友好都市ものがたり 目次

友好都市ものがたり 目次

第一章 人物の絆      *都市名 提携年月日 *は複数の提携都市があるところ。
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#    風雲流離のひと郭沫若   市川市―楽山市(四川省)  81・10・21
# 湘南の海に眠る聶耳の夢  藤沢市―昆明市(雲南省)  81・11・05
# 維新・革命の先駆を担う    鹿児島市―長沙市(湖南省) 82・10・30
# 藤野厳九郎と作家魯迅   あわら市―紹興市(浙江省)*83・05・18
# 孔子ゆかりの町づくり   足利市―済寧市(山東省)  84・09・21
# 船頭伝兵衛と喜兵衛    気仙沼市―舟山市(浙江省) 97・10・08
# 日中交流の原点に立って  岡山市―洛陽市(河南省)* 81・04・06

第二章 動物・植物・伝統物産の絆   *都市名 提携年月日 *は複数の提携都市があるところ。
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# 伝統工芸が息づく古都   金沢市―蘇州市(江蘇省)* 81・06・13
# フタコブラクダも応援   秋田市―蘭州市(甘粛省)  82・08・05
# 金絲猴が結んだ古城の町  犬山市―襄樊市(湖北省)  83・03・13
# 大杏と林檎が友好の果実  北上市―三門峡市(河南省) 85・05・25
# 酒づくりの技を磨くまち  西宮市―紹興市(浙江省)* 85・07・23
# 「紙といえば」の産地同士 富士市―嘉興市(浙江省)   89・01・13
# 牡丹は群芳に冠たり    須賀川市―洛陽市(河南省)* 93・08・01
# トキが舞う大空の下で   佐渡市―洋県(陝西省)    98・09・22

第三章 鉄・石炭・産業の絆
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#    鉄と福祉で「金蘭の友」に 大分市―武漢市(湖北省)      79・09・07
# 薬がもうひとつの絆    富山市―秦皇島市(河北省)* 81・05・07
# 石炭産業の遺産を活かす  大牟田市―大同市(山西省)  81・10・16
# 石炭産業から新工業都市に いわき市―撫順市(遼寧省)* 82・04・15
# 東北・盆地・物産が絆       山形市―吉林市(吉林省)*  83・04・21
# 最先端技術を駆使する古都 姫路市―太原市(山西省)   87・05・20
# 内陸盆地の鉱産都市    秩父市―臨汾市(山西省)    88・10・07
#   世界をめざす二つの瓷都  有田町―景徳鎮市(江西省)* 96・08・28

第四章 港という開かれた拠点
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# 友好都市の第一号として  神戸市―天津市*       73・06・24
# 近代開港ふたつの東方明珠 横浜市―上海市*       73・11・30
# 表玄関であるという自負と実力 大阪市―上海市*     74・04・18
# 環境国際協力に友好の成果 北九州市―大連市(遼寧省)* 79・05・01
#    海外に扉を開く自立都市  福岡市―広州市(広東省)   79・05・02
# 三方に開く海を恵みに   下関市―青島市(山東省)   79・10・03
#    四〇〇年の国際海路を繋ぐ 長崎市―福州市(福建省)*  80・10・20
#    新亜欧交流の東の拠点   堺市―連雲港市(江蘇省)*  83・12・03
# 地方都市の経済技術交流  佐世保市―厦門市(福建省)* 83・10・28
# 国際観光の優れた標識都市 別府市―煙台市(山東省)*  85・07・26

第五章 風土と都市形態の類似が絆
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# 中京と南京の史的役割   名古屋市―南京市(江蘇省)  78・12・21
# 環境保全と観光立市    熊本市―桂林市(広西荘族)  79・10・01
# 環日本海の「面」の交流  新潟市―ハルビン市(黒龍江省)*79・12・17
# 都市形態の類似性を活かす 久留米市―合肥市(安徽省)  80・05・12
# 東北同士の類似都市    仙台市―長春市(吉林省)*  80・10・27
# 北の大地と開拓者魂    札幌市―瀋陽市(遼寧省)*  80・11・18
# 「春華秋実」の旗を掲げて 明石市―無錫市(江蘇省)*  81・08・29
# 未来都市への基盤づくり  さいたま市―鄭州市(河南省) 81・10・12
# 県・市・市民とともに    和歌山市―済南市(山東省)* 83・01・14
# 「天府」の豊かさを基に  甲府市―成都市(四川省)   84・09・27
# 洞庭の水駿河湾に連なる  沼津市―岳陽市(湖南省)   85・04・05
# 「龍馬精神」が生きる街  高知市―蕪湖市(安徽省)   85・04・19
#  同年の大災害を克服     酒田市―唐山市(河北省)     90・07・26
# 湖の恵みを知る開放都市  彦根市―湘潭市(湖南省)   91・11・01

