四字熟語-挙世皆濁

挙世皆濁
きょせいかいだく

二〇一二年の世相を示す「今年の漢字」は日本は二度目の「金」だったが、中国の「漢語盤点二〇一二」は「夢」(字)と「釣魚島」(詞)で、尖閣列島の国有化による日本批判がいかに根強いかを示している。

「今年の四字熟語」では、住友生命の「創作四字熟語」(五十選)に「税途多難」「党奔政争」「共存競泳」などが登場。そして韓国の大学教授六〇〇人余が選んだのが楚の愛国詩人屈原の「挙世皆濁」。世の中が皆濁っているという意味。

忠臣屈原が国の将来に絶望して世俗の塵埃を避けて去る際に残したことば「挙世皆濁」は「漁父辞」に出てくる。「挙世皆濁我独清、 衆人皆酔我独醒」(世の中が皆濁っている中で私ひとりが清らかである、人々が皆酔っている中で私ひとりが醒めている)

李明博大統領実兄の収賄疑惑などが背景にあり、清より濁に傾く世相を見据えての選定であろうが、その学者たちこそ「皆濁皆酔」の世を改める責務があるのではないだろうか。

『楚辞「漁父辞」』から

四字熟語-和而不同

和而不同
わじふどう

衆議院選挙に一〇余党が乱立し、それぞれに公約を掲げて、この国の将来を決定する政権獲得をめざすこととなった。
「和して同ぜず」は、君子(政治リーダー)の要諦とされてきた。「和」するけれども「不同」であるというのはどういうことか。

自分の主体的な立場や意見を保ちながら、相手の主体的な意見や立場を認めて「和」の姿を示すことにある。主要課題である脱原発、TPP、社会保障・財政、憲法、外交・防衛などでどういう「和」の姿をつくれるか。「附和雷同」では政権はつくれない。

前記のどの課題によって「和」の姿をつくるかでこの国の将来が決まる。重要でも国論を分断する脱原発やTPPではなく、国論を一つにし、国民の活力を呼び起こす課題は何なのか。国民みんなで形成し国際的にも先行する「長寿社会」(社会保障・財政)が「和」の基盤となるにふさわしいのだが。自分たちと後人のためにそれを掲げて訴える党と人物が見当たらない。

『論語「子路」』から

四字熟語-信言不美

信言不美
しんげんふび

老子は「信言は美ならず」という。心に響く信言というものは必ずしも美しくはないという。美しく整えようとすることで失うものがある。老子にはまた「大弁若訥」(大弁は訥なるがごとし)があって、まことの弁舌は訥々としているものだ、という。努力してもさわやかな弁説とはいかない人には実感のあることばだろう。訥々とした語り口のなかに「大弁」を聞く老子の人間理解には、限りない優しさと率直さを覚える。
周末のころ、李耳(老子。生没年とも不詳)は、人生の終わりに近く、衰亡の淵にあった周室を離れて西方へと隠遁の旅に発つ。函谷関で関令の尹喜に熱く懇望されて書き残した五千余語が信言集『老子』である。その最後に「為而不争」(なして争わず)と書き、「信言は美ならず、美言は信ならず」と謙遜のことばを残して山中へと消えていった。
われわれの代表として国政に携わる人のことばが心の底にとどかない。老子自身の「大弁若訥」がどんなものだったのかを思う。

『老子「八一章」』から

 

 

四字熟語-掩耳盗鈴

掩耳盗鈴
えんじとうれい

「耳を掩いて鈴を盗む」というのは、盗もうとした鈴(鐘)が音をたてたので聞かれるのを恐れて自分の耳をふさいで実行したというもの。だれにも知られている自己欺瞞にいう。古くは鐘だったが、現今は「掩耳盗鈴」でよく使われる。 日本政府が「尖閣国有化」をしておいて中国と交渉する態度もその例とされる。
この「故事成語」を子どもたちが古装を身につけて寸劇として演じていた。いま各地で七歳から一四歳の小中学生が出演者となって「中国成語故事」(一千集)の撮影に臨んでいる。五年余をかけて撮影して全国のTV局から放送し、伝統文化教育の補助教材として出版されるという。
先人がなした事跡(故事)を後人が人生の糧として記憶し記録し用いてきた「故事成語」は、漢字の特徴を活かして四字に整えられており、歴史文化の精髄なのである。中国の子どもたちは小学校教材で二八〇項目、中学校教材で四六〇項目ほどの「故事成語」を学んでいる。

沈徳符『万暦野穫編二』など

四字熟語-気吞山河

気吞山河
きどんさんが

意気さかんにして山河も呑むほどの勢いがあることを「気は山河を呑む」といいます。意気さかんである度合いはさまざま。大きいところでは雲夢(楚にあった大沢)の八つや九つを呑んでやろうという「気呑雲夢」となり、はては牛斗(牽牛星と北斗星)を呑む「気呑牛斗」や宇宙まで呑んでしまう「気呑宇宙」となったりします。中国史上で稀有の意気さかんな人物として知られる英傑、漢の劉邦と天下を争った楚の項羽は「抜山蓋世」(力は山を抜き、気は世を蓋う)であったと伝えられています。
平成不況が長引いている上に「消費税増税」では気勢はあがらず「気息奄々」ですが、要は人。景気も気のうちですから「気呑山河」の勢いがほしいところ。年齢を問わず、ひとりひとりが保持する知識、技能、資産を活かして地域・職域に活力を呼び起こす以外にありません。みなさんの「気吞・・」がなにを吞むかによります。力づよい・・を入れて、みずからの気勢をさかんにしてください。

