現代シニア用語事典 #6日本再生と地域の四季

 #6日本再生と地域の四季
#地域特性と季節感を取り込む
*・*「百季人生」を豊かにすごす拠点*・* 
「双暦」
ここで採り上げる「時の移ろいに関する多重標準」は、国際標準(グローバル・スタンダード)とされる「太陽暦」(西暦・公暦・グレゴリオ暦)と地域標準である「太陰暦」(農暦・旧暦・天保暦)であるが、どちらかの良し悪しを論ずることではなく、双方の良さをどう採り入れたら高年期の暮らしを快適にできるかを考えること、つまりふたつの暦「双暦」に慣れるといった柔軟さと謙虚さをもって対応しようということである。
国際標準とされる「陽暦」と地域の農作業のめぐりに根ざした「陰暦」との関係については、わが国では一三〇年ほど前の明治五年一二月三日(陰暦)を明治六(一八七三)年一月一日(陽暦)とすることで「西暦」が始まった。その後、農作業や祭事との繋がりが濃かった陰暦を「旧暦」としてなし崩しに遠ざけてきた。大戦後は暮らしの洋風化とともにいっそう進んだが、それでもせいぜい一四〇年ほどのことである。ケタ違いに長い年月を刻んできた旧暦。地域の季節感を取り込んだ暮らしの知恵を体感することなしに終わる人生が、どれほど殺風景なものかは知れば驚くほどのことなのだ。ここだけをおおげさに取り上げてほしくないのだが、意識としては「鎖国型」の対応が必要であろう。
伝統的な「ひな祭り」「七夕」「夏祭り」「お月見」などは年中行事として定着しているし、また新しい「バレンタインデー」「母の日」「クリスマス」といった行事も、だれもがどこでも楽しめる祭事・歳事・催事として親しい。といって煩雑なほどに旧暦を再生する必要はないが。高年期になって地域の季節行事のよさに気づいて関心をもって参加する人びとはけっこう多く、静かにそういう趣旨の活動をしている会も知られる。 
「二五年一〇〇季」
地域の季節行事をおざなりに扱ってきたこれまでの自分の暮らしを顧みて、これからの人生を豊かにする契機を与えてくれるのが「地域の四季」に根ざしたものなのだと知ること。そう意識することで、住んでいる地域でしか得られない四季折り折りの風物の変化が感じられるようになる。つまり「地域の四季」が、高年期を過ごす者に等しく与えられている自然からの恵みなのだということに思いが及ぶ。まずはそれでいい。「地域の四季」のめぐりに衣・食・住の知恵を活かすことで、高年期の暮らしが生き生きと変容するものになる。
そこで「一二カ月一年」とともに「三カ月一季」を時節のめぐりの基本とし、暮らしの場としては都会指向から「身近な地域」へと指向すること。時の移ろいの感覚というものは相対的なものだから、ひとつずつの季節をていねいに迎えて過ごすことにより、一年は四倍の長さで充実して感じられるようになる。高年期は「二五年一〇〇季」にもなるのである。
あと二五年と意識することと、あと一〇〇季と意識すること、これが「時の移ろいに関する多重標準」である。六〇歳からはじめて八五歳までの二五年を「高年期一〇〇季」として一年を四分した「三カ月一季」を時節の基準として迎えてすごす。地域の四季(一〇〇季)を楽しんで暮らす。出遅れた人や新たな展開をまじえて、七五歳からはまた新たな「高年後期一〇〇季」を始めてもよい。そんな「百季人生」をこれまでの生活に重ね合わせることで、高年期は「四倍の豊かな時節の変化」とともに過ごすことができる。たとえば六一歳の春季、夏季、秋季、冬季・新年、六二歳の春季・・というふうに。
「地域の四季」の変化に素直に向かいあい、「一〇〇季」のうちの一つひとつをていねいに迎えてすごす。そう考えただけでも心弾むではないか。
一年を一二カ月として平板に流されていた日々に、四季を基準として「地域の変化」とともにすごす日々とを、「双暦による多重標準」と意識して巧みに折り合わせて暮らすのが、高年期の人生を豊かにするのにふさわしい処世法といえるだろう。 
「四季カレンダー」
Dさんは六〇歳直前の定年待望族のひとり。早期退社はしないが、このまま定年まできちっとしごとをこなしてすごすつもりでいる。その先の計画はまだ固まってはいない。
それでもいま心躍るのは、季節の催事との出会いや、旬の料理づくりや、俳句仲間との「四季吟行」の小旅行やである。「一年」ではなく「一季」を基本にして暮らしている高年者のDさんを「四季丈人」と呼んでもいいのだが、ややせわしいので、ここでは「百季丈人」と呼ぶことにしよう。
古風な民家づくりの居間には、重厚なサクラの机にそろいの「マイ・チェア」もある。「百季丈人」のDさんは、「チェア」に座って眺められるほどよい壁面に、実用を兼ねてビジュアルのしゃれた「四季カレンダー」(四季ごとの三カ月のもの)を掛けている。年に四枚、四季それぞれ三カ月の日付が視野の中に呼び出されていることに意味があるのだという。
サインペンの赤マルは、催事や「吟行日」である。よく見ると月と月の間を貼っている。例年入手しているカレンダーの月ごとの一二枚を三枚ずつ切り貼りして、四季ごとの三カ月(三~五月、六~八月、九~一一月、一二~次年二月)の四枚にしたてたもの。新年・冬は一月が、春は四月が、夏は七月が、秋は一〇月がそれぞれ中央に据えられて、早仲晩の順になっていて、そこ季節行事が記されているから、「地域の四季」はカレンダー上に鮮明に表現されている。
年末恒例の東京銀座・伊東屋の「カレンダー展」などをみても、「四季カレンダー」と称するものはあるが、実際にこういう四季ごとの三カ月九〇日間のものは見かけない。あるのだろうが、目立つほどにはない。カレンダー会社が競って制作する「季節しごと」の成果を待っているというのが、Dさんのあわてずさわがずの願望である。  
「季節小物」
Dさんは「マイ・チェア」に座って眺められるほどよい位置に「四季」を取り込むしかけをいくつも配している。年四回のモノの配置の「季節替え」(大掃除)をおこなうのを、負担にするどころか楽しみにしている。新しい季節を待って迎えて送る楽しみである。花鉢、紋のれん、玉すだれ、星座図、扇絵、雛人形、鯉のぼりや風鈴や蚊やり豚や丸火鉢といった「季節小物」の置物や飾り物を入れ替えたり移動したりする。季節の移りに応じて、住にかんする春もの、夏もの、秋もの、冬ものを目立たせるとともに、衣・食それぞれの変化をも楽しんでいる。
Dさんはボタニカルアートの手習いをしている。いずれは「四季色紙」を自作するつもりという。年に四作では寡作にすぎるが、それでも季節ごとに花々の盛期を熟視して楽しみ、ほどほどの出来の自作でわが家の居間を飾れるならば、「百季人生」の味もまた深まる。
「茶道や華道も、そろそろ男性回帰の時期ではないですか」と、Dさんは文化勃興期の変容は男性が主導するが、完成期以降は形式美として女性が支えるという持論を述べる。和装もまたしかりで、これまで主として女性の儀式用の盛装として技術も意匠も素材も女性によって支えられ保存されてきたが、「季節感と地方性を享受する高年男性の登場によってよみがえる時期にある」とわが身に引き寄せて熱心に語る。いささかささやかともいえるDさんの人生目標ではあるが「地域の四季」を、個性的に享受する心根が形の上に息づいている。 
「床の間春秋」 
「そうそう、どこのお宅にも四季を取り込むために先人が残してくれた仕掛けがあるのに活かされていませんよね」とDさんがいう仕掛けというのは、「床の間」のことである。軸が年中かけっぱなしの一幅だけでは、せっかくの「床」が動かずにさびしい。というより無いに等しい。気づいてみれば、Dさんとこの床の間も長いあいだ、入居時のお祝いに頂いた中国画家の「牡丹」のままだった。花の軸なら「梅」「牡丹か桜」「蓮か蘭」「菊」の四幅の「四季花軸」がほしいところ。春は「桜」にして新年に華やかな「牡丹」とすれば五点である。まずは春秋一幅ずつそろえれば「床の間春秋」が楽しめる。有名画家のものは高価だし贅沢だから、習作期の画家や素人画家の力作に魅力がある。
密室でぶんぶんクーラーを回してすごす無季節、無機質な「常春」指向を修整して、「地域の四季」を家庭内に取り込むこと。遠からず自作の「四季色紙」が居間を飾り、切り貼りのないしゃれたデザインの「四季カレンダー」が季節を伝えるだろう。さまざまに季節小物を配して、繊細に個性的に「百季人生」の季また一季を迎えて享受して過ごす。
 もうひとつ、Dさんお気に入りの「エイジド用品」を忘れて名ならない。チクタク振り子が行き来する古時計。百寿期の「おおきなのっぽの古時計」とまではいかないが、形と数字の表現に古風の味がある小振りな柱時計である。傍らにデジタル時計も置いていて、「二もとの梅に遅速を愛す哉、です」などと、蕪村の句を挟みながら、時計の遅速をもまた楽しんでいる。 
*・*一年より「四季」を折節の基本に*・* 
「祭事・歳事、催事」
前項では、時節の基本を一年ではなく「一季」に置いて、「地域の季節」の移りゆきとともに暮らす「百季人生」を紹介した。「地域の四季」に関わる歳事のうちには、地域の暮らしにリズムをつける催事として、門前(社前)市があちこちで復活している。
だれもが参加して楽しめる「祭事・歳事、催事」を追ってみる。
年初の「初日の出」や「初詣で」ではじまり、「初荷」「初午」など初ものがつづいて「節分」。春を迎えて「ひな祭り」「お花見」「端午の節句」や「新茶つみ」。季節が動いて「しょうぶ湯」「七夕」「お盆」に「夏祭り」、全国各地の「花火大会」、「薪能」。そして「お月見」(中秋の名月・十三夜)や「七五三」と季節は移って、暮歳の「酉の市」「大晦日」・・。
そして、季節の移ろいの節目を次々に追うのは、
 立春、雨水、啓蟄、春分、清明、穀雨 立夏、小満、芒種、夏至、小暑、大暑
 立秋、処暑、白露、秋分、寒露、霜降 立冬、小雪、大雪、冬至、小寒、大寒
 という「二四節気」。すべてとはいかないが、多くが実感をともなって知られている。
それに八十八夜、入梅、二百十日や、さらには開花日、初鳴日、初見日といった「雑節・生物季節」など。この国の先人は、それらを合わせて新しい季節の訪れを心待ちして迎えては愉しみ、名残りを惜しんで送っては楽しんできた。 
「自作五句」
日本の民衆文芸として親しまれている俳句を支えるのが「季語」。そこには時の移ろいとともに動く季節の突っ先をとらえる感性のエキスが詰まっている。そこで「百季丈人」であるDさんに、俳句仲間ならだれでも知っているという近代秀句を選んでもらった。
 まさをなる空よりしだれざくらかな     富安風生
 万緑の中や吾子の歯生え初むる    中村草田男
 をりとりてはらりとおもきすすきかな   飯田蛇笏
 湯豆腐やいのちの果てのうすあかり  久保田万太郎
 など、折り折りの味わいが巧みに捉えられていていいものだ、とDさんの評。
 稀にみる短詩だけに文字づかいにきびしく、仕上がりの句境には天地雲泥の差がある。巧拙は風にまかせて、新年・春・夏・秋・冬の五句くらいは、なんとか「自作五句」として選定して心にとどめておきたいところ。特に気に入ったひとつは、ひそかに「辞世の句」として内定したりして。 