第六章 歴史の絆
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#    千年交流史に新編を加える   奈良市―西安市(陝西省)*  74・02・01
# 世界歴史都市への視座   京都市―西安市(陝西省)*  74・05・10
# 「不再戦」と「友好下去」の碑 岐阜市―杭州市(浙江省)*79・02・21
# 友誼万年を願う鐘の音   長野市―石家荘市(河北省)  81・04・19
# 日中韓交流の回路を開く  唐津市―揚州市(江蘇省)*  82・02・22
# 軍港から開かれた商港へ  舞鶴市―大連市(遼寧省)*  82・05・08
# 「幻の都」と「東南仏国」 長岡京市―寧波市(浙江省)* 83・04・21
# 東北地区の戦傷を越えて  宇都宮市―チチハル市(黒龍江省)84・09・30
# 景観を誇る湖と歴史古跡  大津市―牡丹江市(黒龍江省) 84・12・03
# 歴史都市の「草の根交流」 宇治市―咸陽市(陝西省)*  86・07・24
# 六〇年なお戦禍を語り継ぐ 広島市―重慶市 *      86・10・23
# 同名都市である親しみ   南陽市―南陽市(河南省)   88・10・06
#  学校交流から友好区へ    東京都北区―宣武区(北京市)  93・04・22

 

友好都市・歴史が絆-六〇年余戦禍を語り継ぐ

六〇年余戦禍を語り継ぐ

広島市と重慶市 

一九四五年八月六日午前八時一五分、広島市細工町の上空五八〇メートルで、人類史初の原子爆弾が炸裂、熱線、爆風、放射線は一瞬にして多くの市民を殺傷し、街を廃墟とした。傷ついた市民は肉親の姿を求めてさまよった。この一発で約三五万人が被爆し、四五年末までに約一四万人が死亡したといわれる。この未曾有の惨状を現出したのは、米軍B29エノラ・ゲイ号による無差別爆撃であった。

中国の臨時首都であった重慶市の中央放送局は、八月一〇日午後六時、「日本無条件投降」の重大ニュースを放送した。日本軍による空爆の恐れがなくなった重慶の街は沸騰し、市民は歓喜の声をあげて屋外へ繰り出し、街にあるかぎりの爆竹を鳴らして戦争終結を祝ったのだった。 

しかし、米国大使の仲介で八月二八日に延安から重慶に着いた毛沢東・周恩来と、蒋介石との溝は埋まらず、さらに四年にわたる国共内戦がつづくことになる。

大戦後、平和を希求する人々の要請が、両市を引き寄せていったといえよう。八〇年には広島市議訪中団が重慶市を訪れた。八四年には重慶市で「現在の広島」写真展と「原爆ポスター」展を開催する。そして八五年八月に広島市で開かれた「第一回世界平和連帯都市市長会議」(現平和市長会議)には、重慶市の肖秧市長が出席した。八六年五月には、荒木武市長ら広島市代表団が重慶を訪れた。

そして八六年一〇月二三日、重慶市代表団を迎え、荒木市長と肖市長が友好都市提携の協定書に調印した。他にも増して大きな戦禍を蒙った両市提携の意味は、
「この提携はアジア、世界の平和に貢献することを確信する」
という荒木市長のあいさつに込められて、両市を越えて両国の国民の間に伝わった。肖市長も、

「両市、両国の人々の幸福、平和のために、協定書の精神を守っていきたい」

 と述べた。友好交流都市提携を記念して、広島市からは「平和の鐘」が、重慶市からは彫塑像が贈られることになった。また広島市からキリン二頭、フラミンゴ一六羽が、重慶市からレッサーパンダ三匹が、動物大使として交換された。記念植樹には、白モクレンが市役所の緑地帯に植えられた。

両市の友好交流は、平和市長会議への重慶市代表の参加、平和の絵コンクールへの重慶児童の応募など「平和」を軸に多分野に及び、近年は酸性雨研究や環境保全、市立病院の交流、さらには自動車関連など経済交流にも取り組んでいる。

重慶市は直轄市のひとつ。長江上流で最大の商工業都市である。南宋の趙淳が王になり、その後に皇帝についたことから、二重の喜びを意味する「重慶」と呼ばれるようになった。人口は約三一〇〇万人。上流の三峡ダム建設で新たな時代を迎えようとしている。  

広島市は、人口約一一五万人。一五八九(天正一七)年、毛利輝元が海陸路交通の要衝の地に築城し、広島と命名した。近代の日清戦争(一八九四年)には大本営が置かれ、また高等教育機関が設けられて、軍都、学都として知られた。

被爆から六〇年、核兵器廃絶への道は進まない。原爆犠牲者を追悼し、「核兵器廃絶」と恒久平和を願って八月六日に開催される平和記念式典では、二〇〇五年、「憎しみと暴力、報復の連鎖」を断ち切る「希望」を掲げて新たな道へと踏み出した。二〇〇六年は二〇周年に当たった。広島友好訪問団(団長秋葉忠利市長)が一〇月二三~二七日まで重慶市を訪問して王鴻挙市長と協議、世界恒久平和への貢献と友好都市関係の強化に関する覚書を交わした。あと「広島園」近くの公園内に「常緑と永遠の友情を表わす」松の木を植樹した。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-小学校交流から友好区へ

