週間」を催し、映像、展示、文化体験、民族音楽などによって桂林市の現況を紹介した。

両市の友好交流の成果として、合作映画「チンパオ」(陳宝的故事。中田新一監督)がある。九九年に平和友好条約締結二〇周年を記念して制作され、全国巡回で放映された。大戦さなかの桂林が舞台、一頭の子牛をめぐる熊本出身の軍曹と少年陳宝との物語である。戦場の村で軍曹も牛も陳宝も死ぬが、最終シーンの漓江の水田で働く農民と牛と子どもの笑顔は、平和のシンボルとして生きつづけることとなった。(二〇〇八年九月・堀内正範) 

 

 

友好都市・風土が絆-中京と南京の史的役割

中京と南京の史的役割

名古屋市と南京市(江蘇省)

中京と南京。

両国のふたつの重要な拠点都市、名古屋市と南京市を友好都市とする提案は、「日中平和友好条約」の批准書交換のために来日中だった鄧小平副首相の歓迎宴でなされた。席上で、中日友好協会廖承志会長から友好条約締結のあと最初の友好都市とする提案として発表されたのだった。七八年一〇月二四日のことである。

おりしも「名古屋市民の翼友好訪中団」(公募市民五五人を含む一三八人)を率いて上海市にいた本山政雄市長には、孫平化中日友好協会秘書長から伝えられた。訪中団から田辺広雄市議会議長らが急遽、南京へと向かった。一一月には名古屋市議会と南京市革命委員会常務委員会の了承をえた。

そして同年一二月二〇日に、日中友好の機運が盛り上がる中に南京市代表団を迎え、一二月二一日に名古屋市役所正庁で提携の調印式をおこなった。関係者三〇〇人余が見守るなかで、儲江南京市革命委員会主任(市長)と本山政雄名古屋市長が両市を代表して調印した。

南京市は、中国七大古都のひとつで、三世紀の呉をはじめ一〇王朝が都を置いた。南京を称したのは明を建てた朱元璋。近代には一九一二年一月、南京を首都と定め、孫文が臨時大総統に就任して「中華民国」が成立した。以後、北伐期には国民党軍により十数万人の愛国志士と市民が犠牲となり、三七年一二月の日本軍による南京陥落では「三十数万人の受難同胞」を出した。「雨花台烈士紀念館」と「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」がそれぞれ設けられて、ともに全国愛国主義教育の拠点となっている。「中山陵」は孫文の死後、二六年に着工し二九年に完成。北京の碧雲寺から遺体を移して六月一日にここに安置した。長江の南岸にある江蘇省の省都。人口は約五六三万人。

名古屋市は、慶長一五(一六一〇)年の徳川家康による名古屋築城と城下町づくりに始まる。以後育まれた「モノづくり」の伝統は、近代になって自動車、陶磁器、バイオリンなどを生み出す基盤となった。一八八九年に市制施行。二〇〇五年の「愛・地球博」ではホストシティーをつとめる。日本のほぼ中央に位置し、東西の大都市圏の間にあって国際交流時代にふさわしい都市をめざしている。人口約二二〇万人。

両市はともに工業都市であり、とくに経済分野の交流は使節団の訪問、技術研修生の受け入れや指導員の派遣、工業産品展示会、商店街の友好提携ほか多岐に及んでいる。動植物交流も多い。八九年の名古屋市制一〇〇年の「世界デザイン博覧会」には南京明朝王公貴族文物展を開催した。名古屋市からは救急車やごみ収集車、観覧車などの寄贈もおこなっている。

二五周年の二〇〇三年には、南京市からは市章にもなっている神獣「辟邪」が、名古屋市からは「金鯱」が記念に贈られた。「南京城壁修復」事業が一〇周年を迎えた〇五年、日中友好協会は九月六日に南京につどい、日中友好運動の原点を再確認し、新たなステップとする記念行事をおこなった。

二〇〇八年は三〇周年にあたる。(二〇〇八年九月・堀内正範)

 

 

 

友好都市・港が絆-国際観光の優れた標識都市

国際観光の優れた標識都市

別府市と煙台市(山東省)  

日本からの最初の遣唐使は、六三一年に山東半島北部の登州に上陸している。いまの煙台市である。明朝になって一三九八年、倭寇防御のために烽火台を築き、煙台と呼ぶようになった。さらに遠くは秦代に、徐福が不老長寿の仙薬を求めてここ(蓬莱)から海を渡ったと伝えられる。どれもあまり知られていない煙台と日本との絆である。

煙台市は、山東省北東部にあって黄海と渤海に面している。古くから芝罘(チーフー)と称された歴史都市でもある。蓬莱というのは、蜃気楼が発生することであらわれる「仙境」で、海中にある仙山や仙薬のありかを映しだしたとものと考えられた。そのことが、ここから徐福が渡海した背景にあるのだろう。

一八六一年の中仏通商条約で開港し、以後、英、米、日、独、伊、露、仏など一七カ国が領事館を開設した。その当時からの建物が市内に多く残されている。ワイン、リンゴ、じゅうたん、水産品が特産。開発区には日本企業も進出して活況を呈している。煙台市には養馬島に温泉があって、海のむこうに仙境蓬莱の日本が見られるかもしれない露天風呂もある。〇八年七月には市内にJASCO煙台店も開店している。全国優秀観光都市のひとつで、人口は約四四七万人。 