「八方時刻」
一日を二四時間に刻んで過ごしてきた国際標準に重ねて、高年期に入ったみなさんに本稿が推奨するのは、三時間ずつ八つの刻みを意識して一日の予定を織り込んでいく「八方時刻」を取り込むこと。ゆったりとした暮らしの日々に鮮明な記憶を残してくれることになる。
  〇~三時       更(ふけ)  
      三~ 六時        明け方 
      六~九時         朝方
      九~一二時     午前・昼前    
      一二~一五時   午後・昼過ぎ  
      一五~一八時 夕方  
      一八~二一時   晩方   
      二一~二四時   夜
「更」は五更まであって三更からが日替わりだが、夜更けや深更として日替わりの感覚としてはじめに据える。「明け方」と「朝方」は異論があるまい。正午をはさんで「午前・昼前」と「午後・昼過ぎ」そして「夕方」を迎える。そのあと「夜」までの間を、気象庁は天気予報で「宵のうち」(午後六時~九時)と呼んでいたが、人によって捉え方が違うからという理由で、〇七年四月から「夜のはじめごろ」に変更した。本稿では朝昼晩として実績をもつ「晩方」を据えた。使いならすことで「八方時刻」(八分時刻)を実感してほしい。
「八方美人」ほど目立ちはしないが、「八方丈人」には着実な生活感がある。
某月某日、朝方に朝刊を読んでから学校へ出かける孫の翼くんにひとこと。昼まえにはO先生に手紙を書き、昼すぎには町なかの郵便局と図書館へ。夕方に近所の八百屋へ総菜を買いにいってから夕刊を読み、晩方に晩飯をすませてからTさんに電話とFさんにファックス。そして夜にEさんへEメール、BSテレビのニュースと読書。でも夜更かしはしない。
こんなふうな時の過ぎゆきとともに三時間ごとの活動を刻んで過ごす「八方人生」には、日また一日を着実に刻んでいるという充足が感じられる。 
*・*「四季型(通風)住宅」への回帰*・* 
「四季型(通風)住宅」
住宅についてはすでに「三世代同等同居型住宅」というやや大型で耐久性に優れた住まいを取り上げた。ここでの「四季型(通風)住宅」もだれでもとはいかないだろうが、住宅に対する考え方としてはだれもが納得しておいてほしいところである。全室冷暖房という「常春型(エアコン)住宅」が快適さのすべてではないということである。
古来、わが国の風土に適応した住宅は、「地方性」を活かした素材や様式をもち、「季節感」を巧みに取り込みながら、一年を通じて過ごしやすい工夫をこらしたものだった。古都の町屋や各地の古民家として、わずかだが今に残されている。そういう古い日本住宅を活用した旅荘やレストランなどで「風土の良さ」を実感したことがあるにちがいない。最新の無季節で多産型のプレハブ住宅に住んでいるうちに忘れてしまった住まいの味わいや安らぎを、現代に引き継いで活かす「モダン変容」が、現代の匠たちによってなされていることに注目しよう。
「常春型(エアコン)住宅」を取り入れながら、住宅全体としては繊細でリズムのある「四季型(通風)住宅」にするのが、「住宅に関する多重標準」である。すべてを通風に回帰することではなく、一部を冷暖房付きで一部を通風型にして、電力を倹約しながら季節の変化を享受する暮らし方を可能にしている。機密性が保たれ、常温が得られる住宅構造(すきま風のこない家はうれしかった)によって、冷暖房施設は急速に普及して「3C時代」を謳歌してきたが、その快適さをひたすら支えてきたのが電力だった。夏ごとに「クールビズ・ファッション」をはやしたてて何かが変わるなどというのは環境ファッション程度での議論で、天然の樹木や水や風への基本的認識がないばかりか、本格的取り組みを見失う過ちを隠すことになる。
 「外向的街並み」
内向きに閉じた常温型住宅から、「地域の四季」つまり外界と向きあうたたずまいを持った住宅への回帰。これがこの国の「住まいの良さ」の本流なのだ。高年者層の人びとの「季節感」と「地方性」への関心と配慮が、庭など街と住宅の中間領域にも安定感を与えて外向的な住宅街を実現する。
「季節感」や「地方性」を具体的に取り込むことによって住み心地は変わる。新築や改築にあたって、個別に現場で工務店側の熟年技術者と細部の検討がなされれば、その成果は共有されて、時をへて地域の特徴を巧みに表現した「四季型(通風)住宅」を中心にした家並み、街並みが形成されてゆく。高年の人びとが「地域の四季」を意識することによって、電力消費も少しずつ平常な姿を取り戻す。
内向きに閉じた「常春型(エアコン)住宅」の暮らし方を修整して、外向きに開放的に「季節感」と「地方性」を構造として取り込んだ「四季型(通風)住宅」が主流になる。地域のみなさんが工夫をこらして街空間の形成にも参加する「わが家」が増えることによって、三世代がそれぞれに内でも外でも暮らしやすい家、家並み、街並みが姿を現わすことになる。これまでの季節感をシャットアウトし、地方性を失った家並み・街並みに代わって、「地方の四季」を謳歌する地域特有の「外向的街並み」の展開が新幹線の車窓から楽しめるまでには、世紀のプロジェクトとなるだろう。 
*・*地方色を生かした「高年化用品」*・* 
「季節和装」
長着、羽織、帯、野袴、足袋、履物。履物は草履、下駄、雪駄。襦袢に褌。かずかずの和装小物類、そして財布や名刺入れまで。各地の産地がそれぞれに、和装の復興に努力をつづけている。伝来の意匠や素材を生かした「季節和装」が、高年者の衣の趣向として街に見られるようになるだろう。戦前の写真をみると、和洋ほぼ半々の街着である。それも趣味人の凝った風姿としてではなく、ふつうの人のふだん着として。それはこの上なく自由で闊達な雰囲気を地方の街にもたらしていた。
とくに男性の「和装街着」は、急テンポですすんだ容赦ない近代化の過程で、欧風のスーツとシューズを取り込むとともに街頭から追われてしまい、暮らしの場での「モダン変容」の機を得ずに日常性を失っていった。が、「裃」や「晴れ着」として儀式衣装に閉じこめられながら、意匠も素材も高度な製作技術も生産地のみなさんの努力によってなんとか保たれている。消滅に瀕しているそれらを引き継いで後代に残すためにも、「和装街着」の復活が急がれる。 
「和装街着」
「地方の四季」を特徴づける「モノと場の高年化」の契機はさまざまにある。まずは身近な「衣」の部門から。衣は「地方の四季」をもっとも率直に表現できる分野。地域に残されている意匠や素材は、どんな些細なものでも「四季の衣装」に素早く取り込んで生かすことができる。つまり伝来の形や素材を大切にしようとする地元高年者の衣装への趣向が仔細に発揮されているうちに、「和装街着」という地域高年者ファッションが登場する。
「和装街着」をリードするのは、洒々落々の風情を楽しむ「百季丈人」のみなさんである。合わせ、単衣、薄もの、単衣、合わせへと移りゆく季節の変容を、地元の意匠と素材とで繊細にとらえた「地域和装」は、着けても楽しかろう。こだわりなく着用して街をゆく和装姿が僧衣と作務衣だけでは心もとない。和装の形は保っているものの、いかにも窮屈そうな女性の晴れ着や男性の裃姿ではなく、カミシモを解いた和装への回帰が、本稿の希求している衣の情景である。 
「南方(農耕)系衣装」
「洋装(欧装)」の「北方(狩猟)系衣装」は冬の寒気をしのぐにはいいのだが、この国の夏日にだれもがシャツとシューズというのでは、画一的で暑苦しい。もっと気楽に夏の気分がかよう「南方(農耕)系衣装」の意匠と素材を採り入れた衣装がいい。南方の国から訪れる人びとの民族衣装は、「洋装(欧装)」でなく、着る側からいって「和装」に属するが、明るくて開放的である。迎える側も「和装」で応対するのが自然のように思える。ここにも「衣装の多重標準」を巧みに率直に活かす暮らし方がある。
歯に衣を着せずにいわせてもらえば、「クールビズ・ファッション」でこと足れりとせず、優れたわが国の衣装デザイナーがヨーロッパの衣装のために日本的な素材と意匠と才能を提供してきたが、今度はわが国に似合う衣装のために、世界のトップ・デザイナーが伝来の和装を知って、「和装街着のモダン変容」を競う場としての「トーキョー・コレクション」を開催する。そうして初めて、ヨーロッパ中心の硬直した「洋装(欧装)」指向から脱した、本来のおおらかな国際性が開けてくる。はっきりと「衣装の多重標準」を意識した舞台を現出する。黒人モデルが「洋装(欧装)」を超脱したネイティブの衣装を着けていきいきと登場することのほうに、だれしも豊かな国際性を感じるだろう。トーキョーならそういう流れをつくれるはずだ。 
「四季型衣装サイクル」
身近な問題だが、春先と秋口に出くわす不順な天候や昼夜による温度差(一〇度を超える)の時期に、地域の高年者が体調を崩さずにすむ「高年者向け重ね着」の工夫を、「衣の季節表現」として取り込んでゆく。各地に特有の春先と秋口の不順な時期を、重ね着によって乗り切る「高年者向け衣装」をつくり出す。そうすることで、夏もの、春・秋もの、冬ものの四季三分類による「四季型衣装サイクル」が完成するからである。
衣装づくりに熟練したみなさんが自分のために「折り折り思考」を働かせることでいい。
二〇世紀を風靡したのが「洋風(欧風)」ファッション。それに重ねて、新たな世紀での「和風」の復活。各地に四季折り折りの素材と意匠の「和装街着」が定着し、競われて話題に。隣家のジージが「春の街着ベスト・ドレッサー」なんてあっていい情景である。海外の姉妹・友好都市から素材や意匠を移入して個性的な街着をつくり出せば、欧風とは違ったファッションで街がはなやぐ。街着は和洋折衷という「衣装の多重標準」を活かせる分野である。 
*・*地元の素材で味わう旬菜*・*  
「旬菜料理店」
「食」の部門。
「鎌倉は活きて出でけんはつがつお」なんて旬の句を口ずさみながら、水気を切った旬のカツオの一切れに、香ばしいショウガ・ミソを載せてほおばると、江戸前の旬の句の風趣を偲ぶことができる。季節なしの冷凍食材への恩恵はそれとして、季節の恵みと先人の食の嗜好を伝えるのが、四季折り折りの旬の食材を生かした「季節折り詰め料理」。そんな料理は、外に求めるよりは、みずから「男子必厨丈人」として包丁をとって調理に立つよりない。「わたしの旬菜」が四季の食のシーンを賑わすことになれば、高年期の人生はいよいよ楽しいものとなる。
「旬菜」といえば、当日入荷した食材によって「メニューなし」で供する「旬菜料理店」。熟練の板前が丹念に調理する場で、丹精してつくった農作者や獲物を追う漁師の素材に対するこだわりを、菜卓(カウンター)をはさんで語り合うのは、伝承してきた日本の食文化の最良のシーンである。