金仁傑「蕭何月下追韓信」など

四字熟語-牛角掛書

牛角掛書
ぎゅうかくかいしょ

「牛角に書を掛く」というのは、ゆったりとして忍耐づよく歩を運ぶ牛にまたがって、その角に書を掛けて読んだという故事からいわれる。隋代の李密が路を行きながら『漢書』を読んだ姿からで、瞬時を惜しんで勉学に励む例とされる。
角に書を掛けられて、路すがら耳元で「項羽伝」を聞かされた牛のほうは迷惑だったろう。牛にちなむ成語には「対牛弾琴」があって、正調の琴曲を聞かされてもいっこうに反応を示さなかったことから、意の通じない人物にいわれる。さらには会盟の際に牲(牛偏)にされ、血の誓いのために「牛耳」を執られては喘ぎ声を発せざるをえない。
この成語をとりあげたのは、移動途中の電車のなかで、瞬時を惜しんで書ならぬ電子機器をあやつる若者たちの姿をみるからで、将来は計り知れない質と量の電子世界が成立するのだろう。想像を絶する未来に牛のように喘ぐばかり。さりとて「牛角掛書」の意味あいが解らなくなることはないだろう。

『新唐書「李密伝」』より

 

 

四字熟語-明日黄花

明日黄花
みょうにちこうか

「明日」は重陽(旧暦九月九日・今年は一〇月二三日)の後の日のこと。「黄花」は菊の花。重陽節には菊を観賞するならわしがあり、その日にむけて盛りを迎えるよう栽培される。節日を過ぎて萎れていく姿を「明日黄花」という。重陽節を終えて盛りになる花なら「役たたず」ということになる。
普及のはじめに独占状態だった人気商品が売れなくなる。女子バレーで日本が中国を破って金星を挙げると、中国では「明日黄花」(昔日の影もなし)という評価を受けることになる。
重陽の長寿を寿ぐ意味合いから、この節日を「敬老日」にあて、一〇月を「敬老月」として「崇尚敬老」の伝統の継承がはかられている。上海市の高齢化率は全国一で、一九八八年に「敬老節」を設けて今年二五回。新聞にも敬老・愛老・助老の記事が目立つ。わが国では「敬老の日」をハッピーマンデー(九月第二月曜日)にしたために存在感をなくしてしまっている。新聞をみても関連記事を見い出すのがむずかしい。

蘇軾「九日次韻王鞏」など

 

 

四字熟語ー平分秋色

平分秋色
へいぶんしゅうしょく

昼夜がちょうど二分される秋分のころの穏やかな景観が「平分秋色」。それは春節に始まった農作業による一年の収穫の秋であり、「平分」は収穫した成果を平等に分け合って得ることに通じる。のちには農業だけではなく、商業上の利益や声望などもそれぞれが分け合って一半を得ることにいうようになった。

先人の残したさまざまな資産を収蔵している公立・民間の博物館が、互いに特徴のある収蔵品を出し合って優れた展覧会を催すのが「平分秋色」。また伝統あるサッカー戦などで、激しく勝敗を争いながらも引き分けた試合の熱闘を讃えて「平分秋色」がいわれる。ちかごろでは宴を盛り上げる白酒と葡萄酒の消費量が「平分秋色」になりつつあるという。

平和の下での半世紀余。わが国は先行して得た技術や人材や資金を投入して、途上諸国の人びとの暮らしの近代化に貢献してきた。アジア各地で「平分秋色」の成果が穏やかに共有されていると確信している。

李朴「中秋」など。

 

 

四字熟語-不争之徳

不争之徳
ふそうのとく

周朝の末期、争いを常態としていた時代に、老子が残した信言集『老子』五千余語(八一章)の最後のことばが「不争」である。

人為に期待しなかった老子が、善き人の為すべき極みとしたのが「不争の徳」であった。
老子はまず「善く士たる者は武ならず」(ほんとうの武人というものは武力をかざさない)と説く。そして「善く戦う者は怒らず」(ほんとうに戦う者は怒りによっては行わない)というのである。怒りによる争いの勝利は怨みを残すからである。さらに「善く敵に勝つ者は与せず」(ほんとうに敵に勝つ者は四つに組んで敵を完敗させるようなことはしない)という。そしてなお「善く人を用いる者は之がために下となる」(ほんとうに人を用いる者は相手の下手に出る)という。
武ばらず、怒らず、完膚なきまでにせず、上手に出ず。これがほんとうの勝者の為すべきことであり、万物を利する水のようであれという。「為して争わず」、人為で争いのない世界をつくるのはむずかしい。

『老子「六八章」』から

四字熟語-買空売空

買空売空
ばいくうばいくう

「空を買い、空を売る」というのは、実態としての現物の介在がなく価格変動からの差益を得るためにおこなう商売上の投機行為にいう。かつては奸商呼ばわりまでされたが、いまや「大衆資本主義」の盛時、株式による「買空売空」は日常茶飯事のことである。紛争の尖閣問題に関して中国側が、持ち主と国がおこなう売買を「買空売空」とするような使い方もある。

景観に売る価値がある超高層マンションも「空を買い空を売る」対象になる。東京スカイツリー効果も空間価値による利益だからそのうちである。タワー世界一だがビル世界一はドバイにあるブルジュハリファ(八二八メートル)。中東のドバイは、砂漠に超近代都市を現出し、世界一ならなんでも集める。オイルマネーで空中楼閣を築く「買空売空」国家といえよう。

架空の売買で暴利を得たり逆に大金を失うこともある。いずれにしても「粒粒辛苦」して働いている実業の人からすれば「それが人生か」ということになる。

「大清宣宗成皇帝聖訓」など