小学校交流から友好区へ

東京都北区と北京市宣武区
北京市城内は四つの地区に分かれている。北側半分は政治の中心となる区域で、故宮をはさんで西城区と東城区。それに対して南側半分は庶民が暮らす区域で、西に宣武区と東に崇文区がある。

北京オリンピックのマラソンで天安門前のスタート地点から少し東に走って南に折れて天壇公園を通過してもどってきたが、あのあたりが崇文区である。もどって今度は西長安街を西に走って右折して北京動物園を通過したが、あのあたりが西城区である。北京大学や清華大学は西北郊外で、ゴール地点の「鳥の巣」は北の郊外ということになる。

だからここに取り上げる北京市第一実験小学校のある宣武区は走らなかったし、競技会場もなかったから、五輪の影響が最も少なかった地区ということになる。穏やかな北京が戻ってくれば、和平門の南、骨董のまちとして有名な瑠璃廠文化街のあるところだから、文化的な賑わいが戻ってくるだろう。瑠璃廠のすぐ北に、北京第一実験小学はある。

一九一二年に北京高等師範学校附属小学校として創設され、九〇年余の歴史を持つ。北京第一実験小学となったのは解放後の五五年。周恩来夫人で全国政協主席だった鄧頴超さんが初の女性教員として務めていたことでも知られ、「鄧頴超教師奨励金」が設けられている。「全面育人」の先進学校であり、「北京第一実験小学教育叢書」を出版している。余暇活動では紅十字活動にも力を入れている。

王子小学校のある東京都北区は、その名のとおり東京都の北部に位置して、荒川を隔てて埼玉県と接している。飛鳥山は江戸時代に享保の改革で桜を植えて行楽地としたことから、江戸庶民が訪れる景勝地となった。一九一一年には王子電車(今も残る都電荒川線の前身)が開通し、二三年の関東大震災のあとに都市化が進んだ。 

王子小学校は一八七四(明治七)年に荒川学校として開校し、八四年に王子小学校に改称。戦後の四七年に北区立王子小学校となり、二〇〇四年には創立一三〇年を迎えた。青少年赤十字(JCR)活動は四〇年を越えてつづき、奉仕・国際理解の伝統は親子二代に受け継がれている。また国語教育のための「ことば・きこえの教室」で知られる。

 一九八五年七月に、由緒のある両小学校校の交流が正式に決まり、関係者の往来や絵画や書の交換が始まった。それをきっかけに荒川区議会の調査団や区民の友好交流が進み、九三年四月二二日、宣武区友好代表団を迎えて、北本正雄・劉敬民両区長の間で友好交流と協力関係の合意書の調印が交わされたのだった。

それ以後、両区の間では文化、スポーツ、青少年、環境、女性など、大都市が共有する課題について交流は幅広い分野でおこなわれている。

学校交流をはじめ、両区の市民交流に関わってきた丸山典義さんの活動を忘れるわけにいかない。九四年八月には小学生の野球チーム「王子ドルフィンズ」を率いて親善交流試合を成功させ、それ以来、子どもたちの出会いの場も作った。また不動産のしごとがら多くの留学生の面倒もみた。「青少年の間にまかれた友好の種」は将来かならず実となることを丸山さんは確信している。

二〇〇四年には、協定締結一〇周年を記念して区長を代表とする友好代表団を相互に派遣して、次世代を担う子どもたちを中心にした交流を推進することを確認した。二〇〇五年九月には「北京第一実験小学校管楽団」(四四人)が交流に訪れた。紅葉中学校吹奏楽部との交流演奏会などをおこなった。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-同名都市である親しみ

同名都市である親しみ

南陽市と南陽市(河南省) 

山形県南陽市は、一九六七年四月に二町一村が合併して誕生した。命名にあたって、当時の安孫子藤吉県知事が、「北に丘陵、南に沃野で住み良いところ」という土地柄から、「南陽市」を提案した。

中国の内陸中央部の河南省にあって、長命の霊水「南陽の菊水」(この水を飲むと上寿は百二十、中寿は百余といわれる寿命が得られる)が流れる歴史都市である南陽市と地形が類似していることも紹介されたのだった。

その後、「中国南陽市を訪問する会」(二三人)が八四年に初訪問したことから本格的な交流がはじまり、八五年には南陽市日中友好協会が設立された。八七年「市名発祥の地友好訪問・南陽市民のつばさ」(三〇人)が訪問し、技術研修生の受け入れを確認した。

そして八八年一〇月六日に、大竹俊博市長を団長とする友好代表団を送って、李宝興市長との間で日中の同名都市「南陽市―南陽市」の友好都市締結を果たしたのだった。

河南省南陽市は、中国の中央部にあって河南省西南地域の中心都市である。東部、北部、西部は山に囲まれ、南部は湖北省の襄樊市に通じる広大な盆地になっている。襄樊市を流れる漢水に合流する支流の白河に南面することから、「南陽」と名づけられた。 