食は「医食同源」の立場から素材と調理法の蓄積が進んでいる分野である。といっても昨今のTV料理番組のように、レシピで効能をあれこれこだわって、「耳視目食」に陥ることはない。季節を限った旬の食材をさがして「自前薬膳」にしたてあげればいいことだ。地域のレストランで、季節メニューに「地場薬膳」を発見したら逃がさない。
  けっこういけるコンビニ味覚に慣らされてきたが、高年期ともなれば、時節とともに現れる新鮮な食材を求めて調理した自作料理「わたしの旬菜」の創出を試みる。さらには「男子必厨」丈人として、旬の素材を吟味して「自前薬膳」を考案する。時に朋友を招いて、できたての旬菜を前に「しずかに新酒の数盞を嘗め、酔って旧詩の一篇を吟じる」のもいい。季節の恵みによる贅をつくした食のシーンである。 
「口楽文化人」
食べて語って歌うというのは、口が求める三つの楽しみであり、「口楽文化」ともいうべきもの。カラオケ店に「高年者専用ルーム」(「カラオケSSルーム」。VIPではない)があって、「口楽丈人」が出動して、「歌う、語る、食べる」(うるる三楽)ということになれば、ここは三味一体の「シニア文化圏」となる。「年少と春風を争わず」に、高年者が好みの曲を選ぶことができ、映像にも工夫をこらし、高年者好みの食ダネを揃えて供するホールを持つカラオケ店なら、これは与楽効果が満点の町の文化施設である。レストラン系カラオケ店の多重「うるる」構想に期待しよう。若者を狙った新曲争いに走ったり、やすく提供するために曲想と関係のない映像の繰り返しでは、「途上国化」というより、すでに衰弱化のうち。カラオケ店は、三世代がそれぞれに、またみんなしてこよなく愛し育てる街の文化娯楽施設なのである。
世界の料理を食べて歌が歌える「国際カラオケ」で外国からの客人をもてなすことができれば、技術立国日本の「口楽文化」の拠点としてどれほどの効果があるか測りしれない。国際的「口楽文化」を日本「口楽文化人」の「うるる」嗜好が先取りするのは愉快な情景である。 
*・*街並みを整える庭づくり*・*  
「一〇〇季の庭」
「住」の部門。
「地域の四季」の変化をじょうずに取り込んだ住居での暮らしが、高年期の日々の充足とどれほど深く関わっているかについては、すでに述べた。季節とともにまわるわが家の「四季のステージ」を演出するには、大道具・小道具がいる。そこでまずは先人が工夫してこしらえた伝来の園芸用具、新しい工具や設備など、庭いじりの業の要所を習うことになる。
若手の「百季丈人」(高年前期)であるDさんは、隣に住むベテラン「百季丈人(高年後期)」のGさんに習いながら、花期や実入りに配慮した植栽を手がけている。植物が繊細に表現してくれる「一〇〇季の庭」にひとつずつ迎えた「地域の四季」を実感しながら過ごしている。
街並みにかかわる庭木のうち、高木は周囲と合わせて土地にあったものにし、狭いながらもわが庭やベランダを通じて折り折りの「地域の四季」の変化を享受しながら、街並みの構成に参加していることもまた実感している。こんな街なら紛れ込んだ旅人も安心して時を過ごし、思い出を得て立ち去ることだろう。穏やかに風土・伝統が息づく街だからである。 
「わが庭の公開」
「地域の季節の花」が観光名所になっているところは数知れない。多くは観光協会などが管理にあたっている。梅や桜の名所は全国的に分布している。その一方で、寺院や個人の持つ庭園が「季節の花」のころに入場料をとって公開されて、「地域の季節」を楽しむ人びとに支持されている。牡丹、薔薇、紫陽花、菖蒲、藤、桃、菊などの「わが庭の公開」が話題になる。もちろん果樹の場合には摘果による収入が見込まれる。 
# 地域生活圏の高年化
*・*ふるさとの大地を踏み鳴らせ*・* 
「ふるさとの現風景」
将来を期待されて「ふるさと」を離れて、ひとり大都市に出て大学で学び、そのまま職業について都会暮らしをしてきた人びと。そのまま「都市浮遊型(Q字型)の人生」に終わらずに、高年期には「ふるさと」にもどって過ごそうと考えている人びと。「ふるさと帰巣型(U字型)の人生」を思う人びとには、こころの支えとして「山は青き、水は清き故郷」が原風景としてあって、静かに唱歌「ふるさと」を歌えば、山や川、うさぎやこぶなは変わることなく眼の裏に浮かぶ。「いかにいます父母・・」、となると父母はすでになく、「ふるさと」も記憶の中の風景としてよりほかになくなっていることを知るが、それでも溢れ出るなつかしさの度合いには変わりがない。だれもが住みやすくなることを望んできたのに、わが村や町の「ふるさとの現風景」は求めていたものと違う姿になっている。先の大戦ののち半世紀あまり、得たものよりも失ったものが多いことにも気づいている。
得たものといえば――舗装された真っ直ぐな道路。メカニックな騒音。コンビニ、スーパー、駐車場。コンクリート造りの新校舎と新庁舎。郊外のゴルフ場・・まだある。途上国製のさまざまなカタカナ表記の家庭用品。そしてマイカーとプレハブづくりのマイホーム。
失ったものといえば――安心して歩ける小路。緑ゆたかな雑木の里山や鎮守の森。ヒバリやカエルの声。野外で遊ぶ子どもたちの歓声やお年寄りの笑顔。秋祭りの活気。わら屋根の篤農家やよろずや商店・・まだまだある。もしかして明日への期待や将来への展望も。 
「歴史・伝統環境」
春になるときまって蠢動していた小さい生きものが次々に失せていく気配。失ってしまった自然環境のなにほどかでも回復しようという活動が、各地域で沸くようにして試みられている。とくにホタルは「水は清き故郷」のシンボルとして全国各地で蘇った。全国ホタル研究大会(ホタル・サミット)が開かれている。
夜空に舞うホタルの光は、過去に出合って失った何かなつかしいものを想い起こさせる力を持っている。「ホタルの飛翔」は終わりではなく次の何かへのリード・ライトなのだろう。「ふるさとの変貌」を見つづけてきて、何を蘇らせたらよいかの具体的イメージを探っている人びとに、新たな発見をうながす契機となっている。
人間中心の利用がすぎて再生力に崩れを生じた「自然環境」の回復がいわれ、消費の現場を無視して生産活動を優先したあげくに壊された「生活環境」の保全がいわれる。「ふるさと再生のまちづくり」ということになれば、「自然環境」や「生活環境」ばかりでなく、先人から引き継いだ「歴史・伝統環境」といった住民の暮らしにかかわる風土を含めて、それらが重なり合う現場で何をどうしたらいいかは、経緯に詳しい高年者の人びとが再生を協議するところからはじまる。 
いきいきシニア」
特例債付きの合併協議がひと段落した二〇〇五年六月中旬、どれほどの地域がどれほど元気であるかを知るためにおこなわれた調査(内閣府「地域再生に関する特別世論調査」)の結果では、暗に相違せず「地域に元気がない」ことがわかった。
自分が住む地域に「元気がない」と感じる人が四四%、「元気がある」と感じる人の三八%を上回っている。「元気がない」と答えた人は、その理由として「子供や若者の減少」(五九%)、「中心街のにぎわいの薄れ」(五一%)、「地域産業の衰退」(三九%)などをあげている。そして活動の中心となるのが国(一八%)でなく、住民(四八%)と地方自治体(三八%)であることもはっきりしている。
実感とそう違わない結果だが、ではだれがどうするかが問題だ。「子供や若者の減少」の根っこには「少子化」が、「中心街のにぎわいの薄れ」には商品流通の変化が、そして「地域産業の衰退」には「地産地消」の問題がそれぞれに指摘されており、国としては「合併による地方分権」をすすめ、「少子化特任大臣」を置き、「中心市街地活性化」や「地場産業育成」もみんなやっている、活動の中心はもはや国でなく、「住民と地方自治体のみなさんです」という国の悲鳴が聞こえる。「住民と自治体が主導」であることもわかっている。もはや人ごとのように国を批判していても始まらない。住民と自治体が何とかしなければならないときなのである。
全国には元気がいい「いきいきシニア」だっているのである。長期にわたる国主導の政策のなかで、やむなく生涯現役で対応してきたのが、農林・水産業の人びとだった。「地域おこし」の成功例(模範事例)を取り上げて表彰する「いきいきシニア活動表彰」(農林水産省)をみていると、農業・林業・漁業にたずさわる高年者のみなさんがきびしい環境のなかでいかにして生産組合や協議会をつくり、アイデアを出し合って特産物を作り出し、よろこびを作り出し、暮らしの安定に努めているかがよくわかる。  
「地域土中の地」
「少子化」対策にしても、子どもたちのためにイモの苗付け、茶畑づくり、七草とり、すだれづくり、トンビ凧・・そして少なくなってしまった安全な居場所をこしらえるといった事業も、地域の高年者のアイデアと参加なしにはすすまない。地域が湧き立つのを願わないものはいない。それを担うのは若者ではなく健丈な高年者なのである。
「ふるさと再生まちづくり」のきっかけをどこに見つけ出し、どこから元気をもらうのか。
唐突に聞こえるかもしれないが、それは「地域土中の地」からである。村や町にはかならず「土中」と呼ぶことができる場所がある。「土中」といってもモグラやミミズが住む土中ではない。地域の「歴史・伝統環境」を支える重心になっている場所のことで、社寺であったり役場や小学校や老舗や旧家であったり、城跡や大樹が残る岡の上や先人がたどり着いたとされる海辺や河口であったりする。身辺に三つや四つは必ずある。
人生をはるかに越えて残りつづけるものへの畏敬の念をもって、どこかそういう「地域の土中の地」に立ってみる。頭の中で結論を出さないで外へ出て、まずは実際に立ってみる。すでに鎮まった先人に語りかけ、今ある姿を見つめ、行く末を考える。他に支援を求めようとすることなく、みずからが「土中」の地に立って、地域再生に立ち向かう元気を沸き立たせることだ。そして地域の高年者として記憶のなかに残されている「懐かしく元気だった生活圏」を再生して後人に引き継ぐ事業に投じること。力が足りなければみずからを奮い立たせるしかない。
ふるさとの大地を烈しく踏み鳴らせ! 先人が頼もしい力を与えてくれるだろう。 
*・*合併後の課題は「広域化+地域化」*・* 
「平成の大合併」
先の大戦のあとしばらくして「昭和の大合併」と呼ばれる市町村合併があり、それ以来、四○年余りを経て、「平成の大合併」が生活圏の広域化が進んだことと「地方分権化」を主な理由としておこなわれた。住民の側も、自家用車を利用して三キロ~五キロ圏のスーパー・大型店舗への買い物や文化施設や病院などへの遠出は日常的になっていることから、合併の必要性は生活圏広域化の流れの中で納得できた地域も多かった。
ここで前世紀の末に近く、全国の自治体が競いあった事業があったことを思い出しておきたい。「ふるさと創生」事業である。一律一億円でアイデアを競いあった。そのときは小さな自治体を減らすことではなく、それぞれが特徴を探しあてて「小さくとも輝く自治体」を目指したのだった。「一億円ふるさと創生」をきっかけにして地域ごとに生活圏意識の醸成に動いた。