 別府市は、大分県東海岸の中央に位置する観光都市。古くから「別府八湯」と呼ばれる温泉群が点在し、江戸時代には貝原益軒の「豊国紀行」にも静かな湯治場として記されている。二九〇〇余の源泉は湧出量とともに全国一を誇る。戦災をまぬかれた観光温泉地として発展し、また学術・文化交流を進める「国際観光温泉文化都市」という役割を果たしている。年間の来客数は、約一一〇〇万人。市の人口は約一二万人である。 

友好都市について、当時の別府市長から市日中友好協会が折衝の要請を受けたのは、一九八三年一二月のことだった。全国本部に取り次いで駐日中国大使館を通じて働きかけ、八四年一月には宋之光大使から観光都市で形態が類似している煙台市が紹介されたのだった。

さっそく脇屋良可市長を団長とする視察団が八四年二月には北京、済南(山東省の省都)を経て煙台市を訪問し、董伝周市長に友好都市提携の希望を伝えた。一〇月には煙台市からも経済考察団が訪れて、観光施設等を視察した。さらに八五年四月には別府市長が再訪して、議定書作成や調印日程など事前協議をおこなって友好交流を深め、提携への準備を整えていった。

友好都市締結の調印式は、大阪から船で別府入りした煙台市代表団を迎えて、八五年七月二六日に催された。董伝周・脇屋長可両市長が議定書に署名した。

別府・煙台両市の主な友好交流は、市代表団の相互訪問、留学生派遣、経済・文化交流、歌舞団公演など。市日中友好協会は、市を支援して一、五、一〇周年には歌舞団の招聘や物産展を開催した。また桜を贈る運動を展開、九五年の一〇周年には桜一千本を植樹し記念碑を建立(天地公園)、〇五年の一五周年にはさらに一千本(西砲台公園)を記念植樹した。〇四年四月には煙台で桜花を見る訪中団を派遣するなど両市交流に努めてきた。煙台産のぶどうで作った「別府貴人香」は白ワイン。日中国交正常化三五周年を記念して北京でおこなわれた「中日友好都市小学生交歓卓球大会」には五八チームが参加した。四つのブロックで優勝があらそわれて、煙台・別府組は優勝した。

〇五年の二〇周年には、煙台市から友好の証しとして「八仙人彫刻像」が贈られた。 (二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・港が絆-地方都市の経済技術交流

地方都市の経済技術交流

佐世保市と厦門市(福建省) 

福建省と長崎県との交流の歴史は古く長く濃い。江戸初期いらい着実に現在にまで続いている。長崎市と福州市についてはすでに述べたが、省県それぞれの第二の都市である佐世保市と厦門市も友好都市となっている。

鎖国状態にあった江戸時代に、海外にわずかに開かれていた長崎に福建の人びとが唐船に乗って来航して以来、盛んな経済活動を営んできた。日中国交が回復し、友好都市提携がいわれるようになって、一九八〇年にはまず長崎市と福州市が友好都市となり、次いで八二年に福建省と長崎県の友好提携が成立している。 

立地条件の類似性をもつ省第二の厦門市と県第二の佐世保市との交流と友好都市提携は、八一年から双方で実現への努力がなされた。八三年一月には厦門市長から佐世保市との友好都市提携についての国務院承認が伝えられ、これを受けて市の委員会が「厦門市との友好都市締結は適切」との答申をおこなった。同年一〇月二八日、佐世保市に厦門市代表団を迎えて、桟橋熊獅市長と鄒爾均市長(代理李秀記副市長)が議定書に署名し提携が成立した。

佐世保市は、江戸時代までは静かな農漁村だったが、脚光を浴びたのは長崎県の北部に位置する良港として、一八八九年に佐世保鎮守府が開庁したことによる。翌年には構内に造船部を設置(今の佐世保重工業)、一九〇二年には村から一足とびに市制を施行した。

先の大戦中に戦災で市街の大半を焼失したが、戦後いちはやく造船や炭鉱産業で復活した。原潜「エンタープライズ」入港では騒動となった。その後「西海国立公園九十九島」や「ハウステンボス」を有する国際観光都市として展開している。「ハウステンボス」はオランダ語で「森の家」。オランダの町並みを再現したテーマパークである。「ひと、交流創造都市」が市の目標。人口は約二四万人。

厦門市は、福建省南部に位置する観光港湾都市である。九竜江の河口にあり、台湾の対岸に位置する。金門島に近い。明代に城堡が築かれて厦門と称した。

その後、外国船の来航がふえて、貿易拠点となった。一八四二年の南京条約により開港して発展し、ウーロン茶の積出港として知られた。一九〇二年に列強国の共同租界地となり、いまも町並みに異国情緒を残している。厦門島、コロンス島、九竜江北岸沿岸部からなる。経済特区に指定されて急速に発展。人口は約一三六万人。

佐世保・厦門両市の主な友好交流は、市代表団の相互訪問をはじめ、経済貿易交流、技術研修生受け入れ、教育・文化・スポーツ、青少年、音楽・雑技団公演、書画展など。当初は文化交流が主体だったが、地方都市同士の経済交流こそ新たな流れとして、九九年の一五周年を機に発足したのが佐世保厦門経済技術交流研究会である。技術研修生の受け入れ、両市の企業間の交流拡大を目的としている。

地元企業が研修生を受け入れ、技術研修とともに人的交流も担っている。「みんな温かで、困るとすぐ助けてくれる」と評判がいい。帰国した研修生が会社を設立するなどの成果を生んでいる。万里の長城や中華料理を楽しんで、中国を体験し交流した時代は終わり。これから一〇〇年は、商いを通じ、どう中国と関わるかが地方都市の大きなテーマ」と主張する厦門市の光武顕市長は、一歩先を読んで実践に移している。(二〇〇八年九月・堀内正範)