西暦二五年に後漢王朝を建て、五七年に都の洛陽で倭の奴国からの遣いに面謁した光武帝劉秀の生地である。また三国時代には南陽のすぐ南にある新野の小城で「脾肉復た生ず」を嘆いていた劉備玄徳が、「三顧の礼」を尽くして諸葛孔明を得た(二〇七年)ことを記念する「武侯祠」がある。漢代の画像石刻が集中出土している歴史文化都市で、人口は一市二区一〇県を管轄して約一〇二六万人。面積、人口とも河南省で最大の都市である。

山形県南陽市は、県南部に位置し、北に丘陵、南に沃野が広がる田園都市である。特産はぶどう、さくらんぼ、ラ・フランス、りんご、ワインなど。一八七八(明治一一)年、英国人旅行家イザベラ・バード女史が東北、北海道を旅した際に、「東洋のアルカディア(桃源郷)」と評した置賜盆地に位置している。四季の自然に恵まれた資源を活かしながら、生活環境や社会資本の充実にじっくりと努めていくと荒井幸昭市長も述べている。

開湯九○○年の伝統がある赤湯温泉や宮内熊野大社が有名。心やさしい農民の民話「鶴の恩返し」が伝わる鶴布山珍蔵寺や「夕鶴の里資料館」、国指定史跡の稲荷森古墳など伝統と歴史を引き継ぐ。その一方で、国際的ハングライダー基地「南陽スカイパーク」もある。秋を彩る「南陽の菊まつり」でも知られる。人口は約一万八〇〇〇人。

 両市の主な友好交流は、両市がそれぞれに内陸だけに急速には進みづらいが、市の友好代表団の相互訪問をはじめ、語学・農業・縫製・電子・食品加工・製靴といった生活分野の技術研修生の受け入れ、胸部検診車の寄贈など仔細に地道に行われている。

文化面では、「中国南陽古文化展(恐竜の卵も展示した)」や「日中両南陽市書画交流展」、烙画箸(菜箸・五周年の記念)の全世帯配布もおこなった。スポーツ交流では日中友好協会主催の「日中友好都市交歓卓球大会」(九○年の第一回以来)、「南陽―南陽」チームとして参加している。そのほか市卓球協会が選手を送って、両市対抗卓球大会を催すなど、民間交流の一翼を担っている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-歴史都市の「草の根交流」

歴史都市の「草の根交流」

宇治市と咸陽市(陝西省)  

京都市と西安市が日中両国を代表する歴史古都同士として、一九七四年にはやばや友好都市となり、その後、八三年には京都府と陝西省とが友好省府となった。そのあとを受けるようにして、お互いの第二番目の都市であり、類似した立地条件を持つ、宇治市と咸陽市とが結ばれる契機が次第に熟していった。 

咸陽市は、渭水のほとり、西安からは北西へ二五キロの至近距離にある。周代から秦までは咸陽が中国西北地区の中心であった。とくに東方にあった先進国の六カ国(戦国六雄)を滅ぼして天下統一を成し遂げた始皇帝は、ここに安房宮を造営して巨大都市となったが、項羽によって焼き尽くし破壊されたという。項羽に勝利した劉邦は、咸陽郊外の長安を新たな都としたため、さらに隋・唐代になると長安(西安)へと中心が移ったため、その後の発展はなかった。旧跡も多く、漢武帝の茂陵、唐太祖の昭陵などの漢、唐代の皇帝陵はこの周りに集中している。漢代兵馬俑坑が発掘されている。秦の始皇帝兵馬俑ほど大きくはないが、漢代独自の時代性が対比されるもの。明代の孔子廟跡を利用した咸陽博物館は、市域での優れた発掘品を展示している。市域に国際空港が開設されており、その縁で成田市とも友好都市になっている。人口は約四八〇万人。

宇治市は、宇治川のほとり、水陸路交通の要衝で風光明媚な地であったため、上代には貴族の荘園、別業地となった。
文化遺産の代表格は、世界文化遺産にも登録されている平等院鳳凰堂である。『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台として、また室町時代以来の宇治茶の産地としても知られる。隠元禅師にちなむ満福寺、道元禅師にちなむ興聖寺など、禅宗の名刹がある歴史文化都市である。人口は約二〇万人。

両市の友好都市提携は、八六年七月二四日、宇治市に咸陽市の代表団を迎えて、市文化センターで池本正夫市長と祝新民市長が協定書に調印して成立した。双方が持つ歴史都市としての特徴を活かした交流が期待された。その後、両市長は市民広場の公園の一角で、宇治市の木であるイロハモミジの記念植樹をおこなった。

両市の主な友好交流には、市の友好訪問団の相互訪問や職員交換事業、学校提携。空手、気功、太極拳といった武道競技のほか、青少年の卓球、野球、サッカー、児童絵画展。マイクロバスやピアノの寄贈など。