新世紀初めの全国規模での「平成の市町村合併」ではどうか。総務省は「地方分権」をかかげながら「人口が一定規模に満たない自治体は解消する」として、自治体の数を減らす(一〇〇〇が目標)ことをめざした。「ふるさと創生=地域化」と「平成の大合併=広域化」とに示される国のふたつの意図のよじれに地域住民はとまどわざるをえない。 
合併を数の上だけでみれば、三二三二市町村(二〇〇二年末)を三分の一の「一千自治体に」を目標にして全国展開し、一八二〇市町村(二〇〇六年三月末)を成し遂げたのだから、総務省としてはひとまず面子を保ちえたのだろう。国の合併指針は、「規模の適正化」とともに「合併市町村の円滑な運営の確保及び均衡ある発展」(合併特例法・新法)であった。
新自治体は、合併後の「生活圏の広域化+地域化」という多重標準による新たな生活圏の創出を模索することになった。 
「生活圏の広域化」 
国(県)からの要請であった広域化としての生活圏(平成の合併圏)の形成は、クルマの利用やIT化をとりいれた規模のメリットを納得できる住民の広域化意識を醸成しながら進められる。その一方で、これまでの暮らしの場であった生活圏(昭和の合併圏)は、「地域の特徴の再生(創生)」といったまちづくり事業として、「自然環境」「生活環境」「歴史・伝統環境」それぞれの見直しに立った住民活動として展開される。だから「生活圏の広域化+地域化」という多重標準の視点が必要で、どちらか一方に片寄ってもみんなが暮らしやすい地域とはならないだろう。
住民の側からの対応としては、新自治体の新たな構想のもとでの暮らしの場(クルマ利用の行動圏)をつくる一方で、旧自治体の範囲(歩行圏の小学校区と自転車圏の中学校区)での地域の暮らしを守ること、つまり「生活圏の広域化と地域化」とに同時に対応するという多重標準の意識と視野をもった暮らし方を選択することになる。合併評価の基準は、住民がこの双方の生活圏をうまく利用してうまく暮らすことができているかどうかにかかってくるのである。新自治体の中心部だけが賑わって、関係した周辺の地域が特徴や暮らしやすさを失って萎えてしまうのでは成功例とはいえない。 
「個性ある地域の発展」
別の項でも論じるが、「均衡ある国土の発展」から「個性ある地域の発展」へという政府の「骨太の方針」の理解においては、「Aに替えてBを」という単純・一元的なものではなく、「Aに重ねてBを」あるいは「AとともにBを」という多重・多元的な変化としての理解が必要なのである。「合併特例法」(新法)では、市町村合併の推進により、「規模の適正化」と「合併市町村の円滑な運営の確保及び均衡ある発展」をいうが、「地域の個性」(特徴)を残して活かしながらの「均衡ある発展」であることを、それぞれの関係自治体の現場でみんながしっかり把握しておかないと、地域の特徴を失って均衡ばかりが先立つことになる。
合併を機に、産業(モノ)と文化(ヒト)での「歴史・伝統」の再生を通じて、各地域がみずからの特性を再確認して暮らしに活かすような「まちづくり」の実施によって地域住民の活力を呼び覚ますこと、住民の地域を思う意識を醸成しないでは地方分権の受け皿としての「個性ある地域」は成立しない。 
「民主主義の抜苗助長」
合併を成し遂げた新しい自治体のうち、住民の関心が沸かず、具体的な動きが「ふるさと創生」のときほどにも生じなかったところ、つまり「元気がない」ところでは、中心部だけに合併のメリットが集中するという結果がみえはじめているのではないか。
「民主主義の抜苗助長」になりはしないか。大戦後に得た主権在民の種から芽が出て苗となって育ってきていたのに、早く苗を伸ばそうとして引っ張って(助長して)苗を枯らしてしまう愚かな農民(まともな農民はそんなへまなことをするはずはない)の姿に重なるのだ。
足並みこそ違うものの、住民がゆっくりと育ててきた「地域民主主義」の根付き具合を個別に考慮することなく、国(県)は「地方分権」による自治の強化・効果をいいながら逆に自治能力を奪うことになる「一律の平準化」を強行したともいえる。実際に「新市民」の反応がにぶいところは苗が枯れてしまった可能性が濃い。住民が自主的に動かないことによって、次第に「抜苗助長」であったことが明かされ、いくつもの「小さな自治権」が奪われ、住民自治から国家管理へ、つまり「民から国へ」と振り子がもどっていく。 
それを知りながら国があえて「抜苗助長」という愚かな農民役を務めたのはなぜなのか。
「一律に強行しなければ、きびしい財政事情を自治体職員も地域住民も分かってくれないからだ」という、財政事情の逼迫がその理由であろう。
地元住民が納得し呼応して実現に参加する事業でないかぎり、財政赤字を好転させる地元効果は生まれない。住民が呼応し地域が動かないかぎり、「地方分権」どころか、「三位一体の財源配分」の場で国による地域行政支配だけを強めることになる、つまりは国家管理をしやすくするための虚構となる。 
「地域社会の高年化」
各地の合併協議会で「高齢化」問題はどう扱われていたのか。合併の必要性のひとつが「少子・高齢化」への対応だったはず。あとは「財政の悪化」「日常生活圏の拡大」「地方分権の推進」「住民要望の多様化」である。このあたりの課題はどこもそう変わらない。
「少子・高齢化」への対応では、六五歳以上の人口割合が増えて医療費・福祉対策費が増大する一方で生産年齢人口が減少し税収が減少し財政が逼迫する、だから「現在と同じ水準では行政サービスが受けられなくなる」と指摘する。将来像では、「シルバー人材センターの充実、生涯学習の振興、NPOの活用」などをあげる。どこも新たな展望をふくむ解決策を示していない。
そして「市民参画の推進」には「男女共同参画」はあるが、「高年者の参画」への期待はどこにも見えないのだ。これでは「少子・高齢化社会」の将来像は描けない。
合併が成立したところもだが、現状のままでは自主財源を取り崩して対応するしかない。小さな自治体ほど厳しさを増す。このままいけばどこも数年しかもたず、めぐりめぐって財政赤字の潜在的担保となっている高年者の資産がねらわれるのは目にみえている。それに気づいた高年者が動き出す。「高年者住民の参画」はいまなら早くはないが遅くはない。
「平成の大合併」の成否にかかわりなく重要なことは、地域の「まちづくり」に高年者がどれだけ参画する意欲をもっているかにある。財政の好転もその結果としてもたらされるからだ。地域が独自に解決しなければならないのが「地域社会の高年化」である。人口の三分の一にあたる高年者層(五〇歳から)が協力して、地域特性や伝統を生かした高年者自身が暮らしやすい地域づくりを推進する。自治体は全国一律の合併を機に、「地域社会の高年化」を施策の柱として位置づける。つまり「高年者の社会参画」が「地方分権」の受け皿としての自治体の特徴を支えて独自性を発揮しうる課題であり、周囲の自治体を比較しながら良所を導入できることが、合併を契機にした全国一律の活動であることの最大のメリットなのである。先の大戦後に育ててきた「地域民主主義」の芽は、「地域生活圏の高年化」活動によって引き継ぐことになる。高齢化率が高い県でさえも、「高齢社会を豊かで活力ある社会としていく」といいながら、なお担当部署が旧来の健康福祉部や土木部という現状では、全国一律の「地域の高年化」対応はむずかしいだろう。 
*・*わがまちの「高年化特産品」*・* 
日本的よき均等性」
新幹線の座席でうとうとした後で、身を起こして、列車の窓から外を見る。
「いま、どこさ走ってるん?」
流れ去っていく風景からでは、どこを走っているかの判別がつかない。外国での話ならともかく、わが国の国内での話。利用した人ならだれもが経験していることなのである。次々に展開する田畑も家並みも、どこも同じような風景なのだ。新幹線の車窓からの風景の中に、「ここはR町 △△が特産」といった程度の看板くらいはあってもよさそうだが、地方特性(特産)がいっこうに立ち上がっていないのである。「地方の時代」といわれてずいぶん経つというのに。
しかし、これは見方の違いによるのであって、いずれの地も凸もさせず凹もさせずに、「冨を等しく分かち合いながら、ともに豊かになる」という、先の大戦後にわが国の先人が選んで目標としてきた「日本的よき均等性」の成果なのである。「豊かになれる者からなれ」とはせず、個人差や地域差をなくして、等しく成果を分かち合おうと務めてきた善意の人びとによる積年の成果なのだ。その意味でなら、これまでも「地方の時代」だったといえる。東京一極集中の風潮の中で、地方の人びとは優れた多くの人材を提供しながら、残った者たちによって、「モノと場の平等な豊かさ」のために、たゆまぬ努力をしてきたのである。
みんなが等しく貧しかった時代、若者を大都市へ送り出し、地元に残って貧しさや不便さにも耐えながら辛苦した人びと。いまはもうその姿は定かでないが、地元のために尽くした先人の努力を無視しては、現状の公平な豊かさに対する理解の公平さを欠くことになる。
新幹線を利用しながらこう語るのは失礼になるが、「善く行くものは轍迹なし」という先哲のことばに耳を傾けたい。すべての業績を周囲の人に振り分けて、みずからは轍の跡を残さず去っていった善意の人の姿を忘れ去るわけにはいかない。等しく冨を享受するという善意から始まった「均等化としての地方の時代」が、時を経て「横並びの安心感」による自立意識の欠如となり、推進力を失ってしまっている。成果主義といった目の先の競争誘因を取り込まねばならないほどの転機を迎えようとしている。
他ならぬ政府が掲げた「骨太の方針」の、「国土の均衡ある発展から個性ある地域の発展へ」 というキャッチフレーズには、そういう理解による転機への要請が表現されている。
ここで注意すべきことは、「~から~へ」に示される政策の変更である。ここは「~を転換して」ではなく、正確には「~に多重化して」と理解すること。地域特性の回復だからといって、一八〇度の「転換」をするのではなく、これまでの国主導の「横並びの均等化」によって得た現況に、さらに地元の発想を「多重化」して、地域の活力を呼び起こそうということである。そう理解しなければ先人が善意として積み重ねてきた営為をまるごと無視することになってしまう。
「地域に根ざした暮らしの知恵がどの地方にもあったはずなのだが」と思いながら、新幹線の客は、どこかわからないまま車窓から目を戻す。前方の出入り口の上の小さな空間をニュースが流れ、「あと三分でN・・」というお知らせが流れた。 
「地方色・県民性」
江戸時代の後半期に各藩が競い合って育てた地域特性は、近代化という外圧の中でも明治・大正期まではなお地域特性として保存する努力がなされてきた。それが昭和の初期に国家主義が全土を蔽って以来、「全国的な均等性」が優先するようになり、「地方色・県民性」などといわれていたそれを消し去ろうとする力が働いてきた。その方向は「お国ことば」が「標準語」の普及のかげで「訛り」として忌避されるなど、戦後にもなお持続してきている。それでも戻りの道が確保されていることは、特産物や郷土料理や民謡や祭事がなお盛んなのをみる限り、潜在して健在であるといえよう。