多くの市民が自主参加し、宇治日中友好協会が進めてきた交流事業に、「咸陽の子どもたちに本を贈る」運動と「友誼小学校」の建設がある。本の贈呈のほうは、九六年から五〇余校に二万冊を届けた。学校の建設のほうは、淳化県に「寨子宇治友誼小学校」を建設し、内陸の貧しい農村の教育施設を支援してきた。贈る会の「会報」には子どもたちの喜びの手紙や写真が紹介されている。 

また二〇〇一年の提携一五周年の記念事業として、「黄土高原植林緑化事業」を開始し、永寿県の林業組合とともに五年間の目標とした一五〇ヘクタールの植林を完了した。この事業もまた募金活動など、宇治市市民の「草の根交流」の成果である。

両市の友好交流は、〇六年に二〇周年を迎えた。「経済格差の中で取り残されている内陸の貧しい農村の実情を見聞するとき、まだまだ宇治市民の手を差しのべてゆかねば」と、宇治日中友好協会会長で宇治御茶師の後裔である上林春松さんはいい、市民に協力を訴えつづけている。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-景観を誇る湖と歴史古跡

景観を誇る湖と歴史古跡

大津市と牡丹江市(黒竜江省)  

 この国の新たな時代への胎動期であった六六七年、天智天皇は、大和飛鳥宮から「志賀大津の宮」を造営し遷都している。同じころ、海を隔てた中国東北地区の現在の牡丹江市南の寧安には、唐の長安を手本にして渤海国の都城、上京龍泉府が造営され、その後、七世紀末から一〇世紀にかけて栄えたという。

かつて同じころの都城であり、そして牡丹江市には琵琶湖と形状がよく似ている鏡泊湖がある「水の都」であることも、両市の友好を深める機縁となった。 

両市を結んだのは一九八三年五月のこと、大津市との友好関係を期待しているという牡丹江市の意向を伝える一通の書簡であった。牡丹江市黒龍江商学院の曲更非教授から送られてきたものだった。そこで大津市は、市の大要をまとめた資料を曲氏を介して牡丹江市へと送った。牡丹江市からは提携を結びたい旨の返信が届き、またそのころ訪日したチチハル市の都市建設団からも直接に希望が伝えられた。

琵琶湖をもつ滋賀県としては八三年三月に洞庭湖を有する湖南省と友好省県協定をおこなった後だけに、大津市と湖南省の省都である長沙市との提携も考えられたが、さらに加えて戦前の開拓期の歴史的事情を考慮すれば困難も予想されたのだったが、山田豊三郎市長は積極的に牡丹江市の要請を受け止めて、八四年七月にはみずからが団長となって親善訪問している。

そして同八四年一二月三日には、牡丹江市の訾顕章市長を迎え、山田豊三郎市長との間で友好都市提携の調印をおこなったのだった。 

牡丹江市は、黒竜江省の東南部に位置し、西は省都ハルビン市と東はロシア沿海地域と接している。寧安、海林など四市二県を管轄している。大戦中は日本から多くの木材、食品関係の工場が進出し、入植者も多く、戦後の混乱で多くの犠牲者を出した。地理的優位性があり、鉄道・道路・航路の要所として、東北アジア圏の中堅都市として発展している。対ロシア貿易額では中国でも最大規模である。近年は日本海を通じた国際貿易と観光にも力をいれている。「塞北の江南」と呼ばれる観光都市である。 

牡丹江市内には世界最大の「東北虎林園」もある。江浜公園には日本軍と戦った女性戦士を記念する「八女投江群像」もある。人口は約二七〇万人。

大津市は、琵琶湖の西南端に位置して、京阪神、中京、北陸の三経済圏の要にある。江戸以後は幕府の直轄地として京滋地域の備えとなってきた。政令指定の古都のひとつ。

主な名所としては、比叡山延暦寺根本中堂、近江神宮、園城寺(三井寺)、義仲寺、瀬田の唐橋、石山寺、幻住庵、琵琶湖大橋などの建造物のほか、唐招来の「玉篇」「六祖慧能伝」や奈良・平安時代の典籍の国宝も多い。琵琶湖の水質をはじめ環境の保全については「共生と循環の湖都・大津」を掲げて活動している。人口は約三〇万人。

一九八四年以来の両市の交流は、市の代表団の相互訪問をはじめ、都市計画、ゴミし尿処理、医療、ガス事業などの技術研修生受け入れ。経済貿易団体、医療施設、福祉保健、公園緑化、教育視察団の訪問、小学校提携、留学生交換、青少年スポーツ交流など。 

提携一〇周年の九四年には、牡丹江市では「日本国・大津展」が、大津市では「牡丹江書画展」が開催され、水墨画五〇点が大津市に寄贈された。
二〇周年の〇四年には目片信大津市長ら代表団が牡丹江市を訪問している。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-東北地区の戦傷を超えて

東北地区の戦傷を超えて

宇都宮市とチチハル市(黒竜江省) 

 チチハル(斉斉哈爾)市は、東北地区黒龍江省の省都ハルビン市から北西に約二七〇キロに位置する省第二の都市である。チチハルは「辺境」という意味だが、一六九二年にまちづくりがはじまり、農業、林業、牧畜で着実に発展してきたが、豊富な天然資源を利用した工業都市化もすすんでいる。新中国成立後の一九五四年にハルビンに移るまでは省都であった。丹頂鶴が有名で、保護区となっており、世界のツル一四種のうち半数以上が飼育されている。そのため「鶴城」とも呼ばれている。人口は約五九〇万人。

宇都宮市とチチハル市とのつながりは、一九八〇年五月に第一次宇都宮市民訪中団三〇人のうち六人が未開放地区だったチチハルを訪ねたことが契機となった。八二年五月の第二次市民訪中団九〇人のうち三二人が再び訪問し、八三年一二月にはチチハル市代表団が市長の親書を携えて来訪し、友好都市提携の申し入れをするまで進んだ。八四年七月にはチチハル市陳雲林市長一行が来訪し、両市の友好都市締結に関する合意書を取り交わした。

そして調印式は八四年九月三〇日、チチハル市でおこなわれた。訪れた宇都宮市友好都市締結調印団団長の増山道保市長と陳雲林市長が議定書に署名した。

戦時中の東北地区での歴史を踏まえて、陳市長は「調印までの関係者の方の努力に感謝する」と述べ、増子市長は「皆さんから多くのことを学びたい」と挨拶した。

宇都宮市は、古くから二荒山神社への門前町として栄え、平安時代末期には宇都宮城が築かれた。江戸期には日光街道、奥州街道の要地として参勤交代や参詣客でにぎわった。

一八八四(明治一七)年には県庁が置かれ、九六年には市制が施行されている。先の大戦中は一四師団(東北地区へ出兵)の軍都となり、一九四五(昭和二〇)年の戦災で市街の大半を焼失したが、いちはやく復興を遂げた。昭和の大合併で隣接一町一〇村を合併編入して現在の市域になった。現在は東北自動車道と新幹線の拠点やテクノポリスなど中核市として重要な役割を担う。宇都宮の「餃子」は、全国的に名を馳せたが、一四師団の帰還兵が持ち帰って家庭に定着させたというのが通説になっている。人口は約四五万人。

両市の主な交流は、市職員や市議会代表団の相互訪問をはじめ、酪農、コンピユーター、医学、建築、縫製などの研修生受け入れ、企業研修生の受け入れ、接骨医研修生を派遣、留学生の交換、姉妹校交流など。書画、語学、スポーツも。「チチハル建城三百年記念式典」(九一年)への出席(九一年)や市制百年記念「姉妹友好都市市長サミット」(九六年)への参加、このとき消防梯子車を贈る。そして丹頂鶴の寄贈(九六年)などがある。

二〇周年の二〇〇四年には、七月一五日にチチハル市で、九月二四日に宇都宮市で、それぞれに記念式典をおこなった。水墨画、気功の交流、青少年訪問団の受け入れなどが記念事業。〇五年の「愛知万博」中国館での「チチハルの日」(四月二五日)には激励に駆けつけた。

二〇〇三年八月にチチハル市の工事現場で旧日本軍の遺棄化学兵器が破裂して四〇人余が重軽傷、ひとりが死亡するという事件(八・四事件)が起こり、折りから「侵華日軍」の証拠として報道された。

宇都宮市は、戦禍の歴史を底流として引き受けながら、「平和都市宣言」に沿って友好都市による平和の絆を引き継いでいる。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-幻の都と東海に輝く明州

幻の都と東海に輝く明州

長岡京市と寧波市(浙江省)  

「幻の都」と呼ばれてきたみずからの遠い日の都の記憶をまさぐるように、長岡京市代表団が訪れたのは、杭州市や寧波市など江南の古都だった。その後、中国側からの紹介もあって寧波市との提携へと進むことになった。

長岡京市の市民の間に、中国の都市とくに江南の古都との友好交流を期待する声が一九六〇年代から広まり、七四年二月には「日中友好長岡京市市民会議」が結成されたのだった。
そして八三年四月二一日、長岡京市へ寧波市の代表団をむかえて、五十棲辰男市長と劉徳焜市長が友好都市提携の議定書に調印した。

長岡京市は、上代に王城となった地である。平城京(奈良)と平安京(京都)とをつなぐ長岡京(七八四~七九四年)が桓武天皇によって造営された。

当時の中国は中唐期。七八五年、こちらでは大伴家持が没した年に顔真卿が説諭にいった先で殺害されている。この間に遣唐船はなかったが、遣使をはじめ日本からの渡海者の多くは南路をとって、「明州」をめざした。明州というのは寧波市の古名である。

寧波市は、唐・宋代には江南屈指の対外貿易港であった。鑑真和上も天平勝宝五(七五三)年、明州と呼ばれたからこの地から遣唐使帰国船に乗って船出した。明代から寧波の名になった。市の東郊にある古刹天童寺は、禅宗五刹のひとつである。