敗戦後に地域の人びとの安心感を支えてきたのは「モノと場の横並びの平等感」であった。だから新幹線の窓からでは見定めがつかないR町のような町でも、次のような横並びの「基本課題」を共通して持っている。「個性のあるわが町」を創生するには、地元の高年者が協力して、自分の経験をつき合わせて、この中から地域特性を掘り起こすことになる。
「産業・流通」では、主要な物産の確保と地元素材を活かした特産品の形成
「環境」では、「自然環境」では里山や鎮守の森、水辺などの再生・保全。「生活環境」では生活道路の整備、リサイクルに関する住民意識の醸成と施設。「歴史・伝統環境」では四季の祭事や古城跡・旧跡や文化財、人物などの再興・保存・伝承
「情報化」では、情報ネットの形成、パソコン教育・研修、お国ことば(方言)の保存
「国際化」では、姉妹・友好都市との交流、青少年ホームスティ、特産品の共同開発
「少子・高齢化」では、健康保持事業、子育て・孫育て教室、男性料理教室、世代交流
「地域コミュニティー」では、防災・安全事業、まちづくり構想、中心街の再生
「スポーツ・生涯学習」では、地域の歴史・伝統、四季の暮らし、園芸、各種スポーツ、碁・将棋、ダンス、文化講座、芸能、ボランティア・・などなど。
すでに各地から具体的成功例として耳にするのは、環境に関する「エコ・ライフ」や「スロー・ライフ」による再生活動である。「ホタルの里」や菜の花・レンゲ・コスモスといった「花の里」や「そばの里」や「和紙の里」といった名物づくりの里づくり。そして地元の焼き物・織物の再生。和太鼓・歌舞伎・踊りの復活。××弁・民俗芸能の保存と伝承など。いずれも意識されないが、地域の高年者が主体となって活動をリードしている。 
「高年化地域特産品」 
各地の「物産館」や「道の駅」に陳列されている「地域特産品」をみてみよう。
季節ものの青果・果実、水産物、ジャムや味噌のほか、まちの「創作の里」などで住民がこしらえた陶器、和紙、木製品、塗りものといった日用の手づくり製品の中に、伝承技術を生かした「高年化(一生もの)地域特産品」が見られる。高度の伝統工芸もあるが、そこまでいかなくとも地域の素材を活かした素人の熟練した手作り品のほうに地産品の味がある。価格も高いわけではない。没後の遺産としてまではムリとしても、終生の愛用には十分に耐えられる製品になっている。
ここでの「高年化地域特産品」というのは、高年者のための用品と狭く限定するよりも、「丈夫で長持ちする一生もの」という意味でいい。終生用いられるほどの耐久性と「熟練の手ざわり」があればいい。地元の素人づくりのよさを認めあうことからはじまる。
前項の表のように、どこの自治体も熱心に高年者住民が参加する活動の支援をおこなっている。中央から講師を招く定番の文化講座やスポーツや芸能ものが少なくないが、地域と地域を結ぶ活動や国際交流、地場産業の展示・品評会といった「地域特性のモノづくり」を意識した活動に将来性がある。高年者住民と自治体と地元企業がバランスよく協働する活動にも可能性がある。他の地域の追随を許さないレベルにまで技能や特性を磨きあげることで、地域独自の物産が創り出されることになる。  
「企業の地方化」
企業もまた「中央から地方へ」の流れの中での役割を果たしている。かつて若い日に「均衡ある国土」づくりの時代に地方に出た社員が、いままた「個性ある地域」づくりの時代に地方へU・Jターンすることで、高年期での最良の職場選択となる可能性が大いにある。
「地方化」をめざす企業がなすべきことは、地元資本の企業を資金力と経営ノウハウの差で打ち負かし、市場を奪うことではない。それでは良き「企業の地方化」とはならない。勝っても長期的には歓迎されない業態である。
中央で培った経験を地元企業と共有して提携・協力しながら地域の活力を引き出すこと。そのためにU・Jターンする地元出身の高年社員の経験が活かされる。会社に願い出て、地方で定年を迎え、「人生の第三期」のステージとすることも選択肢のひとつだろう。
地域の高年者のみなさんが暮らしの中から発する要望が「高年化地域特産品」につながる。きっかけは思わぬほど身近にあるものだ。また前述したように、海外の姉妹・友好都市が培ってきた伝統的な物産や行事や暮らしの慣習といった特性の中から、新しい意匠や新素材を移入して新製品が生まれることが十分に予測される。そういう新製品の場合は、地域の「高年化特産品」の市場は、地域内にとどまらない。 
「地域ブランド製品」
地域の高年者の要望に応じて、地元企業は「モノづくり」に、自治体は「まちづくり」に、どう柔軟に対応するかが「地域特性のあるまちづくり」の形と質を左右する。各地の高年者のみなさんの「地域の四季」を際立たせる家庭内と生活圏での地道な挑戦が、「地域社会の高年化」の道程であることは確信していいだろう。
「地域の四季」を快適にすごすための住民自身による「モノと場の高年化」の実現。その要望から、伝承技術を活かした「高年化地域特産品」が生まれる。終生にわたって愛用できる「地域特産品」をいくつも持った「個性のあるわがまち」が競いあう。地域の生活を支える製品が超人気になれば、それは「地域ブランド製品」として定着するばかりか、地場物産に新たな活力を与えることになる。その成果を集めて「県都」では毎年、「(仮)高年化特産品展示会」が開かれる。  
*・*地域が担う「少子・高齢化」社会*・* 
「家族総出の子育て」
かつて近代化の過程で、わが国でも「人口急増(爆発)」の時代を経験した。地方の家庭は子どもたちを、お国のために、大都市のために、労働力として送り出してきた。長男が農家を継ぎ、次男坊、三男坊、*男坊は一人前に育つと都会に出ていって働いた。
いまや送り出せる余力はない。それでも地方の家庭では、「家族総出の子育て」で女性の社会進出を支え、「子育て」をおこなっている。都会生活の若い夫婦の子育てに支援の急務があるが、伝統的な子育ての基本は地方の「家族総出」にあることをしっかり把握し直す必要がある。霞が関にも「家族・地域の絆」を再生するための三世代同居支援という動きがあるが、流れをつくるにはいたっていない。
子育て支援といえば「エンゼルプラン」(九四年策定・九五~〇五年度実施)も、「新エンゼルプラン」(九九年策定・二〇〇〇~〇四年度実施)も、そして「次世代育成支援」のための「次世代育成支援対策推進法」(〇三年公布・行動計画〇五~一四年度実施)も、この一五年の施策のどれにおいても、直接には祖父母の育児参加には触れておらず、「地域住民」として扱われてきた。子孫の育成にとって祖父母の存在はゼロなのである。
施策の上でそう軽視して扱われていても、実際には孫の傍らにいて親の目と違った目で見て、知らないことを教え、励ましを与え、孫から二重マルの似顔絵をもらう祖父母は多い。過保護や板ばさみを避けながら、社会適応性のある子どもたちを育てる役割を果たしてきたのは、おじいちゃんやおばあちゃんではないか。それがごくふつうの伝統的な次世代支援であり、家族による自然で当然の「子・孫育て」である。祖父母に可愛がられて育った孫は、高年者になってきっとやさしい祖父母になるだろう。
「ひとりじゃないよ、みんなで育てる未来に輝く子どもたち」
いいキャッチ・フレーズである。家族総出で、そしてさらには地域のみんなで、地域の子どもの成育を支援し見守っていくことが、もっとも有効な「少子化対策」であり「少子・高齢化」社会づくりなのだといえるのである。
 「孫育て講座」
多くはないが、「育孫書」が出版されている。「祖父母が孫と遊べる児童館」へ行ったり、「孫育て講座」や「孫育て教室」に出て、新しい育児のやり方を知り、孫たちとどう接したらいいのかを考えたり話したりするチャンスも増えている。
期待されていないから熱心になれない。「子・孫」を育てるためには、父母の子育てに加えて祖父母の「孫育て」がうまく重なるのが自然であり当然であり、各地でさまざまな取り組みがなされているが、肝心の国の子育て政策が大都市型の「保育施設の充実」や「夫の育児参加」や「育児休業」といった支援対策に片寄ってしまっている。
「三世代同居」や子ども世帯が同じ敷地に家を建てて住む「敷地内同居」が多い地方の町村での次世代支援は大都市型とは同じではない。つまり「子育ての多重標準」としての都市型と地方型とが明確に意識されなければならないのである。
世帯同居ならいうまでもなく、近居の場合には「おじいちゃんち」が成り立っているだろう。保育施設や幼稚園での「おばあちゃん先生」、公立小中学校の補助教員、塾の教師、通学路や公園や公民館、図書館、その他の施設での目配り。事故や犯罪やいじめといった被害から子どもたちを守るのに、地域の高年者の「次世代育成」への関心は欠かせない。さまざまな自然体験、決まった遊具を置かずに子どもたちの自主的な参加で遊び場をつくる「まっ白い広場づくり」には、かつて自然のなかでそうして遊んだ経験をもつ高年者の知恵や手助けがいる。マンガで育ってすぐキレル子どもに、豊かで精細な表現力を身につけさせて感情のコントロールができるようにしようという「読み聞かせ図書館」や地元の伝統技術・芸能を伝授する活動などにも高年者の支援が生きている。 
「総人口減少」
何度聞いても違和感を覚える統計用語のひとつに「合計特殊出生率」(厚生労働省)がある。ひとりの女性が生涯に産む子どもの数を示すが、わが国の場合は、人口を維持するのに必要といわれる二・〇八には程遠いラインで推移している。二を切ったのが一九七〇年というからもう四○年も下がりつづけている。〇八年では団塊ジュニアの出産期ですこし持ち直したといっても一・三七となっている。
そして総人口が二〇〇五年の一億二七七七万人をピークに長期的に減少という事態を迎えている。国会の論議で、「総人口減少」の危惧に対して、政府側答弁は、減るものなら減ってもしかたがないというものだった。明治時代は三〇〇〇万だったし、戦後も七〇〇〇万だったのだから。将来は六、七〇〇〇万人という事態はありうるというもの。為政者としては「子育て」環境を整えつつ、「減ってほしくない」として努力したすえの結果ならいざしらず、無策のままで統計的な予測を述べるのには唖然とするばかりである。
国は「次世代支援」を進めているとはいえ、都市型の夫婦ふたりの抱え込みによる子育てに固執している。地方の実情や高年者を軽視したまま、祖父母の支援による「孫育て」という伝統を引き継ぐことをしていない。支援対策の実態も、結婚・出産期にある人たちの「結婚、出産を奨励」するが約二〇%なのに対して、「結婚、出産を阻む要因を取り除く環境整備」が過半数という(総務省の世論調査)。なのだから、家庭内で、地域社会で、職域で、「孫育て」のための連携した支援が必要なことはおのずと明らかであろう。
 「高齢者センター」
これまで高年者側からの世代間の出会いといえば、「老人クラブ」がおこなってきた「地域を豊かにする活動」(旅、将棋など)がある。「伝承活動」や「世代交流」は組織的な活動の柱になっており、地域の文化や芸能・民芸や手工芸、郷土史などを子どもたちに伝承している。しかしながら既存の「老人クラブ」と「子ども会」との間ではとても扱いきれない地域の問題が山積しており、家庭内とともに地域生活圏でも高年者による「三つのステージ化」の活動が、新たな生活圏の創出とともに次世代育成支援と重なるものになることはまちがいない。そしてその先に地域の課題を解決するための「三世代会議」の発足が想定され、施設として「三世代会館」が構想される。各地に「児童館」「青年館」「高齢者センター」は多くあるが、「三世代会館」はまだ聞かない。合議して名前を変更して、三世代の代表者が管理するようになれば有効な地域の集会所として機能するだろう。
たとえば東京都千代田区の「高齢者センター」は、さすがにトップクラスの地域にあるトップクラスの高齢者のための総合的施設である。憩いの場、健康増進のための場、仲間づくりのさまざまな同好会、講演や映画や演芸も楽しめる。七階の施設でいたれりつくせりだが、世代を超えて発信する拠点というコンセプトはない。
 「三世代会議」
高年者側から発信する「青少年」「中年」「高年」の代表による地域の「三世代会議」には、これまでの「老人クラブ」などによる活動を大きく越えた構想が込められている。
地域の特性や伝統を大事にし、特産物を育て、篤農家を守り、若者を鍛え、子どもたちに強く生きる夢を与えられる地域の高年者層の活動に、地方自治体はもっと期待し参画を求めるべきであろう。そんな活動を担うのは地域の来歴を知っている「昭和丈人層」のみなさんである。
地域住民みんなが暮らしやすくする活動、たとえば「バリアフリー」による環境の整備など「ユニバーサル・デザイン」の考え方に配慮したまちづくりは成果をあげているが、それに重ねて物産、文化、余暇にわたる三世代がそれぞれに暮らしを楽しむために要請され、「青少年」「中年」「高年」それぞれの活動を推進するのが「三世代会議」である。そのための常設の施設が「三世代会館」である。公民館や文化会館はだれもが利用可能な共用施設であるが、それとは別に三世代がそれぞれに活動する場を持ちさらにそれをつなぐ拠点とし、「三世代会議」をおこなえる施設が「三世代会館」である。「三世代会議」を開いて、それぞれの要望を具体化していく。先人の事跡から学び、将来の後人に伝え、いま暮らしている三世代がそれぞれの力をあわせて、外からの風圧に耐えうる「新・ふるさと樹形」を整え、幹を太らせる。そんな活動の中心にいて高年期を享受するのが「昭和丈人」を自覚した人びとの人生である。 
*・*ふるさと人を代表する「地域シニア会議」*・* 
「地域特性を持つまち」
ふるさとに残って地域の物産や伝統を守ってきた人びとを中心にして、ふるさとを離れて大都市で活躍した後に高年期なって戻って過ごす(J+Uターン)人びとが蓄積してきた知識や技術や人脈や資産などを地元にもたらすこと。「地域特性を持つまち」にするにはそれらが有効に働くことが必要であろう。魅力のある町には、これまで関係をもたなかった人びとも高年期を過ごすためにやってくる。いわゆる「田舎暮らし」指向の人びとが参加することになる。
これまでの「均衡ある国土の発展」により平準化された町に重ねて、「地域特性を持つまち」にするためには、まず町の来歴に長くかかわってきた高年者が中心になって、外部で培った経験や知識をもつ高年世代の人びととともに「高年者会議」を構成する。既存の権益を守るために排他的になってはいけないし、一方で外来の人びとも地域の伝統やしくみを無視してこれまでの暮らし方をそのまま持ち込もうとすることはよくないことだ。お互いの長所を組み合わせた「高年者会議」が成立してはじめて良好な「高年期のステージ」を構成することができる。と同時にまちの将来を担う子どもたちのための「青少年期のステージ」にも配慮する。これまでの地域を代表して活動している中年世代のための「中年期のステージ」を合わせて、「地域の三つのステージ」がバランスよく機能する態様をつくりあげることが求められる。
この「地域の三つのステージ」の創出は、地域の「少子・高齢化」に即応する新しい住民活動であり、それはまた三世代それぞれが推挙したメンバーによる「三世代会議」という新しい活動主体を成立させることで推進されることになる。 
「地域シニア会議」
「三世代会議」の「高年者部門」が「地域シニア会議」(名称は随意に)である。ここが「老人クラブ」と重なりつつ異なるところである。五〇歳からの「人生の第三期」に地元で活動している人びとが主要メンバーとなり運営にあたる。地域の隅々を知りぬいた「地識丈人」のみなさんである。Uターンした名誉教授や企業家や高年政治家も加わるが、中心になるのは地元で活躍してきた高年者である。こうした高年者が集まって、いろいろな角度からまちの将来を談論する「地域シニア会議」は、「地域が誇るシニア文化圏」のひとつとなる。すぐれた「地域シニア会議」は、爆笑と拍手と思わぬ展開の質疑のうちに住民の「不言の言」をしっかり聞きとることができる高年者の代表によって構成される。
ひとりひとりはそれぞれに魅力的な「ふるさと人」である。まずは物産・特産にかかわる生産者の代表。物流や人の交流にかかわる商業や観光業の人。宗派や専門科は別にして人生観や生死にかかわる宗教者や医者。専門は問わないが地域を越えた見方や考え方ができる学識者。孫育て期にある女性代表。域外で活躍している「ふるさと人」。柔軟な発想ができる高年議員。「ふるさと創生」で活躍したような行政経験者が加わる。伝統技能の保持者や由緒ある寺院の僧侶などが適宜に参加する。「寅さん」が一目おいていたなつかしい柴又帝釈天の「御前さま」のような人がいると会がなごむ。在住外国人もいい。一般的には九~一一人といったところ、「わがまちのベスト・ナイン」か「シニア・イレブン」といったところ。他地域と異なる構成が「地域特性」の表現となる。
何より「地方からの逆流」をおこす潮目の時期だから、ありきたりの発想や表現力の人(とくに進行役)では当たれない。未整理なままの住民の意見を的確に整理したり、多様な意見を調整したり、党派的な利害を排して中立を保ったり、民主的な進行を保ちながら即座に公平な判断ができ、柔軟な表現力のある人びとの選出が求められる。地域をよく知っている高年者(地識人)なら、たちどころにメンバーの半分は推挙できるだろう。 
「(仮)ふるさと創生21構想」
「地域シニア会議」が中心になって「三世代会議」を呼びかける。「三世代会議」が討議を重ねて作りあげた地域特性を持つまちづくり「(仮)ふるさと創生21構想」として、国をも県をも納得させるレベルで「地方分権」を具体的に担保する自治能力の表現となるにちがいない。
「平成の大合併」が全国一律であることのメリットは、地域社会の「高年化対応」の活動が、各地で同時進行でおこなわれ、その情報が自在に行き交うことにある。ここは本来なら住民を代表する「村(町)議会」に期待したいところだが、地域の利害を離れて求心力をもって「地域の特徴」をつくり出す組織としては、にわかには機能しづらい現状にある。
「地域シニア会議」は、住民の意向を集約しながら、地域の高年者が暮らしやすい生活環境を具体的に検討していく。熱心であればそれだけ多くのテーマについて、まず医療、保健、福祉などについては当然に、それに加えて環境や物産や伝統や教育といったテーマについても議論を繰り広げて、その過程でいくつもの「地域民主主義」の現場を形成する。 
「(仮)市立高年大学校」
「平成の大合併」によって多くの自治体が広域化した。新設合併で求心力を増した中心地域はどこも安堵したであろうが、周囲の合併関係町村や編入町村のなかには、「個性ある地域の発展」という合併による地方分権の目標とは裏腹に、往年の特性や精気を失って萎えているところが想定される。そろそろその気配が見てとれる時期である。
なぜそうなるのか。地域発展のための人材の育成が欠けているからである。
「明治の大合併」のときには、わが村の「村立尋常小学校」が合併のシンボルとされた。村立の小学校は子どもたちに多くの夢を与え、地域を発展させる人材を育成した。その夢はいつしかお国のためとなり、半世紀の後には戦争へと子どもたちを駆り立てていったが。三〇〇~五〇〇戸の規模で教育、戸籍、徴税、土木、救済などが課題だった。
「昭和の大合併」のときには、わが町の「町立新制中学校」が合併のシンボルとされた。子どもたちは町立の中学校を卒業すると、ゆえあって残らざるをえなかった者が地元の産業を守り、多くは都会へ出ていって高度成長の担い手となった。八〇〇〇人の規模で、新制中学、消防、保健衛生などが課題だった。
さて「平成の大合併」では、新しい市は将来の地域を担う人材を育成するために、何を教育のシンボルとしようとしているのか。国は地域の主体性に任せるという理由で明確な指針を示さなかった。明治、昭和のあとの合併のステップからいうと、「市立の高等教育機関」であり、「(仮)市立高年大学校」といった態様のものが今回の合併のシンボルとなる。将来の地域の発展のために活躍する人材を育成するために、地域性を加味したカリキュラムが構成されることになるだろう。そして修学するのは五〇歳をすぎた高年者で、これまでの経験に重ねて行く先長いわが人生を過ごすための知識や技術を新たに習得する。名称は自在であるが、設立の可否が将来の発展の差を生むだろう。活動的な高年者は当分の間、増えつづける。その人びとが地域でいきいきと暮らすために学ぶ公立の教育施設は、個人には豊かな人生を、地域には新しい活力を生むもととなる。 
「地域特性のあるまち」に暮らす
*・*地域が産み出す国際貢献*・* 
「地域ホスピタリティー」
 二〇〇二年六月の日韓共催のサッカー「ワールドカップ」の折りの国際的な熱気はなつかしい。ホスト国として、参加各国チームの選手たちを迎え入れ、みごとな「ホスピタリティー」(歓待ぶり)を発揮した二八市町村。日本各地の人びとには、ワールドカップの期間に、世界中から訪れた人びとに競技場の内外で示したように、おのずから溢れ出る親和の感性によって、国際交流を友好的にすすめることができる潜在力があることを、世界に証明したのだった。
「アリガトー」は世界語になる勢いだったし、街の清潔なこと、花の多いこと、礼儀ただしいこと、どこにも温泉があること、列車が時刻通りに動いていること、スシが「トテモ、オイシイ」など、物価高を除けばホスピタリティーは十分に実証されたのだった。子どもたち、女性、高年者が、それぞれにみせた国際交流での「お国ぶり讃歌」であった。