渡海してこの地で修行して名をなした日本の僧侶として、臨済宗の栄西禅師や曹洞宗の道元禅師がいる。雪舟もここで画境を開いた。雪舟にゆかりのある益田市とは九一年に、また別所安楽寺の開祖樵谷惟僊禅師との縁で上田市が九五年に、寧波市と友好都市になっている。

市の郊外には竹林が多く、竹刻や麻雀牌などの竹製品の産地でもある。寧波市は麻雀の発祥の地とされている。人口は約五四〇万人。 

長岡京市は、水陸路交通の要衝で、山城盆地の温暖な気候に恵まれ、京銘竹とよばれる竹製品の産地として有名である。戦国時代には細川氏の所領となった。明智光秀の娘玉は、細川忠興の妻となり、洗礼を受けてガラシャ(恵みの意)として生き、夫のためにここで自害した。ガラシャは戦国時代に咲いた一輪の白百合といわれる。ふるさと創生事業として一九九二年に市民主体で始まった「長岡京ガラシャ祭」(市民まつり)は、当時の風俗衣装をつけた玉が細川忠興のもとにお輿入れをする行列を再現したもので、農業祭や商工フェスタを兼ねた楽市楽座ももうけられ、秋季一一月の年中行事として定着している。人口は約七万八〇〇〇人。

その後の両市の交流は、市代表団の相互訪問をはじめ、医療ほか各分野の技術研修生の受け入れ。市民訪中団としては婦人訪中団が最初だった。中学生、少年友好使節団(八五年、昭和の遣唐使)による交流。文化・スポーツの交歓交流、吟詠・漢詩交流などさまざまである。

友好二〇周年の記念式典は、二〇〇三年四月に金徳水寧波市長らを迎えて長岡京市で催されたが、当時SARS騒ぎの最中であったため寧波市への訪問は延期した。寧波市から贈呈された雲龍石柱を龍勝寺に建立し、春日灯篭を寄贈した。

二〇〇八年は二五周年に当たった。四月一八日に長岡京市代表団(団長小田豊市長)が寧波市を訪れて毛光烈市長と意見を交換し、東銭湖畔に八重桜一五〇本を植樹した。七月一八日には寧波市友好代表団を迎えて記念祝賀会がおこなわれた。寧波市からは石門鼓一対が贈られた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-軍港から開かれた商港へ

軍港から開かれた商港へ

舞鶴市と大連市(遼寧省) 

 舞鶴といえば細川藤孝(幽斎)によって築かれた田辺藩の城下町である。「舞鶴」という美しい名は、城の別名に由来しているという。

明治になって、一九〇一年にロシアの南下という不穏な日本海の波立ちの中で、舞鶴鎮守府(初代長官は東郷平八郎)が開庁し、海軍のまちとなった。それにあわせて東舞鶴の市街地化がおこなわれた。〇三年には舞鶴海軍魚形水雷庫(現赤れんが博物館)が竣工した。三六年、第一回舞鶴みなとまつり開催。四三年に舞鶴市と東舞鶴市が合併。四五年七月二九日、三〇日とアメリカ軍の空襲により海軍工廠、舞鶴港が爆撃を受けた。

そして一九四五年の終戦。以後一三年にわたって大陸からの引揚港としての役割を果たすこととなった。大陸各地かあの引揚者は、六六万五〇〇〇人に及んだ。

無言で、無表情で、疲れきって帰国した人びと。長い桟橋をひきずって歩く軍靴の音。そして帰らぬ子を待ちつづけた「岸壁の母」たち。現代につながる東北アジアの不幸な歴史を知っている桟橋は「引揚桟橋」として九四年に復元され、戦乱によって人民が遭遇した惨禍を未来に語り継いでいる。史実を伝える「引揚記念館」も八八年に開設されている。また一九〇三年に竣工した旧海軍の魚形水雷庫は、「赤れんが博物館」に変わり、その後に次々に建てられた一二棟の「赤れんが倉庫群」は、夏の「赤煉瓦サマー・ジャズ・イン舞鶴」の会場ともなっている。

大連市は、一八九九年、南下したロシアによって不凍結の軍港として築かれた。一九〇四年一二月の「二〇三高地」での「山形改まる」ほどの激戦によって犠牲になった兵士の屍の山が築かれた。そして〇五年年初の旅順陥落。その後は中国東北地域への門戸として、四五年まで日本が施設の整備をおこなった。いまも市内のホテル、銀行、学校、病院、橋ほか、旧時代に日本が建てた建造物が残る。解放後の発展は著しく、経済技術開発区には日本企業も数多く進出している。都市部の人口は約二五〇万人。

戦後にともに軍港から商港への道を歩むことになった舞鶴市と大連市の友好都市提携は、「地理的条件や貿易の経緯からぜひ」という市民の要望が強く、地道な努力がつづけられた。そして八二年五月八日、舞鶴市に大連市友好訪問団を迎えて、崔栄漢市長と町井正登市長が議定書に署名した。

提携後の友好交流は、市友好訪問団をはじめ、港湾管理、海運、教育、福祉、観光、医療などの各界視察団や雑技団の公演、とくに少年交流使節団の派遣は毎年交互に実施されている。舞鶴市民は、「日中友好の船」や「日中友好の翼」で大連市を訪問してきている。

二〇周年の二〇〇二年には、李永金・江守光起両市長が舞鶴自然文化園でアカシア二〇本の植樹をおこなった。李市長は「順調に育って、毎年五月には美しい花を」と交流への期待と重ねて挨拶した。「アカシアの大連」として有名だが、大連市の市花は「月季」(バラ)である。

〇七年は二五周年に当たった。五月八~一〇日、舞鶴市友好団(団長は斎藤彰市長)が訪れて、前年に締結した「市民交流の強化に関する合意書」を基にして、互利互恵の関係による交流を進めることなどを確認した。

〇七年四月には大連市で「日中合同ギター演奏会」が、〇八年一月には舞鶴市で、両市市民グループによる交流音楽会も開かれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)

友好都市・歴史が絆-日中韓交流の回路を開く

日中韓交流の回路を開く

唐津市と揚州市(江蘇省) 

唐(大陸)に渡る津(みなと)という名をもつ唐津市には、長い間かかって先人が培ってきた外向的な気風が市民の間に息づいている。日中友好都市の交流や環黄海圏域の国際交流にスムーズに対応できるのは、そういう「草の根交流」の伝統が生きているからだろう。これまでに揚州市のほか大連旅順口区(交流意向書締結)、韓国の麗水市や西帰浦市(済州島)との交流も市民ぐるみで培われてきたものである。

日中友好都市の提携に際しても、国交正常化以来、中国のいずれかの都市との友好関係をむすぶため、行政の枠を越えて市・市議会・市民による訪中団を結成し、一九七八年からは四次にわたって代表団を派遣して、自主的に候補市探しをおこなった。

その結果、文化遺産と風光美との調和を図りながら生産都市としても発展するというまちづくりに期待して選んだのが揚州市であった。とくに鑑真和上の生誕地であるとともに日本との交流の深いつながりがあり、独自に選んで積極的に締結の交渉をすすめたのだった。

そして国交正常化一〇周年に当たる八二年二月二二日に、瀬戸尚市長ら代表団が揚州市を訪れて、祝志福市長との間で友好都市締結の議定書を交わした。

揚州市は、二四〇〇年前の春秋時代から知られ、隋の煬帝が黄河と長江を結ぶ大運河を造り、ここに離宮を置いたことから水運の拠点として栄えた。京杭運河が長江と交わる地点の北岸に位置している。かつて海路をたどった遣唐使が、南方の海岸にたどり着き、のちに西方の長安市や洛陽市などへむかう途中に必ず滞在した歴史文化都市であった。鑑真和上はここで生まれ、出家し修行し、のち日本を知り、留学僧の要請に応じて渡海したのだった。

文化事業である書画、琴、戯曲、工芸技術、造園、盆景などで揚州は一派をなしている。漆器、玉器、剪紙、刺繍が名産品。古運河、鑑真記念堂がある大明寺、何園など名勝古跡は数多い。人口は約四四〇万人。

唐津市は、佐賀県の西北部に位置し、玄界灘に面した城下町である。日本三大松原のひとつ虹の松原が知られる。天正年間に豊臣秀吉が朝鮮出兵の基地として名護屋城を築いた。また港から送り出した伝統工芸の茶器「唐津焼」は有名で、九州では陶器を一般に唐津もの(瀬戸ものと同じ)と呼ぶほど。勇壮華麗な一四台の曳山が巡行する「からつくんち」は、国の重要無形文化財である。二〇〇五年一〇月一日に合併して、人口約一三万人の唐津市になった。

主な友好交流は、両市の友好都市訪問団をはじめ、食品加工、水産、調理、医療、農業、縫製技術ほかの分野の研修生の受け入れ。中学生交歓、囲碁交流、児童書画展、日本舞踊と揚州人形劇の交換公演、花火競演、「煙花三月祭」「美食節」への参加、大型バスなどの車両の贈呈、「揚州友好会館」の開設支援などがある。 

唐津市が、国際交流事業で官民一体となって力を入れているのが、日中韓の三都市交流である。九三年から唐津市、揚州市、韓国の麗水市が持ちまわりで「三市長会談」を開催している。職員の相互派遣や共有文化である囲碁の「日中韓囲碁交流大会」などを通じて、たやすくはないが玄界灘の荒波を越えて、唐津の名にふさわしい日中韓交流の成果を着実に実現している。

二〇〇七年は二五周年にあたり、四月には坂井俊之市長らが訪れて揚州市で、一一月には揚州からの友好訪問団をむかえて唐津市で記念式典がおこなわれた。(二〇〇八年九月・堀内正範)