市町村レベルでの国際的な友好活動の可能性が、それぞれ甲乙つけがたく納得された。アフリカのカメルーン・チームを迎えた大分県の中津江村と、人気NO1だった「ベッカム様」がいるイングランド・チームを迎えた兵庫県の津名町が、とびきり話題にはなったが。
おのずから表れるホスピタリティーはどこから生じるのか。長く孤立した島国であったことで、地域に潜んでいる国際交流への期待感には、計り知れないものがあるように思われる。これこそが今、地域の資産として生かされるべき地域パワーなのではないか。「地域から地域へ」のつながり、とくに海外の地域とのヒトとモノの交流には、労苦をはるかに越えた成果が穏和な経過のうちに実現される可能性が見えている。 
「国民性としての和の心」
わが国の地域の活力を支えているのは、四季の移ろいをじょうずに受け入れながら温和な感性を大切にして暮らしている人びと、だれに対しても等しく親切な高年者のみなさんである。その心の深い層に置かれている繊細さや優しさは、四季折り折りに変化する風物との出会いがもたらしてくれた自然の恩恵といえるものに違いない。繰り返される季節との出会い::
  春は桜前線(三月~五月)が北上し、秋には紅葉前線(一〇月~一二月)が南下する。
  南からは春一番が吹き荒れ、北からは木枯らしが吹き抜ける。
      八十八夜の晩霜を気にかけ、二百十日の無風を祈る。
      南の海に大漁を伝えていわし雲が湧き、北の海にぶり起こしの雷鳴が轟く・・。
わが国の自然は、みごとに四季の変化に調和がとれている。それはまた海の幸・野の幸・山の幸を豊富にもたらしてくれる。収穫を等しく分け合い、奪うよりは譲り合い、見捨てるよりは助け合う、といった「国民性としての和の心」(温和、穏和、調和、親和、平和、協和、総和・・)が、自然のうちに育まれている。と、これは海外の日本研究者が等しく指摘するところ。
だれかれの分け隔てなく萎えた心を励まし、痛んだ身を癒してくれる風物や特産物に事欠かない。それとともに、各地には先人が貯えてくれた歴史・伝統遺産も多く残されている。さまざまな知識や技術が人から人へと受け継がれ磨きあげられて、「地場産業」や「お国ぶり」として暮らしを豊かにしてきたのである。だれかれの分け隔てなく等しく親切な高年者。それゆえの年長者への敬愛の情は、他から与えられたものではない。 
「姉妹・友好自治体」
いま自分が住む自治体が、ふさわしい相手を海外に見出して、お互いの住民同士が親しく行き来し、異質な文化との交流や特産品の共同製作を競う姿を思い描いてみよう。
各地の小村、小都市が、そうして国際協和に努めることで、海外の小村、小都市から信頼される姿が見えてくる。わが国の高年者が持つ「モノづくり」の能力と「親和」の心情は、「シニア海外ボランティア」のみなさんの実績が示すように、途上国の人びとにとっては発展の原動力となるものだ。常に開かれた不凍港のように頼りがいある存在としての小村、小都市。ひるがえってそれは将来かならずわが国の地域の個性や豊かさを生み出す源泉ともなる。
いま「姉妹・友好自治体」は約一五〇〇ほどだが、合弁企業や物産の共同開発といった経済活動や個別分野のさまざまな文化交流が進めば、数も内容的にも広がることが予測される。とくに長い民間交流の歴史をもつ日本と中国の場合には、国家の不和・齟齬の時期を乗り越えて、すでに三〇〇余の「友好都市」が全国にあり、信頼をつなぎ友好の成果をもたらしてきた。これまでに研修生として訪れた多くの若者がいまや中国各地の都市で第一線で活躍している。
首都の東京(各区)と北京(各区)、近代港湾都市の大阪・横浜と上海、歴史文物の京都・奈良と西安をはじめ、勝沼とトルファン(ぶどう)や須賀川と洛陽(牡丹)、富士と嘉興(紙)といった特産物、そして魯迅の故里紹興と藤野厳九郎先生の生地あわら、亡命期の郭沫若にちなむ市川と楽山、中国国歌の作曲者聶耳の終焉の地藤沢と昆明といった人物を介した絆による交流まで幅広い関係を持つ。それを地道に支えているのは、長い日中交流の歴史を思い、大戦時の不幸な記憶を忘れずに信頼を積み上げてきた高年世代のみなさんである。 
*・*狭い国土を四倍にみせる*・* 
「狭い国土を四倍に見せる法」
東北K市の市役所にも「国際交流課」が設けられていて、現地のことばに堪能な職員「国際交流員」が常駐して対応している。市に滞在している外国人滞在者(各分野の研修者や留学生や企業人など)とともに国際交流圏をつくり、深夜にもインターネットを通じて現地とつないでいる。なんとも素晴らしい国際交流の情景ではないか。海外の姉妹・友好都市から友好・参観にやってきた人びとは、まず県都で交流の時をすごし、地方を代表する文化に接する。
それからそれぞれの「友好市町村」を訪れて、目的である文化やスポーツや物産に関する交流の時をすごす。海外からの客人たちは、さらに各地にある温泉施設「(仮)国際友好温泉」(名称は随意に)に案内されて、日本式のもてなしを受けることになる。
周辺の市町村が設けるは、四季折り折りの美しい風物や料理や温泉を活かした「地域のコア(核)施設」である。海外からの訪問者は、「人生に一度は行ってみたい」と心躍らせてはるばるやってくる。「人生っていいな。日本ってすばらしいな。別の季節にまた来たいな」と、野天風呂につかって暮れなずむ異郷の空を眺めながら、母国語でつぶやいてくれる。地元の高年者のみなさんが、だれをも等しく親しく迎える姿は、海外の一人ひとりの友人の心の中に、暮れなずむ星空を見上げるたびに、一生のあいだ輝いていることだろう::。
これはとくに重要な視点であるが、迎える側のみなさんが、四季を「四つの変化」として際立たせることによって、遠来の客人たちは春・夏・秋・冬(新年)の四回は訪れる楽しみを持つことになる。いうなれば、四季を時節の刻みとしてすごす高年世代の人びとの暮らしの知恵が、ここでは「優れた小国」の知恵として、「狭い国土を四倍に見せる法」となるのである。 
「優れた小国・文化大国」
わが国の市町村と海外の市町村との友好的な交流は、援助額では世界二位という巨額なのに国際貢献の評価が低いODA(政府開発援助)支援にはるかにまさる実質的な成果をもたらしていることは確かである。
北九州市が提案した「大連市環境モデル地区計画」がODA案件として国との共同事業となり、両市とも国連環境計画UNEPから「グローバル500」を受賞するという成果をあげたように、いま中国との関係ではODAを減らすのではなく、中国の抱える悩みをともにする支援を、自治体同士を通じた「地域から地域へ」の援助とすることで、貢献度は見違えるほど明らかになる。とくに「開放政策」によって生じた地域格差で取り残されている内陸都市の農村への援助(宇治市による咸陽市など)は、小さくとも友好の絆はいっそう太く深まる。
国は、地方への財源と権限移譲のひとつとして、とくに海外友好活動への支援を明確にすることで、実効のある「中央から地方へ」の潮流を呼び起こし、「国が輝くだけでなく、自治体によって国が輝く時代」への施策をすすめることだ。
とこうするうちに、経済成長をなし遂げた「優れた小国」の高年者が発揮する技術援助や人的交流への貢献が、国際レベルでの日本への信頼を着実に形づくっていく。そして何より喜ばしいことは、海外の市町村との地道で実質的な交流活動が、その経過においてわが国が、
「恒久平和をめざしている優れた小国・文化大国」
であることを、海外各地からの発信によって明らかにしてくれることである。「文化大国」なら大国意識を競っても誇ってもいい。 
*・*さびれた中心街の活性化*・*  
「モノと暮らしの情報源」
二〇年ほど前までは、あれほど地域住民みんなに親しまれていた商店街だったのに。
「ここまでさびれちまった商店街にもう未練はないね」と通りすがりの人から言い放たれるのが一般的。「シャッター通りになんか同情しない、コンビニとスーパーがありゃいいじゃん」と若者から無視されるのが風潮。
M市駅前通りにも「みんなに親しまれる商店街」というキャッチフレーズは掲げられているが、空き店舗が目立つ商店街は、活気が間引かれていて親しみようがない。歩いて商店街にいっても楽しくない。ものを買うだけなら、家にいたってインターネットの「電子モール(商店街)」、テレビ・ショッピング、それに通販。クルマで外に出れば、バイパス沿いに大型スーパー、ファストフード店、町なかには駐車場設備のあるコンビニが網をはっている。変幻自在なこういう商品流通の包囲網のなかで、旧市街から駅へ通じる駅前通り商店街はさびれるにまかされてきた。移動がクルマ中心になる一方で、日用品が国産から安価な途上国商品になるという多重攻撃にさらされて求心力を失い、顧客の足が遠のいていった。
一九八二年が小売店のピークだったという。そのころは全国に一七二万店、商店街は一万四〇〇〇カ所あったという。数もそうだが街に人をひきつける活気があった。元気がもらえたのである。歩行型住民にとって「モノと暮らしの情報源」であった中心街の崩壊。 
「地域の顔の活性化」
まず細々と商いをしていた小売店で儲けが出なくなり、投資ができなくなり、将来に魅力を失って後継者がいなくなった。明らかな「構造の問題」だったが、原因は商店主の才覚の有無に封じこめられ、煤を払った神棚にむかって創業の先人に不明をわびながら、商店主たちは店を閉じたのだった。じわりじわりと鉄道客やバス客が減りつづけ、商店の店じまいの時間が早くなった。それとともに商店街に防犯用シャッターが増え、街を歩く人びとへの親しさを閉ざしたのは商店街のほうだった。めっきり人通りが減り、店内で話し込む客の姿も少なくなった。
中心街の道筋の中心にどっしりと店を構えていた古手の商店までが、「え、あの店も?」といった話題になりながら消えていった。
まことに惜しまれるが、その中には江戸期からの歴史を持ち、「地域の顔」を支えていた特産品の毛筆・べっこう・陶磁器といった工芸品の店、呉服・和紙といった伝統品の有名老舗までが失われていったのである。地味に地方出版を手がけて、地域文化の拠点となってきた老舗書店も、大型店舗の出店のあと、しばらくして灯りを消したのだった。
そしてついには地方の流通を支える砦であり、地域住民に馴染みの濃かった地元資本の百貨店が、宇都宮市の上野百貨店や和歌山市の丸正百貨店といった有名店舗の経営不振が伝えられるのと前後して倒産し、市民に商品流通の変貌を納得させることになった。
  二〇年ほどでこうも変わるものか。
それなら、これから二〇年でどう変えればいいのか。さびれた中心市街地を回復させようという「中心市街地の活性化」のための「中心市街地整備改善活性化法」が遅きに失してスタートしたのが一九九八年七月だった。(二〇〇七年四月に「中心市街地活性化基本計画認定申請マニュアル」を改定)
街を構成する商業者、地域住民、それに市民団体、企業、専門家などが参画して「中心市街地活性化基本計画」を確定して推進するもので、これまでに「基本計画」を提出したところは、六三〇市区町村を超える。決して少ない数ではないし、対象地区には県庁所在地や中核市から小さくとも歴史的な城下町や宿場町、門前町、港町などがそれぞれ独自の活性化に取り組んでいる。知恵をしぼってアイデアを競って「特性のある市街地づくり全国コンペ」といった観すらある。問題は「街の高年化」をどう取り込むかにある。
城下町では「街なか回遊」(彦根市)・「回廊」(会津若松市)、港町では「みなとみらい21・OLD&NEW」(横浜市)・「港町スクエア」(気仙沼市)・「海DO戦略」(下関市)、そして「まるごと博物館」(有田町)、「都市型高感度市街地」(宝塚市)・「体感スポット点在のまち」(久留米市)、「ファッション・ジュエリー都市」(甲府市)・「リ・グラスのまち」(水俣市)、「こみせ・まちづくり」(黒石市)・「詩情公園都市」(小諸市)・「市(いち)の復権」(市原市)、「まちんなかづくり」(臼杵市)・「へそのまちのへそづくり」(富良野町)・・。
街並みや商店街の整備、歩きやすい環境づくり、いこいの場の設置、観光資源や歴史資源の活用、イベントなどに特性を活かしたまちづくりが企図されており、外づらの目立つ成果は処々で姿をみせつつある。
しかし注意しよう。事業がこれまでと同じ手法を踏襲しているところ、つまり中央官庁の監視のもとで、自治体が主導し、商店街の代表とコンサルタントと建設業者が合議し、おかかえ学識経験者が追認するという形で進行して「基礎構造の整備」を完了したところから、さあ住民参加とするような旧態の手法では、中心街としてよみがえることはない。結局は不況下での施行業者救済のための「公共事業」として終わることになる。それは「活性化された中心街」の姿をみればすぐわかる。 
*・*買い物と遊歩を楽しむ「四季型中心街」*・* 
「駅前通り商店街」
何代もかかって、あの戦災を乗り越えて形づくられてきた商店街だったのに、わずか二〇年余でさびれてしまうなんて、何が起こったというのだろう。
全国各地の「駅前通り商店街」(「銀座通り」も多くある)では、毎朝みずから店の前を掃除している商店主の姿が見られ、通りがかりの人へのあいさつに変わりはないが、心中は思いやられる。緩やかな下降のあと、ここ数年はとくに目立って赤字がかさみ、回復のメドも手立てもない。先が暗くても必要としている地域住民がいるかぎり、老舗としてやめるわけにはいかないところまできている。いまわずかに期待をかけている「中心街活性化」だが、構想までの議論は進んだが、そのあと停滞したままだ。
活性化支援事業の中心になる人物を、国では「街元気リーダー」と呼ぶようだが、やや味気ないので、本稿では敬愛して「地識丈人」と呼ぶこともある。
この二〇年の「さびれの経緯」を噛みしめてよく知っている高年者同士である「商店主」と「高年者住民」がともに参加して「基本計画」をつくる。そのプロセスに、商店街を中心とする「街の高年化」への契機が見えるからである。 
「歩行生活圏と車行生活圏」
ここは活性化支援事業にかかわる「街元気リーダー」(地識丈人)のみなさんに聞いてもらいたいところだが、「基本計画」のいう活性化が実現されたあと、「中心市街地」を中心になって支える人びと、つまり安全な「歩行生活圏」で暮らす人びとはだれかということ。「車行(クルマ)生活圏」を持たない人びとによる「買い物+遊歩空間」の形成だということである。
全国のまちづくりの中にも、「歩くまち」(秩父市・倉敷市・安来市など)はテーマになっている。高年化社会への移行を見越して、「買い物空間にとどまらず、心地よく歩いて過ごせる時間消費型の生活圏をめざす」として、街を歩行者モール化する都市もある。
おもな利用者は、日課として小一時間ほどの散策に出動し、暮らしの情報源とする高年の人びと、日用の買い物をする母親たち、それに安全な「居場所」をえた子どもたちである。
「街に子どもたちの姿や歓声が聞こえないようなら活性化に明日はないですよ」と商店会を代表して「基本計画」作成に参加しているUさんは熱意をこめてそう語る。日課としてやってくる人びとが安全に過ごせる歩行生活圏の中心街。おじいちゃんと孫が、母と子が、安心して散策や買い物や遊びを楽しめる「三世代のための交流のステージ」である。 
「三世代四季型の中心街」
ここが「市街地活性化」の重点だが、街の景観として「地域の四季」を組み込んだ「四季型中心街」であることだ。「家庭内の高年化」対応のところで「地域の四季」を存分に取り込む暮らしについて述べたが、家から出てすごす中心街にもまた、はっきりと「地域の四季」を感じさせる仕組みが必要なのである。
まちづくりの中にも「歳時記の感じられるまち」(長岡市)や「歩いて楽しむ街、四季が感じられる街」(盛岡市)をめざすところがある。
これまでは「歳末」(冬)と「中元」(夏)の二季だけだった催事を、季節ごとの「四季の催事」として構成し直し、住民が季節ごと「折り折りの街空間」を楽しみにしてくり出し、さらに次の季節への期待を抱けるような演出に、賑わいを取り戻す契機がある。その演出者は地元の「街元気リーダー」(地識丈人)である「商店主」と「高年者店員」と「高年者住民」が担う。二季型から四季型へ。そしてさらに「三世代四季型の中心街」へ。これなんですよUさん。
しかし商店会代表のUさんは、首をタテに振らない。理屈としてはわかるのだが、年二回でさえもすぐ次がやってくるというのに「年に四度はムリ」という。ムリして二度ではなく、ムリなく四度、あらたに参画する高年世代が「季節ごと四つのわがまちの景観」を街空間に取り込むんで賑いを呼び戻すのだが。Uさんは首をタテに振れない。
四季折り折りの風物を取り込んだ春・夏(中元)・秋・冬(歳末・新年)を表現する祭事・催事が組み込まれ、季節の装飾がほどこされる。「三世代四季型中心街」の演出のために、わが町の歴史・伝統、産物、風物、人物、文化、芸能、技術といった「地域の特性」に目を配り、「わが中心街」の態様として取り込む。こんなまちづくりの日々を、わが人生と重ね合わせる地元の高年者の活動の成果が期待される。
街の「三世代四季型の商店街」の重要なテーマに子どもたちの居場所である「少年期のステージ」づくりがある。たとえば遊具を固定せず子どものアイデアを取り入れて変化させる児童公園や「一八歳以上はお断り」といった「ブック&ゲーム・センター」。好きな本やメカやソフトに存分に触れながら、友だちと歓声をあげて楽しめる。そんな子どもたちのための安全な居場所づくりは、まちを活性化する重要なテーマである。 
「死に筋商品」
ここで暮らしを支える日用品の流通の業態についても触れておきたい。
流通の主役が二〇年前にデパート(三越)からスーパー(ダイエー)へ、そしていまコンビニエンス・ストア(セブンイレブン)へと移ってきたが、たしかに二四時間営業のコンビニほど近隣住民にとって頼りになるものはない。トップ企業の「セブンイレブン」は全国で一万店舗を展開し、日々、レジで男女別・世代別の売れ筋をチェックして選別し、次々に新製品を投入している。売れない「死に筋商品」は店頭から姿を消してしまう。客は店頭にあるモノ以外には期待できない供給側主導の流通である。優越的地位の乱用は常に潜在している。
こんな供給側主導の流通がいつまでもつづくはずがない。高年者といわずユーザーが求めるのは、コンビニエンス(便利)であるばかりではなく、継続して必要とする商品が入手できることや地域の特徴をもったものや、店頭にある商品にはていねいに説明に応じてくれる「商品知識豊かな店員」がいる店である。 
「(仮)地域流通スクエア」
「商店主」と「高年者店員」と「高年者住民」の協議によって地元商店会が経営するのが「(仮)地域流通スクエア」である。お互いに「カオが見える流通」の拠点であり、商品性の高い「地場季節商品」を主力商品としながら、スーパーやコンビニでは入手できない超コンビニ商品を提供し、地域の人びとの要望をサポートする。商品知識の豊かな店員がいて、高年者が継続して利用する日用品の注文と配達を一手に引き受ける。「中心街の中心核」として、会員である個別商店はもちろん、市役所や郵便局や銀行や病院や学校といった公共機関・施設などとの情報をネットでむすんでいる。
「街の景観」に地域の四季を導き入れ、暮らしの情報源としての「三世代四季型の中心街」を組みこむことで、「中心街の求心力」をつくりだす。そして遠からず「スーパー(超)・スーパー」といえる流通機能をもつ二四時間営業の「(仮)地域流通スクエア」(名称は随意に)が登場するだろう。 
「買い物+遊歩空間」
わが街が次の季節の訪れが待たれるような「三世代四季型の中心街」として活性化されることになれば、「クルマ生活圏」と共存する「歩行生活圏」として親しまれる「わがまちの中心街」が再生され、やがて創生されることになる。
「商店街って、おもしろいじゃん」と、通りかかった無季節・無機質そだちの若者たちがいうだろう。高年者が意識して日課として動き出すとともに、地域の中心街もまた動き出す。三世代の住民が生活圏にある「買い物+遊歩空間」をたいせつにするうちに「三世代のための四季型中心街」への変貌がすすむ。近隣に住むだれもが小一時間ばかり、散策や買い物や遊びのためにやってくる。「季節の風物」に安らぎながら、ふと出会った知人と気軽に会話を楽しみ、テラスで一杯のコーヒーと店の自家製ケーキを、あるいは老舗で一服のお茶と和菓子を味わう。高年者同士ひとときお国ことばで語りあい、暮らしの声や音を快く聞き、子どもたちの遊ぶ声を聞き、街の臭いを胸に収めることができる街。みんなでつくるそんな「三世代四季型中心街」なら、今日にでも行ってみたい。 
「シニア専門放送局」
「高年化社会」で暮らす高年者にとって愉快なのは、地元の高年者からの要請を受けて地元のテレビ放送局がすすめる「番組の高年化」である。地域情報を提供するメディアである各地のテレビ放送局が、高年者に特化した「シニア番組」を構成する。キャスターは若づくりを気にせず、本音で語り、出演者と本気で切り結ぶ番組をつくることになる。
生活感に欠けるスプライト(妖精)系の美人アナや物知り顔で舌先なめらかなコメンテーターのかわりに、トツトツとしたお国訛りの語りのうちに経験や知識が光るような人物が中心の番組がいい。現場からの生活感ある情報がナマで伝わるような番組をどしどしつくることだ。
高年者向けコマーシャル製品はいくらでもあるから、広告収入の心配はいらない。高年者が登場するコマーシャルが画一的なのは、出演する側の脇役意識や没個性な扱い方に原因があるが、若い現役の制作者に「高年化社会」に対する想像力が欠如していることが最大の理由である。高年制作者が担当する「シニア専門放送局」が、こまやかな風合いの生活感をもつシニア向け放送をおこなうようになるだろう。
大都市のホテルで、外国からの客人がふと見た映像がこんな番組やコマーシャルだったら、日本人の知性の深さと高年期の人生にかける情熱を知り、「平和で自由で歴史と未来のある国」として率直に認めてくれるにちがいない。